京都の異界を歩く

ちょっと変わった京都の探訪記です

安倍晴明を歩く(その1)〜上京編〜

平安時代陰陽師安倍晴明。今や知らぬ人もいないだろう。映画やアニメ化までされ大人気だ。京都を代表する"異人"といって良い。

その住居も職場も上京にあった。朝廷の陰陽寮で働いていたので、官職にまつわる史跡も多い。そこを歩けば実像が分かってくるだろう。

※「安倍晴明を歩く」と言っておきながら、それ以外も寄り道しまくる事、あらかじめご了承いただきたい。異界があれば寄る主義なのだ。


大極殿跡から歩き始める

安倍晴明は朝廷の陰陽寮で働いていた。今でいうサラリーマンみたいたもの(笑)。その職場は、天皇もいました大極殿にある。まずはそこからスタートしよう。




大極殿跡(その1)。現在、その中心とされる所は公園になっていた。明治28年に平安遷都1100年を記念して建てられたという巨大石碑も建っている。その仰々しさはいかにも明治らしい。

だがよく見ると、公園の周囲は普通の住宅街じゃないか。長屋が密集していて、洗濯物まで見える。羅城門のときも思ったが、この生活感溢れる雰囲気こそ、"重層化された京都" にふさわしい。




大極殿跡(その2)。公園には丁寧な説明看板まである。これは嬉しい。それによると、大極殿の範囲がよく分かる。実際はかなり広かったようだ。

ただ平安後期にはもう使われなくなり、天皇の執務場所は白河や鳥羽などへ移っていく。誰もいなくなり、荒れ果てて、やがて打ち捨てられた。

今昔物語によると、荒れ野と化した大内裏は、妖怪の棲む場所となり、人は恐れて近寄らなくなったという。そのため庶民の野糞が絶えなかったとか。




大極殿跡(その3)。公園の千本通側の出入り口にも、古めかしい石碑がある。これも明治に建てられたものだろう。

大極殿がどんな建物だったか知るには、平安神宮に行けば良い。明治になって、大極殿を模して建てられたからだ。




大極殿跡(その4)。さらに公園の丸太町通側の出入り口にも大極殿跡の石碑がある。隣の説明看板も含めて、これはちょっと新しいようだ。




大極殿跡(その5)。平安宮朝堂院跡とある。朝堂院とは朝廷の中枢部。今でいう内閣みたいなところだろうか。

では次の目的地の陰陽寮跡地へ行くために、千本丸太町交差点へ向かおう。


千本丸太町交差点

千本丸太町交差点に着いた。ここはあちこちに説明看板が設置されている。大変ありがたい。早速見て回ろう。




千本丸太町交差点(その1)。角の植込みの中に大極殿の説明看板がある。かなり新しいので、近年整備されたものだろう。




千本丸太町交差点(その2)。その横には比較的新しい大型の説明看板。平安神宮のモデルが大極殿ということが書かれている。




千本丸太町交差点(その3)。ここで千本通を横断する。この道はかつての朱雀大路。つまり平安京のメインストリートだった。大極殿の正門である朱雀門はもう少し南にあるはずだ。




千本丸太町交差点(その4)。渡り終えると、また大型の説明看板があった。今度は千本通の名前の由来が書かれている。この道は、死者を葬送地へ送る道だったので、千本の卒塔婆を建てた。そこから名付けられたという。


陰陽寮

安倍晴明が働いていたのは、大極殿の中の陰陽寮という組織だ。それは千本丸太町交差点の東側にある。早速向かおう。




丸太町通を東へ歩くと、「平安京中務省築地跡地」という説明看板と石碑がある。陰陽寮中務省の一組織なので、この辺りが陰陽寮跡地とみて間違いないだろう。

それにしてもマンションのエントランスの端っこに、小さな説明看板と石碑があるだけだ。天下の安倍晴明の職場跡にしては寂しくないか。まぁ別に良いけど。


浄福寺通を北へ

では次の目的地である晴明神社へ向かおう。ここから浄福寺通を北へ向かえば良い。だがその前に次々と"異界"が現れる。寄らない訳にはいかない(笑)




という訳で、浄福寺通を北へ向かうと、すぐに「平安宮内裏南限と建礼門跡」という説明看板がある。ただし実際の門跡は東へ30mの所らしい。

余談だが、京都では "通り"のことを"通"と書く。なので"浄福寺通"。ただし読み方は、普通に"とおり"のまま。いや、京都は本当にややこしい。




続いて「平安宮内裏宜陽殿跡」という石碑。この辺りは内裏の中なので、色々な建物があったのだろう。

それにしても、内裏という天皇のいました場所なのに、駐車場や住宅などというのは、さすが京都らしい。




今度は「平安宮内裏綾綺殿跡」という石碑。一つ一つに建てられているなんて凄いね。ところで、この石碑は良い感じの町屋の前にある。次の写真だ。




これが全体像。なんとも素晴らしい町家ではないか。明治の頃の築だろうか。こんな町家が普通に建っているなんて、本当に京都は素晴らしい。


西陣空襲被爆

どんどん北へ歩いていくと西陣空襲被爆地に出る。京都に空襲があったことを知らない人は多い。中止命令が出るまで、西陣太秦、馬町などに落とされていた。

死者も多数出たほどの惨事だったが、東京や大阪ほど多くは無かったため知られていない。それどころか「京都に空襲は無かった」という俗説まで流布されていた。




西陣空襲被爆地(その1)。ここには看板の他、説明パンフレットなども貼られている。こうした地道な活動をしている人に敬意を表したい。

ところでかつては、「京都に空襲が無かったのは文化財が多かったからだ」などという俗説が流布していた。今では明確に否定されている。

その後明らかになったのだが、京都にも原爆を落とす計画があり、その原爆被害を正確に測定するために、空襲は早期に中止されたのだ。




西陣空襲被爆地(その2)。アメリカは「終戦を早めるために原爆を落とした」と言っていたが、それは嘘だった。実際は、日本の都市を使った"残酷な実験"に過ぎなかった。

原爆の候補地は十数ヶ所あったらしい。広島と長崎に落とされた後、もし降伏しなかったら、次は京都を含む候補予定地に落とされていた。文化財も何も関係なかった。


赤レンガ路地と西陣ろおじ

さらに北へ歩いていくと、赤レンガ路地と西陣ろおじに出る。よく「京都は路地が面白い」と言われるが、まさにその通り。ここもとても魅力的だ。




赤レンガ路地(その1)。たまたまこの標識を見つけた。何だろうと入ってみたら・・・




赤レンガ路地(その2)。こんな感じで素晴らしい。おそらく明治後期か大正だろうか。京都人は新しいもの好きなので、レンガが日本に入ってきたら、すぐに導入された。

それにしても古ぼけた感じがとても良い。決して綺麗ではない。この汚れ感もワザと残したのだろう。よほどの"粋人"が関わっているのか。このまま残してほしい。




赤レンガ路地(その3)。奥に続く町家も良い感じだ。これも明治後期か大正だろう。一番奥の突き当たりはクラフト作家たちの拠点(貸し工房)になっているようだ。さすが西陣




西陣ろおじ(その1)。今度は左側に小綺麗な路地が現れた。「西陣ろおじ」と書いてある。ショップでも並んでいるのか、と思って入ってみたら・・・




西陣ろおじ(その2)。傘屋さんとか髪結とか並んでいる。やはりショップの複合施設のようだ。

と思ったら・・・。体験型宿泊施設だった。どうりで綺麗すぎる。いゃこれはこれで面白いけど。


浄福寺

味わい深い施設を堪能しながら歩いていると、やがて浄福寺に到着する。奈良時代末期の開創という古刹だ。

ただ「明治維新を歩く〜西陣編〜」で詳しく説明したので、ここでは本堂と護法堂の紹介のみにとどめよう。




浄福寺(その1)。この本堂は享保年間の建立という。京都市指定有形文化財。その巨大さには本当に圧倒される。

なお幕末は、薩摩藩が屯所として使っていたらしい。血気盛んな薩摩藩士の付けた刀傷が残っているそうだ。




浄福寺(その2)。護法大権現を祀っている護法堂。天明の大火の際、天狗が火を消してくれたという。

それ以来、仏法を護ってくれる守護神(護法大権現)として、ここに天狗が祀られているらしい。




浄福寺(その3)。お寺の東方を護る赤門を見ながら、このお寺ともお別れしよう。遠くからも目立つので、浄福寺は別名「赤門寺」とも呼ばれているらしい。


浄福寺から東へ

ではここから東へ向かって、晴明神社を目指そう。ここからは明治維新を歩く〜西陣編〜と一部ダブっているが、気にしない。




すぐに良い感じの町家が現れた。とても煙突が多かったが、一体この町家は何だったのだろう。表玄関を見ても何も書いてなかった。




そのまま東へ。右側の白壁は蔵造りの建物。その先には戦後の町家と明治頃の町屋が並んでいる。とにかく普通に凄い。




やがて堀川通に出た。水路の堀川に沿って作られた道だ。平安京の時代からあったという古道だが、今はマンションが建ち並んで面影は無い。


晴明神社

堀川通を右折すると、すぐに晴明神社に到着する。安倍晴明を"神"として祀る神社だ。晴明の人気上昇とともに訪問者も絶えないらしい。実際、僕が行ったときも女性を中心に参拝客が何人もいた。早速見て回ろう。




晴明神社(その1)。堀川通に面して聳え立つ大鳥居が目印。特に鳥居中央の五芒星は異彩を放っている。

ところで現在の神域は意外と狭い。神社の公式サイトによると、安倍晴明の屋敷跡に造られたという。

だが、その後の研究により、屋敷跡は、今の京都ブライトンホテルの場所にあった事が分かっている。

公式サイトは書き換えた方が良いのではないか。そんなことを思いながら、早速くぐってみよう。




晴明神社(その2)。入るとすぐ左側に、一条戻橋のミニチュアが造られている。実際の部材を使って再現されたものらしい。

本来の一条戻橋はすぐ近くにあったので、そこに行った方が感じるものがあるのではないか。もちろん後で行くつもりだ。




晴明神社(その3)。こちらが本殿。ところでここは土御門神道の系列かと思ったら、普通の神社庁の系列だった。まぁ別にどちらでも良いのだが。

知らない方のために言っておくと、安倍晴明の末裔は代々、土御門家を名乗り朝廷に仕えてきた。しかし明治維新後、陰陽寮は廃止され職を失った。

そこで土御門家は「土御門神道」という宗教団体を立ち上げ生き残った。神社本庁とは別の組織だ。その土御門系列の神社もあるのでややこしい。




晴明神社(その4)。正面左側には、安倍晴明の坐像もあった。

映画では野村萬斎が晴明役だったため、安倍晴明というと細面(ほそおもて)のイメージが付いてしまった。

しかし実際の晴明は、ご覧の通り、割と"ふくよか"な顔立ちだ。小太りの中年オヤジといった感じだろうか。




晴明神社(その5)。境内には「晴明井」という井戸もあった。"病気平癒のご利益" があり、今でも水は飲めるらしい。フタにデカデカと描かれた五芒星が目立つ。

他にお札などを売っている売店もあったが、土産物らしきものまで売っていて、女性客が大勢いた。もはや異界とは言い難い雰囲気だったので、早々に後にする。


一条戻橋

晴明神社を南へ歩くと、すぐに一条戻橋に到着する。こここそ本来の橋があった場所だ。平安時代陰陽師、浄蔵が祈祷して、死者を蘇らせた事があるという。そんな伝説から"戻り橋"と名付けられた。早速見てみよう。




一条戻橋(その1)。平安時代からここにあったという一条戻橋。今あるのは新しく架け替えられたものだが、"地霊" は残っているはずだ。

そう思うと、何やら"おどろおどろ"しく感じる。金ピカ感のあった晴明神社より、こちらの方がよほど "異界" らしい。気のせいでは無い。




一条戻橋(その2)。たもとには桜の花が満開だ。はかなくも美しい。そしてその手前には駒札もあり説明してくれる。

安倍晴明は、この橋の下に十二神将を隠しておいて、必要な時に呼び出して呪術を使ったという。晴明にも縁の深い橋だ。




一条戻橋(その3)。今は周りもマンションだらけだが、昔は凄惨な場所だった。例えば戦国時代、豊臣秀吉は島津歳久と千利休を、ここに"さらし首"にしたという。

また秀吉は、"日本26聖人" と呼ばれるキリスト教殉教者も、ここで"見せしめ"に耳たぶを切ったという。他にも沢山あるようだ。とにかくここはそんな場所だった。


一条戻橋から東へ

ではここから、最終目的地の安倍晴明邸跡へ向かおう。ただ、その前に興味ある場所が次々と現れる。それらは" 明治維新を歩く(西陣編)" で詳しく説明したので、今回は写真程度のみに留めておく。




という訳で、一条戻橋の南側に下ると、素晴らしい石橋があった。第一堀川橋。明治6年に造られた石造アーチ橋だ。御所と二条城を結ぶ重要路だったらしい。




その隣に見事な町家が建っていた。新光社と書いてあるが、職人さんの家だったのだろうか。建てられたのは明治時代に間違いあるまい。




どんどん東へ歩いていこう。「長宗我部はま子バレエ学園」という建物もあった。後で調べると、バレエのスターだったようだ。




さらに東側に初代上京区役所跡。




会津藩洋学所跡というのもあった。幕末の会津藩士、山本覚馬がここに洋学所を開いたらしい。

覚馬は後に、新島襄とともに同志社大学設立に関わった。会津藩の重要人物と言えるだろう。


ブライトンホテル京都

ようやく到着した。「会津藩洋学所跡」の東側に、「ブライトンホテル京都」がある。ここが最終目的地の安倍晴明邸跡だ。

実際に晴明はそこに住んでいた。ここから朝廷まで通っていた、ということになる。どんな所なのか。早速入ってみよう。




ブライトンホテル京都の敷地は広い。実際はどの辺りだったのだろうか。ホテルに入って、黒服のスタッフに聞いてみた。

すると「西南側の駐車場辺りだったようですよ」と教えてくれた。さすが一流ホテル、教え方も丁寧だった。ありがたい。




という訳でやって来た。ここが正式に安倍晴明邸跡だったらしい。平安時代陰陽師として活躍した安倍晴明。その邸宅跡が分かるなんて、さすが京都らしいとも言える。

さて実像の安倍晴明は、官人として、ここから朝廷の陰陽寮まで通っていた。いわばサラリーマンのようなもの。数々の伝説は後から加えられた。当然、映画やアニメも然り。

やはり実像と虚像は違う。普通の平凡な駐車場を見て、しみじみと思った。しかし何故、虚像が生まれたのか?それこそ最大の謎で興味だ。次回は虚像の晴明を見て回ろう。


〜 終わり 〜


安倍晴明 #京都歴史散歩 #清明神社

明治維新を歩く(その9)〜岡崎編〜

明治維新を語るとき、会津藩を抜きにしては語れない。会津藩の果たした役割は本当に大きかった。それは京都守護職に任じられていたからだ。

会津藩士1000名は京都の岡崎に駐屯した。そして薩摩軍を主体とする新政府軍と戦った。彼らは会津から遠く離れた京都の地で死んでいった。

滅びゆくものだったから、日本人の心に響いたのかもしれない。彼ら会津藩士のお墓は岡崎にある。今回は、そこを最終目的地に回ってみたい。

※「明治維新を歩く」と言っておきながら、それ以外も寄り道しまくることを、あらかじめご了承いただきたい。"異界" があれば寄る主義なのだ。


京阪三条から歩き始める

岡崎はいろんな歴史を持っている。平安時代には院政の舞台になり、白川殿や六勝寺などができた。幕末には薩摩藩加賀藩など多くの藩が藩邸を構えた。

明治に入ると琵琶湖疏水が引かれ、平安神宮も造られた。さらに美術館や文化会館などの近代建築も建てられ、京都有数の文教地区として今に至っている。

そんな岡崎の西南端の京阪三条駅から歩き始めよう。東北端の会津藩墓地まで、岡崎を斜めに横断する事になる。その間、様々な異界が待っているはずだ。




京阪三条駅を出ると、目の前に高山彦九郎の像が待っていた。江戸時代の尊王思想家で、幕末の志士に大きな影響を与えたと言われている。この像は御所に向かって遥拝しているらしい。




会津藩墓地は東北方向にあるのだが、せっかくここまで来たので、三条大橋を味わっていく事にした。という訳で、鴨川を渡り始めよう。




三条大橋の途中には有名な"もの"がある。擬宝珠に残された池田屋事件の刀傷だ。新撰組の名を天下に轟かした事件だが、その乱闘で当たった刀傷らしい。ちなみに池田屋事件は、映画「蒲田行進曲」でも有名。




そのまま三条大橋を渡りきると、弥次さん喜多さんの像まである。ここは江戸から始まった東海道の終点だった。東海道中膝栗毛だね。




弥次さん喜多さん像から北へ渡ると、「船はしや」という菓子司がある。明治17年創業のあられ豆菓子専門店だ。

建物は昭和初期の町家造りのようで品格がある。左隣の箒屋さんと2軒並んで町家造店舗があるというのは凄い。




三条大橋の西詰には、高札場と石柱の駒札があった。かつてここに高札場があった、という事らしい。




それでは三条大橋を戻ろう。遠くに東山三十六峰の山並みも見えて良い感じだ。


王法林寺

三条大橋を渡りきると、すぐに檀王法林寺というお寺がある。鎌倉時代の創建という古刹らしい。行ってみよう。




王法林寺(その1)。入り口が見えてきた。正面の門は三条通に面しているので、三条門というらしい。明治21年建立。

ここではないが、西側にある川端門は、有栖川宮親王の寄進により、明和3年に建立されたという。宮家由縁の寺なのだ。




王法林寺(その2)。三条門をくぐると立派な楼門が待っていた。その豪快さは本当に見事。なお、門上部に掲げられた扁額「朝陽門」の文字は、山階宮親王の御筆という。やはり宮家由縁だ。明治21年建立。




王法林寺(その3)。こちらが本堂。ちょうど訪ねたときは何かの工事をしていた。建立は寛政3年頃というから、相当古い歴史的建造物だ。京都市指定重要文化財


安倍晴明ゆかりのお寺「心光寺


王法林寺の東隣には心光寺というお寺がある。安倍晴明ゆかりの寺だ。その向かいの超勝寺と合わせて寄ってみよう。




心光寺(その1)。正式名称は法城山晴明堂心光寺という。平安時代安倍晴明が、鴨川治水のために、法城寺というお寺を松原橋付近に建てたのだが、江戸時代に洪水で流された。そこで、この地に移転してきたという。そのため、「法城山」であり「晴明堂」である訳だ。安倍晴明はブームになったので、時々ファンが訪れるらしい。




心光寺(その2)。ひっそりと静まり返って、良い感じのお寺だ。いずれ、「安倍晴明を歩く」というのをやるつもりなので、そのとき詳しく紹介しよう。




超勝寺(その1)。道路をはさんだ向かい側にも大きなお寺があった。超勝寺というらしい。門のデザインが独特だが、大正時代か昭和初期の築だろうか。




超勝寺(その2)。ここも江戸時代の創建という古刹らしい。伽藍も立派だ。ただ非公開なので、今回は遠くから眺めるのみ。


孫橋通を東へ

超勝寺の北側に孫橋通(まごはしどおり)という道がある。そこを東へ歩き出そう。ちなみに孫橋町があるので、この名前なのだが、何やら由緒ありげな地名だ。ただ由来はよく分からない。




では孫橋通を東へ進もう。右側に、良い感じの町家も見えるね。




柳湯(その1)。すぐ左側に木造三階建ての大きな建物が現れた。「柳湯」という銭湯らしい。残念ながら、既に閉店してしまっているようだ。




柳湯(その2)。それにしても立派な建物だ。中もきっと素晴らしかった事だろう。見てみたかった。




そのまま歩いて行くと、また左側に立派な和風豪邸が現れた。お店ではなく個人宅のようだ。中は窺いしれないが、表だけ見ても素晴らしさが伝わってくる。

特に気になったのは、左端の出窓部分の上部の屋根にあたる所。何やらモルタルで造作している。大正時代か昭和初期のようなデザインだが何なのだろう?




同じ和風豪邸の続き。右端は、玄関部分から連なっていて、長屋門のような構造なのだが、意匠はまるで蔵のようだ。

おそらく蔵として機能させていたのだろう。ただ窓が少なく、換気の必要の無かったものを仕舞っていたのだろうか。


伽藍の見事な要法寺

などと言っているうちに、立派な大伽藍が見えてきた。要法寺というお寺らしい。鎌倉時代の創建という古刹とのこと。早速見てみよう。




要法寺(その1)。まずは西側の山門から。安政5年に移築されてきたもので、それまでは伏見城の門だったという。ではくぐってみよう。




要法寺(その2)。本堂と開山堂が見えてきた。どちらも巨大で本当に立派な建物だ。さすが日蓮本宗大本山の一つらしい。




要法寺(その3)。開山堂をアップしてみた。ちょっと中国風のデザインが入ってるように感じるがどうだろう。天保元年の建立。




要法寺(その4)。本堂もアップしてみた。こちらも安永3年の建立という歴史的建造物。なお手前に石造りの太鼓橋(欄干だけ見える)があるが、それは救済橋という名前で、安永7年の築という。




要法寺(その5)。最後は南側にある山門。享保9年に移築されてきたもので、こちらもそれまでは伏見城聚楽門だったという。伏見城の移築伝説は京都各地にあるが、どれも真実なのだろうか。


要法寺を出て東へ

では要法寺を出て、また孫橋通を東へ歩き出そう。やがて東大路通に突き当たるはずだ。




東大路通。京都を一周する幹線道路の一つだ。かつては市電も走っていたので道幅も広い。洛中と洛外を分ける道とも言われる。

さて、右端に町家が2軒並んでいるが、昭和の築だろうか。どちらも良い感じだ。さらに奥に鎮守の森も見える。ちょっと行ってみよう。




満足稲荷(その1)。このひっそりとした通りに面して、満足稲荷はある。左側に鳥居があるのが分かるだろうか。

実は凄い神社で、文禄年間に豊臣秀吉伏見城の守護神として伏見稲荷大社の神様を勧請したのが始まりという。




満足稲荷(その2)。正面から。現在地に移ってきたのは元禄年間のこと、徳川綱吉公の命だというから、それも凄い。




満足稲荷(その3)。現在は地元民から、"満足さん"と呼ばれ賑わっているらしい。


三条通北裏を東へ

孫橋通から東へ続く道を、「三条通北裏」というらしい。ここからは再び、その道を歩いていこう。白川はもうすぐだ。




ここが三条通北裏。良い感じの狭い路地だ。では東へ向かって歩き出そう。




三条通北裏にある町家(その1)。歩き始めると、すぐに驚いた。素晴らしい町家が連なっているじゃないか。どれも粋で良い感じだ。これだから京都はたまらない。




三条通北裏にある町家(その2)。どんどん凄くなってきた。道の両側ともに町家だらけ。"ここは祇園" と言っても分からないんじゃないか。素晴らしすぎる。ただ、今は宿泊施設になってる所もあるらしい。まぁ、仕方ないけど。




三条通北裏にある町家(その3)。この建物なんて一番ステキじゃないか。昭和に入ってからの築だろうが、粋を感じさせる。今は、左の町家も右の町屋も含めて、全部飲食店になっているらしい。


白川沿いの道を歩く

ついに白川に到着する。これから白川に沿って、北東方向へ歩き出そう。風情があって良い感じの道だ。




白川が現れた。これは南側を見たところ。何とも言えない風情があって良いね。




今度は北側。マンションがあるのは残念だが、まぁ気にせず歩いていこう。




すると川の右側に、凄く良い感じの民家が見えてきた。何なのか?行ってみよう。




近づいてみた。窓の手すりが良い感じだ。さらによく見ると、玄関木戸のアイアンもとてもお洒落じゃないか。白川沿いでこの建物なんて凄いね。後で調べてみたらアクセサリーショップだった。




さらに歩くと、左側に三谷稲荷。これも京都らしいね。


竹中精麦所跡

そのまま歩いていくと、左側に「竹中精麦所跡」が現れる。大正時代から昭和初期まで、大麦を精白する工場があったらしい。

建物は保存されていて、今は文化サロンやレストラン、アンティークショップなどになっているとのこと。早速見てみよう。




竹中精麦所跡(その1)。「時忘舎」という看板が掲げられていて、この中が文化サロンやカフェになっているらしい。ただこの時は閉まっていた。コロナの影響だろうか。

それにしても「時忘舎」(じぼうしゃ)という名前が良いね。ここにいる時だけは、"時を忘れて過ごしてほしい"という意味だろう。いつか機会があれば、再び訪ねてみたい。




竹中精麦所跡(その2)。左側の板塀が竹中精麦所跡。この先にレストランやショップもあるようだ。白川沿いで風情があって良いね。




竹中精麦所跡(その3)。小さな橋が掛かっていた。「もっこ橋」だ。かつて右側にあった製氷工場の職人さんが、もっこを担いで渡っていたから、そう呼ばれるようになったらしい。ちょっと渡ってみよう。




竹中精麦所跡(その4)。もっこ橋の上から眺めてみた。右端に見えるのがレストランとアンティークショップ。残念ながら今回は通過だ。




そのまま歩くと、仁王門橋に着いた。ところで手前に古いコンクリート構造物が見える。これは昭和30年代にあったという児童プールの痕跡ではないだろうか。白川を堰き止めて、プールのように使っていたのだが、おそらくそのための堰の跡だろう。


神宮通を北へ

仁王門通に着いた。ここから神宮通を北へ進むと、平安神宮はもうすぐだ。だがその前にもいろいろ見所がある。




仁王門通川端通から白川通まで、岡崎を東西に横断する通りだ。凄い名前だが、西の方にある頂妙寺というお寺の仁王門から名付けられたらしい。まっすぐ進むと、無鄰菴という有名な庭園があるのだが、今回は通過。目の前の神宮通を左折しよう。




神宮通に入ると、平安神宮の大鳥居が見えてきた。このまま北へ進もう。




すぐに琵琶湖疏水を渡る。有名なので説明するまでもないが、琵琶湖から延々と引かれてきた水路だ。明治に造られた歴史的建造物でもある。

ちなみに、この水流を使って発電も行われていた(今でも夷川に発電所がある)。その電力を使って岡崎を工場地帯にする計画もあったらしい。

残念ながら工業地帯にはならなかったが、そのかわり美術館や図書館、動物園といった文化施設が大量に造られた。その一環に平安神宮もある。




ては平安神宮の大鳥居をくぐろう。この超巨大な鳥居は遠くからでも目立つ。まさに岡崎のシンボルのような存在だ。何と昭和4年に造られた歴史的建造物で国登録有形文化財


京都市京セラ美術館

平安神宮は目の前なのだが、この辺りは素晴らしい歴史的建造物の宝庫で、なかなかそこまで進めない(笑)。

まず右側に現れたのは京都市京セラ美術館。昭和3年に大礼記念京都美術館という名前で建てられたものだ。

日本の公立美術館では最も古いらしい。こんな建物があったら見ない訳にはいかない。国登録有形文化財




京都市京セラ美術館(その1)。昭和3年に京都で行われた即位の大礼を記念して建てられたため、当初は大礼記念京都美術館と呼ばれていたらしい。

太平洋戦争直後は進駐軍に接収されたが、戦後は京都市美術館と名を変え、長らく使われてきた。比較的最近になって京都市京セラ美術館になった。




京都市京セラ美術館(その2)。何と言っても特徴的なのは、洋風建築に和風屋根を載せる、という和洋折衷のデザイン。帝冠様式と呼ばれ、愛知県庁舎や九段会館、琵琶湖ホテルなど、昭和初期の建物に多い。ここはその代表的な建物といえる。




京都市京セラ美術館(その3)。では玄関を入ろう。どこを見てもネオゴシック様式で素晴らしい。京都市は、戦前の近代建築の宝庫なのだが、この建物はその最高峰かもしれない。




京都市京セラ美術館(その4)。2階へ上がる重厚な階段。"近代建築の一番の見どころは階段にある" と僕は思っている。ここもその通り。よく分かっていただけるのではないだろうか。




京都市京セラ美術館(その5)。1階中央ホール。ここは左奥の螺旋階段が特徴的だろう。前田健二郎という人が設計者らしい。

この建物は、京セラが命名権を取得して、京都市京セラ美術館という名前になった。これからも末永く使われることだろう。


京都府立図書館

京セラ美術館の向かい側に、京都府立図書館がある。明治42年竣工という歴史的建造物だったが、阪神大震災でダメージを受けてしまったらしい。

そのため建て替えられる事になったが、ファサード(表側)は、"武田五一の設計" という文化財的価値があるため、そこだけ活用される事になった。

つまり表面の化粧部分だけ残して、後は建て替えるという方法。こういう保存方法はあまり好きではないが、全員を満足させるためには仕方ないか。




京都府立図書館(その1)。という訳で、表面だけ"ハリボテ" のように残った建物。何度も言うが仕方ない。現代社会の病理の表象と思えば納得できるかも。

とはいえ、明治の建物らしい趣きは伝わってくる。縦を基調にした柱のラインとか。何と言っても、設計は有名な武田五一だ。やはりタダモノではないね。




京都府立図書館(その2)。何度も言うが、この手の建物の一番の見どころは階段だ。ここだけでも残してくれてありがとう、と言いたい。ちなみに階段を上がった扉の先は貴賓室だったらしい。




京都府立図書館(その3)。建物内に入ると、建築当時の部材が保存展示されていた。このメダリオンのような物体は天井飾り。欠けているのが悔やまれる。




京都府立図書館(その4)。こちらは職員用通用口の扉。何ていうか、通用口なのに上部がアールで、しかも螺旋模様のアイアン飾りというのは凄い。(ちなみに図書館内は撮影禁止だが、この展示スペースだけはOKだった)


加賀藩邸跡と薩摩藩邸跡

京都府立図書館を出て北へ歩くと、すぐに二条通へ出る。実は、この辺りこそ、幕末に成立した藩邸地帯の中心地だ。

岡崎は、明治以後こそ文化ゾーンになったが、江戸時代までは農村地帯に過ぎなかった。そこに目をつけたのが各藩。

田畑を開発して、薩摩藩加賀藩、越前藩、彦根藩などの藩邸が幾つも建てられた。今からその中心地を歩いていこう。




という訳で二条通を横断した。ちなみに、この藩邸街の詳細を明らかにしたのは、歴史研究家の原田良子さん。彼女の研究成果はもっと知られても良いだろう。実際、今回も大変役立った。




二条通の南側は加賀藩邸跡。今は面影も無い。ところで左側に見えるのは交番だが、何となく近代建築風に見える。縦を強調した窓のラインとか・・・。おそらく意識してると思うのだがどうだろう。




そして北側は薩摩藩邸跡。正確には岡崎屋敷跡というらしい。ただ、ここにあったのは屋敷というより、練兵場だったという事が分かっている。さらに慶応4年頃には薩摩藩も引き払って、横須賀藩や秋田藩、富山藩などの藩邸になったとのこと。あまり重要視はされてなかったようだ。




北側には平安神宮と書かれた巨大な石柱も建っていた。いかにも古そうだが、平安神宮自体は明治28年に創られた比較的新しい神社だ。




遠く正面に平安神宮の応天門が見えてきた。ここから参道を歩いていく。ところで、この日は何かイベントをやっているようで、左右に出店のテントがずらっと並んでいた。まぁ何となく観光地らしいね(笑)。当然だが、ここが薩摩藩邸跡だったという面影はまったく無い。


京都市美術館別館とロームシアター京都

とはいえ、まだ真っすぐ平安神宮へ進む訳にはいかない。この辺りは興味あるものが多すぎる。平安神宮は目の前だが、もう少し寄り道しよう。




まず見えてきたのは京都市美術館別館。元々は昭和5年に、京都市公会堂東館として建てられたものという。それが京都会館別館になり、今の美術館別館になった。




続いて正面から。なんとも言えない和洋折衷のファサードは、遠くからでも目立つ。建築ファンなら垂涎ものだ。特に玄関上部の唐破風などは迫力がある。




その隣にあるのはロームシアター京都。昔は京都会館と言っていた。前川國男の設計により昭和35年に建てられたという。

京都市民なら一度は来たことがあるのではないか。労音のコンサートなどもよく行われていたようだ。

和洋折衷建築の隣に近代モダニズム建築が並んでいる、というのは何とも面白い。これぞ京都岡崎といったところだろうか。




別角度から。ここには僕も何度かコンサートを見に来たことがある。当時はモダニズム建築のことなど知りもしなかったが(笑)。




さらに驚くべきものまで建っていた。「全国水平社創立の地記念碑」。ロームシアターと美術館別館の間に建っている。

実は大正11年、ここにあった岡崎公会堂で水平社は創立されたらしい。水平社創立60周年を記念して、この碑はできた。

あの有名な一節、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」の文字が刻まれている。これは日本初の人権宣言とも言えるだろう。


平安神宮

寄り道は終わった。ようやく平安神宮へお参りできる(笑)。先ほども言ったが、明治28年にできた比較的新しい神社だ。

とはいえ明治の京都を語るとき欠かせない。しかも京都有数の巨大神社として観光名所でもある。早速お参りしよう。




平安神宮(その1)。まずは応天門が現れた。その巨大さはさすが、という他ない。修学旅行生らしい姿もチラホラ見える。久しぶりに観光地に来たような気分だ。




平安神宮(その2)。応天門をくぐって中に入った。これは広い。なお平安神宮が、平安京大内裏を模した、というのは有名だろう。




平安神宮(その3)。どうだ、これでもか、というくらい強烈な中国趣味。これも設計は伊東忠太と聞けば納得するのではないか。奇想天外な建物ばかり作った伊東忠太だからね。




平安神宮(その4)。これが本殿にあたる大極殿。何ていうか、平安京大内裏自体が、中国の洛陽城をモデルに造られたのだから、ここが中国風なのは、しょうがないかもしれない。


京都守護職上屋敷移築門

では平安神宮を出て、少し西へ歩いていこう。すると平安神宮の大型バス専用駐車場に出る。そこにも前から行きたかった。

なぜなら驚くべきものが建っているからだ。京都守護職上屋敷に建っていた門が移築されているという。早速見てみよう。




駐車場の向こうに見えてきた。黒塗りの武家門。これが京都守護職上屋敷にあったという正門だ。

言うまでもないが、京都守護職とは、会津藩松平容保公のこと。その上屋敷京都府庁の所にあった。

その守護職が廃された後、かろうじて門だけが残されて、ここに移築されたという。とにかく良かった。




近寄ってみた。威風堂々。迫力ある門だ。今回は会津藩士の墓地を訪ねるのが最終目的なので、この門もどうしても訪ねたかった。

なお京都守護職上屋敷門については、二条城近くのホテル敷地内の門だという説もあったが、ホテル三井により公式に否定された。




門の横に、武徳殿にまつわる石碑があった。実は、この門は武徳殿の正門として移築されたようだ。ここに来て初めて分かった。

それまでは、何でこんな所にあるのだろう?と思っていた。

この門について書かれた本にも「駐車場の脇に寂しそうに建っている」とか「排気ガスにまみれて建っている」など悪い事ばかり。

あの松平公の屋敷門なのに、"それはないだろう"と思っていた。この奥に武徳殿が建っているので、後で寄っていく事にしよう。


桜馬場通を北へ

という訳で移築門を出て、桜馬場通を北へ向かおう。ここから目指すは聖護院だ。だが途中まだ寄り道するところがある。なお桜馬場という通り名も由緒ありげだが由来は不明。




左は琵琶湖疏水、右は武道センター。その間を北へ向かう。




途中で琵琶湖疏水は左に折れて西へ向かう。この先に夷川発電所や船溜りなどがある。それにしても水量が多く、この水が琵琶湖から来たと思うと感慨深い。




そのまま北へ歩くと、すぐに尊勝寺跡の看板を発見した。これは想定外だったので嬉しい。

前も言ったが、岡崎には平安後期の院政時代、天皇家により六つの御願寺が建てられた。

尊勝寺や法勝寺など、どれも「勝」の字が含まれていたので、「六勝寺」と呼ばれたらしい。

という事までは分かっていたが、場所までは知らなかった。その一つがここにあった訳だ。


武徳殿


そうこうする内に、武徳殿の入り口が現れる。武徳殿とは明治32年大日本武徳会により建てられた施設。「東の講道館、西の武徳殿」と呼ばれるほど、日本の武道の中心的存在だったという。




旧武徳殿(その1)。ここが入り口。大きな冠木門だが、華美なところは無く、質素な造りなのも武道らしい。では早速入ってみよう。




旧武徳殿(その2)。すぐ右側に現れた。ものすごい純和風建築物。幾重にも重なった屋根が重厚さを感じさせるが、やはり華美なところは無い。

これを設計したのは松室重光と後で知ったが、松室は京都府庁舎旧本館や京都ハリストス正教会のイメージがあるので、何となく違和感がある。




旧武徳殿(その3)。今度は正面から見てみよう。現在は京都市武道センターの施設となり、稽古場や演舞場として使われているという。現役で活躍中というのは素晴らしい。




旧武徳殿(その4)。扉が開いていたので、ちょっと覗いてみた。これは本当に凄すぎる。木造でこの大広間というのも凄いし、もう何から何まで惚れ惚れする。国指定重要文化財


丸太町通から春日北通

では武徳殿を出て、聖護院を目指そう。途中で丸太町通を越えて、細い路地をのんびり歩きながら、春日北通へ向かう事になる。




武徳殿を出て北へ歩くと、すぐに丸太町通に出た。この道は京都を東西に貫く幹線道路で、東は鹿ヶ谷から西は嵯峨野釈迦堂まで続くという。この道沿いの堀川に材木商が多かったことから、この名が付いたらしい。では横断歩道を渡ろう。




ところで、この交差点の角に、近代建築風の建物が建っていた。屋根の造りなどを見ると、昭和初期の看板建築のようにも見えるが、はたしてどうなのだろう?(こんなところも京都は面白いね)




看板建築風の建物の隣を北へ入った。するとどうだろう。良い感じの町家が並んでいるではないか。小さい路地なのに本当に素晴らしい。まぁ、もちろん宿屋になっていたけどね。


聖護院

路地を抜けて春日北通に出ると、目の前はもう聖護院だ。説明するまでもないが、山伏で知られる修験道の総本山であり、天皇家の縁戚が門主を務めるという門跡寺院でもある。由緒も格式もある寺院だ。早速見てみよう。




聖護院(その1)。以前から修験道の研究をしていた僕にとって、特に行きたかった場所の一つだ。左側の聖護院門跡の巨大石柱ですら身震いしてしまう。とにかく近づこう。




聖護院(その2)。山門に近づいた。門上に菊の御紋が掲げられているのが分かるだろうか。門跡寺院の証だ。ところで門跡とは何か。説明しておこう。

大雑把に言うと、昔は天皇家の長男等が跡を継いで天皇になった時、二男や三男等は頭を丸めて仏門に入った。彼らが門主となったのが門跡という訳だ。

京都にはいくつか、こういった門跡寺院がある。というか京都にしか無いかもしれない。とにかく他のお寺とは別格。気軽に入れる今の時代は有難い。




聖護院(その3)。まっすぐ進んでいくと長屋門が現れた。これはどう見ても武家門のように見える。

考えたら修験の山伏は、僧侶でありながら、長刀を持つ武士でもあった。弁慶を見れば分かるだろう。

だからだろうか。よく分からないが、戦に備えているかのような小窓を持つ長屋門があるのは面白い。




聖護院(その4)。今度は本殿である宸殿。なんと江戸中期に建てられたという。しかも光格天皇の御代には、仮御所にもなったという格式ある建物だ。さすがは聖護院。




聖護院(その5)。正面の建物は不動堂。近づいてみよう。




聖護院(その6)。奥に不動明王が見える。もちろん重要文化財。何て力強いお姿なのだろう。

聖護院は平安後期の創建というから、1000年近い歴史を誇る。参拝できただけでも有難い。


積善院準提堂

聖護院を出て、東へ歩くとすぐに、積善院準提堂に到着する。聖護院の塔頭の一つだ。鎌倉時代初期に創建されたという。この辺りは本当に古刹が多い。




という訳で、聖護院を出た。

ところで一般的には、聖護院といえば「聖護院八ツ橋」の方が有名だろう。実はこの辺りこそ、「八ツ橋」発祥の地。八ツ橋ゆかりの史跡も多い。

今回は寄らないが、いずれ八ツ橋ゆかりの史跡も回ってみたい。余談だが僕は、"餡の入ってない八ツ橋" が好きだ。では春日北通を東へ進もう




積善院準提堂(その1)。東へ歩くと、すぐに積善院準堤堂に到着した。質素な冠木門がある。早速入ってみよう。




積善院準提堂(その2)。手前が拝堂で奥が本堂か。こじんまりとして落ち着く。ここでしばらく休憩する事にした。

なぜか分からないが、本当にくつろいでしまった。聖護院より癒されたような気がする。緊張が解けたのだろうか。




積善院準提堂(その3)。奥の方に不動明王が見える。




積善院準提堂(その4)。通称、"五大力さん" とも呼ばれて、地域住民にも親しまれているらしい。それが良かったのかもしれない。


須賀神社を経て金戒光明寺

積善院準提堂の向かい側に須賀神社がある。こちらに寄ってから、最終目的地の金戒光明寺に向かおう。終わりは近い。




須賀神社(その1)。ここは聖護院とも関係があるらしい。平安末期に創建されたという古社。素戔嗚尊を祀る。




須賀神社(その2)。よく分からないが、交通神社という神社と一体化しているらしい。




では再び春日北通を東へ進もう。金戒光明寺は近い。




その前に、岡崎西福ノ川町地蔵尊があった。迷わず手を合わせる。そしてまた歩き出そう。


金戒光明寺

そしてついに到着した。最終目的地の金戒光明寺。通称 "くろ谷さん"とも呼ばれている。何度もいうが、会津藩が陣を構えた事によって、このお寺の名声はさらに深まった。会津藩抜きには語れない。じっくり見ていこう。




金戒光明寺(その1)。正面に大きな山門が見えてきた。ようやく着いた、という思いが込み上げる。ちなみにこれは高麗門といって、万延元年の築らしい。




金戒光明寺(その2)。門の左右にそれぞれ巨大な石碑が建てられていた。まずは左側。園光太子霊場と刻まれた石碑がある。園光太子とは浄土宗の開祖、法然上人のことだ。




金戒光明寺(その3)。続いて右側に洛陽第六番観音霊場の石碑。これは洛陽三十三所観音霊場といって、平安時代に始まり、室町時代に定着した巡礼の第六番札所ということ。江戸時代には日本全国に同様のものがあり、ブームになった。




金戒光明寺(その4)。そして会津藩殉難者墓所の巨大な石碑もあった。やはり避けては通れないだろう。



金戒光明寺(その5)。今度は総門をアップで見てみよう。京都守護職本陣旧跡と書かれた木札が嬉しい。早速入ってみよう。




金戒光明寺(その6)。境内に入って参道を進む。次々と会津墓地参道と書かれた道標が現れる。さぞかし参拝者も多いのだろう。




金戒光明寺(その7)。ついに見えてきた。万延元年に建てられたという山門。あまりの巨大さに驚かざるを得ない。

これこそ金戒光明寺のハイライトだろう。会津藩士たちはここに上って、京都市中を監視したわけだ。本当に高い。




金戒光明寺(その8)。山門に近寄ってみたが、あまりにも巨大過ぎて、ますます全貌が分からない。とにかく大きい。




金戒光明寺(その9)。山門をくぐると、昭和19年に再建されたという御影堂が現れた。ここに本尊が祀られているらしい。国登録有形文化財




金戒光明寺(その10)。御影堂を横から見ておこう。このお寺は、法然上人が最初に浄土の教えを広めた念仏発祥の地と言われているらしい。




金戒光明寺(その11)。今度は大方丈。これも昭和19年に再建されたもの。やはり国登録有形文化財




金戒光明寺(その12)。清和殿(左)と新清和殿(右)。ここは二棟が繋がっている。どちらも大屋根が見事で迫力がある。




金戒光明寺(その13)。清和殿の屋根をアップで。煙抜きの小屋根が乗っかっている、ということは囲炉裏でもあるのだろうか。いずれにしろ、安永8年の建立というから驚く。




金戒光明寺(その14)。今度は阿弥陀堂。慶長10年、豊臣秀吉により建てられた、という歴史的建造物。京都府指定有形文化財




金戒光明寺(その15)。伽藍の最後は納骨堂。中国風の建物で面白いが、元禄2年に建てられた歴史的建造物。


会津藩墓所

では境内にある会津藩墓所に向かおう。そこが本当の最終目的地だ。静かな山道を上がっていくと、やがて到着する。




会津藩墓所(その1)。この橋を渡っていくらしい。下は蓮池になっていて、花が咲くときはきっと浄土のような風景だろう。




会津藩墓所(その2)。橋を渡ると、すぐに長い長い石段が現れた。この上を登っていくのか。最上段には有名な文殊塔が見える。寛永10年に建立された重要文化財だ。




会津藩墓所(その3)。ここを左に曲がるらしい。丁寧な石標があって有難い。もうすぐだろう。




会津藩墓所(その4)。ようやく会津藩墓所に到着した。鬱蒼とした森の中で、ここだけ別世界のように静まり返っている。




会津藩墓所(その5)。幾つもの墓標が建てられていた。会津藩士は、戊辰戦争で約250名が亡くなっている。遠い京都の地で、無念だった事だろう。




会津藩墓所(その6)。側に松平容保公がいらっしゃるのを発見した。皆んなの墓標の方を向いている。暖かく見守ってる、という事なのだろうか。これで会津藩士たちも報われただろうか。果たして・・・。




会津藩墓所(その7)。最後に松平容保公をアップしてみた。やはり松平容保公も、無念の表情をしているように見える。

それはそうだろう。なぜ会津の若者たちが、遠い京都の地で死ななければならなかったのか。無念しか浮かばない。

松平容保公はその後も生き延びて、明治に入ると日光東照宮宮司などになり、最後は明治26年、東京で亡くなった。

明治維新を歩く(その8)〜淀編〜

鳥羽伏見の戦いで敗れた幕府軍は淀方面へ敗走した。淀藩は仲間だったので、一旦かくまってもらって、体制を立て直そうと思ったらしい。

しかし淀城の手前で薩摩軍の猛攻を受け惨敗。負傷兵だらけの状態で、淀城に助けを求めた。しかし裏切られる。淀藩は城の門を閉めた。

幕府軍は一歩も淀城へ入れなかった。もはや万事窮す。戦いが終わって薩摩軍が引き上げた後、淀には多くの死体が転がっていたという。

地元民は、幕府軍の死体を何ヵ所かに集めて埋めた後、そこに塚を作った。淀にはそんな塚が何ヵ所もある。今回はそこを回ってみよう。

※「明治維新を歩く」と言っておきながら、それ以外も寄り道しまくる事を、あらかじめご了承いただきたい。異界があれば寄る主義なのだ。


京阪淀駅からスタートする

塚を全部回っていては時間が足りないので、主だった所だけを回るようにする。その前に、まずは淀城跡を訪ねる事にしよう。"門を閉めて、幕府軍を入れなかった"という淀城だ。




京阪淀駅に到着した。駅前ロータリーに出ると、目の前に巨大な水車のオブジェがある。実は、淀といえば水車でも有名だった。




駅前から南へ、京阪に沿って歩いていくと、高架下に古い道標を見つけた。「淀川渡場径の碑」、昭和3年とある。

新しい高架なので、古い道標は目立つ。ちなみに京阪が高架化されたのは、平成26年完成と比較的最近の事だ。




淀城の敷地内に入った。というか、既に淀駅構内から敷地内ではあったのだが。

まず現れるのは與杼(よど)神社。平安時代延喜式にも記載という古社らしい。




続いて稲葉神社。上の與杼神社の隣にある。淀城当主だった稲葉氏を祀っているらしい。稲葉氏は幕府老中を務める家柄だった。


淀城本丸跡

では淀城の本丸跡へ入ろう。淀城は、言わずと知れた豊臣秀吉が茶々(淀殿)のために築城したのが始まり(その初代淀城は場所が違う)。

徳川幕府の代になって、淀藩が立藩され、徳川家の譜代大名が当主となる。そして現在の淀城が築城された。京都市内の城郭は珍しい。




淀城本丸跡(その1)。背景の石垣は天守台のもの。江戸時代は立派な天守閣が建っていた。鳥羽伏見の戦いで敗れた幕府軍にとって、救いの場所と思っていたに違いない。同じ幕府の仲間だったから。




淀城本丸跡(その2)。幕府軍は、ここに一旦かくまってもらおうと思っていたらしい。負傷兵を治療したり、態勢を立て直さないといけない。しかし"錦の御旗"が立った事によって状況は変わった。




淀城本丸跡(その3)。城内の一番南西側に「淀城跡」の石碑がある。かなり古そうだ。さて、淀藩にとっても"寝返り"は、苦渋の決断だったに違いない。しかし朝敵になる訳にはいかない。城門を閉めた。




淀城本丸跡(その4)。淀城の広いお堀が見える。幕府軍はこのお堀を越えられなかった。どんな思いで眺めただろうか。行き場を失ってしまった敗残兵たち。もはや万事窮す。


淀城跡を出て淀小橋へ

戦いが終わって、薩摩軍が引き上げた後には、多くの死体が転がっていたという。地元民はその死体を何ヵ所かに埋めて、塚を作って供養した。これからその場所を巡るのだが、その前に水車跡と淀小橋跡へ寄っていこう。




淀城のすぐ脇には、旧国道1号線が通っている。枚方バイパスが1966年にできるまで、ここが1号線だったらしい。

そこに「淀川瀬水車旧跡」の碑が建っている。有名な水車はここにあったらしい。今は石碑だけで面影もないが。

なお淀川は、明治35年に行われた河川改修工事で、位置が変わっている。かつては淀城も淀川に面していたのだ。




では旧国道1号線を北東へ向かおう。やがて納所の六叉路交差点に出るので、そこを東へ曲がると淀小橋へ到着する。




淀小橋旧跡。かつてここに淀川にかかる橋があった。京都と大阪を結ぶ重要な橋だ。小橋といっても、全長129mの大きな橋だった。

それが戊辰戦争の際、幕府軍によって焼き払われてしまった。すぐそこまで迫ってきていた薩摩軍が、渡れないようにするためだ。


千本通を北へ進む

納所交差点に戻って、千本通を北へ進もう。ちなみに千本通は、京都にとって重要な街道。大阪と京都を結ぶ道であり、かつ京都に入ってからは朱雀大路に相当する道だ。僕もかつて鳥羽や東寺、蓮台野などでも歩いたが、この辺りは初めて。楽しみだ。




では千本通を北へ進もう。このまま進んでいくと、やがて小枝橋を越えて京都に入る。つまり元々幕府軍が京都に向かって進軍した道だった。

その頃はおそらく「薩摩何する者ぞ!」と思っていたに違いない。まさか自分たちが敗れて、この道を戻ってくるとは思ってもなかっただろう。




歩き始めると、すぐ左側に唐人雁木旧跡の石碑。朝鮮通信使の船着場がこの辺りにあったらしい。さすが京都の玄関口だ。




続いて右側に納所村道路元標。さりげなくこんな石碑があるなんて、千本通の歴史を感じる。




さらに北へ歩こう。左右に続々と良い感じの町家が現れる。さすが歴史ある街道らしい。


戊辰役戦場跡の碑

鳥羽から敗走してきた幕府軍は一旦、納所という所に陣を構えた。しかし薩摩軍に砲撃され崩壊、さらなる助けを求めて、淀城へ向かう事になる。その納所陣地跡が近くにあるので向かおう。




この狭い道を入ったところに石碑が建っているらしい。ところで右角の家は飾り物がすごく綺麗だった。何の家だったのだろうか。




戊辰役戦場跡の碑(その1)。ここは分かりづらくて、散々迷いながらようやく見つけた。しかも一段高い敷地のためよく見えない(写真中央にあるのだが・・・)。納所会館という集会所の前にひっそりと建っていた。




戊辰役戦場跡の碑(その2)。写真中央をアップしてみた。ところで石碑をよく見ると、戊辰戦争ではなく「戊辰役」(ぼしんのえき)と書いてある。

そういえば西南戦争も昔は"西南の役"と言っていた。「あれは戦争ではない」という薩長史観の呼称だ。薩長は戦争が無かった事にしたかった。

それが戦後教育まで残っていた。僕らは"西南の役"と教えられた。だが今は学校でも、正しく"戊辰戦争"や"西南戦争"と呼んでいる。良い事だ。




戊辰役戦場跡の碑(その3)。納所会館の敷地まで上って撮ってみた。ところでここの敷地は、右側の道路より一段高くなっている。

この段差は昔の淀川の痕跡(右側が淀川だった)。先も言ったように、河川改修工事で今の位置になったが、昔はここを流れていた。


再び千本通を北へ

次の目的地は妙教寺。そこまで再び千本通を歩く。ちなみに、この道は洛北の"葬送地" 蓮台野まで続いている。"葬送地" とは死体捨て場のこと。つまりこの道は死体を葬送する道だった。そのため千本の卒塔婆が立てられていたという。千本通の名の由来だ。




ではまた千本通を北へ進もう。




すぐ左側に良い感じの町家があった。「米庄 岸田商店」とある。古い商家なのだろう。建物は明治か大正の築かもしれない。




続々と良い感じの町家が現れる。古民家ファンにはたまらない道だ。




左側に納所町南地蔵尊。京都は街を歩けば地蔵尊にあたる。というくらい多い。


妙教寺

妙教寺に到着する。幕軍兵士の死体は、このお寺にも運び込まれたという。そして埋葬され、塚が建てられた。全部で十カ所ある埋骨地の一つだ。

当時は、お寺の上を砲弾が何発も飛んでいったらしい。しかもその内の一発はお寺に当たり、柱が破壊されてしまったという。戦場になったお寺だ。




妙教寺(その1)。まずは古めかしい山門をくぐろう。この手前右側に駒札も建てられていた。実は元々ここが、豊臣秀吉の建てた淀古城のあった所らしい。その跡地に寛永年間、妙教寺が創建された。法華宗というから商人の信仰が篤かったのだろう。




妙教寺(その2)。妙教寺の本堂。天保11年の建立という歴史的建造物だ。ところで後で訪ねる千両松に、妙教寺にまつわる逸話が残されている。

詳しくはそこに記すが、昭和42年、新撰組の亡霊が現れたとき、妙教寺の僧侶によって調伏されたという話だ。実は幕府軍には新撰組もいた。




妙教寺(その3)。境内にある戊辰之役東軍戦死者之碑。ここが戊辰戦争における幕軍死者の埋骨地だ。明治40年に建てられたという。

そういえば、"東軍"という呼称は、久しぶりに聞いた。幕府側は主に東日本に多く、新政府側は西日本に多かったので、そう呼ばれた。

関ヶ原の戦いも徳川方が東軍、豊臣方が西軍。源平合戦も源氏方が東軍、平氏方が西軍。つまり日本を二分する合戦は東西に分かれた。




妙教寺(その4)。境内には淀古城跡という石碑もあった。先ほども言ったが、元々豊臣秀吉のために建てた淀城(通称、淀古城)は、ここにあった。


念仏寺

妙教寺の隣に、念仏寺というお寺があった。初めて知ったお寺だが、古そうなので寄ってみた。




念仏寺(その1)。この山門から入る。綺麗に整備されているようだ。



念仏寺(その2)。こちらが本堂。由緒はよく分からない。念仏寺といえば愛宕念仏寺や化野念仏寺が有名だが、ここはそれほど知られていないようだ。




念仏寺(その3)。故陸軍歩兵木下繁治さんという方の慰霊碑もあった。立派は石碑なので、地域の有力者だったのだろう。




念仏寺(その4)。こちらは、やはり陸軍戦死者だった方々の慰霊碑やお墓。もちろん鳥羽伏見の戦いではなく、先の大戦による戦死者だろう。


千本通を北上して埋骨地へ


さらに千本通を北上しよう。途中から西側は淀川の堤防になる。先ほども言ったように、明治35年に河川改修工事が実施され、ここに新たな淀川ができた。なので右と左で風景が全く異なるようになる。




歩き始めたばかりの所は、まだ左右ともに、古い町家が連なっていた。歴史を感じる通りだ。




また左側にお地蔵さん。




ついに左側に淀川堤防が現れた。河川改修工事の結果、新たに作られた堤防だ。とはいえ右側は、良い感じの町家が残っている。昔のままなのだろう。




ようやく見えてきた。幕府軍の死者を埋骨した塚が右側にある。この辺り一帯に転がっていた死体を、地元民が悼んで埋めたという。そして塚を建てて供養した。




戊辰之役東軍戦死者埋骨地の碑。僕も手を合わせた。幕軍兵士もまさかここで命を落とすとは思ってなかっただろう。

碑は明治40年に建てられたという。よく見ると花が手向けられた跡がある。供養をかかさない地元民には頭が下がる。


淀川堤防から旧国道1号線

では淀川堤防を少し戻って、旧国道1号線へ向かおう。次なる目的地は千両松の埋骨地だ。




まずは淀川堤防の上に上がって深呼吸をした。息がつまる場所だったのでホッとする。

新たな淀川河川敷は広い。遠くまで見渡せる。北東方向に見える山影は嵐山だろうか。




続いて南東方向を眺めた。うっすら見える山影は天王山だろうか。開放感抜群で気持ち良い場所だ。




では桂川堤防から下りよう。納所排水機場の横を通って、旧国道1号線に向かう。




やがて旧国道1号線に出た。今度は左折して北へ向かおう。


鳥羽伏見之戦跡地の碑

ではUR伏見納所団地の横を通って、京阪電車の高架下へ向かおう。千両松の埋骨地はもうすぐだ。




UR伏見納所団地へ行く道との交差点の角に、鳥羽伏見之戦跡地の碑があった。これは全く予想してなかったので嬉しい。




鳥羽伏見之戦跡地の碑を別角度から。全く偶然発見したのだが、考えたら戦場跡なのであってもおかしくない。




UR伏見納所団地内の道を南へ。遠くにクレーンが沢山見える。実は京都競馬場がリニューアル工事していた。ガラッと生まれ変わるらしい。京阪の高架化も一体化しているのだろう。




水路を渡る。今は水量の少ない小さな水路だが、実は昔の淀川だった。この何倍も広かったらしいが。この水路を通って桂川に至るのが本来のルートだ。地上で見ても面影もないが、空撮写真を見ると何となく分かる。




京阪沿いの道路に出た。ここを東へ進もう。先にも言ったように、右側の京阪は平成26年に高架完成したので比較的新しい。


戊辰戦争千両松の戦いの碑

ついに到着した。幕軍兵士の埋骨地の一つ、「千両松」。ここに死体が埋められて、塚が作られた。先ほどの場所と違って、ここは周りが幹線道路や住宅地なので、淋しくはない。親子連れが散歩したりしている。




戊辰戦争千両松の戦いの碑(その1)。立派な石碑が作られている。まずは手を合わせて追悼した。碑には「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と彫られている。やはり明治40年に、一斉に作られたものの一つのようだ。




戊辰戦争千両松の戦いの碑(その2)。この石碑はかすれてしまってよく読めない。明治40年の碑だからか。

ところで千両松の戦いでは、新撰組の死者も大勢出たらしい。その亡霊が出た、という逸話が伝わっている。




戊辰戦争千両松の戦いの碑(その3)。敷地内3つ目。これも相当古そうだ。さて昭和42年の事だが、道路工事で、一度石碑を撤去した事があったらしい。

すると工事現場に怪異が起きた。「誠」の旗を持った幽霊が出てきて、「碑を戻せ」という。工事関係者は震え上がった。あの新撰組の亡霊じゃないか。

そこで碑を戻して、妙教寺の僧侶に来てもらって祈祷したという。すると亡霊は出なくなったらしい。昭和42年でも出るほど想いが強かったのだろう。



戊辰戦争千両松の戦いの碑(その4)。これは敷地全景。それにしても法華宗妙教寺が祈祷したということは、日蓮宗系の祈祷を行なったのだろう。

つまり新撰組の亡霊に対して、「もう出るな」と祈祷した訳だ。昭和42年という現代社会において、"新撰組vs日蓮系の戦い"があったなんて感慨深い。

日蓮系という事は、法華経鬼子母神か。いずれにしろ新撰組と良い勝負だったに違いない。ここに眠っている新撰組たちも供養された事だろう。


京都競馬場前を通って光明寺跡へ

次なる目的地は光明寺跡だ。そこに行くまで京都競馬場前を通っていく。ただし今は京阪淀駅から直接2階を通っていく新ルートができたため、これから歩くルートは人通りが少ない。とにかく歩き始めよう。




まずは京阪電車に沿って進んでいく。左側は平成26年に完成した新しい高架。それまでは地上を走っていたはずだが、面影も無い。




高架下をくぐる道が現れたので入っていこう。かつて線路が地上だった時代は踏切だったようだ。淀駅から京都競馬場へ向かうルートだったので、レース開催時は多くの人が渡ったらしい。




京都競馬場が見えてきた。

ところで前日、ホテルのスタッフに「明日は淀に行く予定です」と言ったところ、「競馬場ですか?」と言われてしまった(笑)

京都の人も、淀と言えば競馬場しか浮かばないのだろう。まぁ仕方ない。大正14年に開設された歴史と伝統ある競馬場だ。




交差点の右側にある喫茶店を見ると、「コーヒーハウス ダービー」と書いてある。まんまじゃないか。後で調べると、競馬ファンの間では、有名な喫茶店らしい。

何せ競馬場へのルートにある。行く前の腹ごなしとか、終わった後の祝杯とか、いろいろ賑わったことだろう。ルートが変わった今はどうなっているのだろう。




さてコーヒーハウス ダービーを過ぎて、すぐ左側の道を入っていこう。この先に埋骨地があるはずだ。


光明寺

埋骨地の一つ、「光明寺跡」。明治の廃仏毀釈で廃寺になるまでは、光明寺というお寺があった。そこにも多くの死体が運び込まれたという。今は石碑がひっそりと建つのみだ。



光明寺跡(その1)。ここは見つけるのに苦労した。まさか駐車場の片隅とは思わなかったし、しかも車に邪魔されて(失礼) 、よく見えない。残念ながら、埋骨地らしい陰惨な雰囲気はまったく無かった。




光明寺跡(その2)。とはいえ、ここが幕軍兵士の死体を埋葬した寺跡であることは間違いない。おそらく地元民が悼んで、運び込んだものだろう。本当に地元民の尊い行為には頭が下がる。




光明寺跡(その3)。廃仏毀釈になった寺跡にしては、綺麗に整備されていた。これも後で調べて分かったのだが、長円寺の住職が整備しているようだ。この後に行くお寺だが、やはり埋骨地であり、住職が熱心に管理している。淀にとって無くてはならないお寺だろう。




光明寺跡(その4)。他所と同じ石碑が建てられていた。明治40年に一斉に建てられた石碑の一つなのだろう。それにしても廃仏毀釈とは、本当に罪なことをしたものだ。


新居家住宅を経て長円寺へ

これから最終目的地の長円寺に向かうのだが、その途中に、国登録有形文化財の新居家住宅がある。古民家ファンの僕としては、寄らないわけにはいかない。ちょっと寄り道しよう。




まずは京都府道125号線を南へ進む。この道は「京都の凹凸を歩く」(著者:梅林秀行)という本によると、淀城が造られたとき、商家街として造られた街路らしい。

ちなみに同本は、淀の街並みを、城下町としての造成から詳しく解き明かしてくれるので、淀の歴史を知りたい方は必見だ。(著者はブラタモリの常連だし。笑)




すぐに文相寺というお寺が現れるので、左折しよう。遠く正面に、三角屋根の洋館が見えてきた。




新居家住宅(その1)。近づいてみると、洋館と和風住宅の合体らしい。それにしても、洋館の小窓の連なりや、半円の三連窓が良い感じではないか。




新居家住宅(その2)。正面から見た。大正15年築の洋館。ファサードの切妻部分にあるハーフティンバー風の飾りが可愛らしい。

まさに貴重な建物といって良いだろう。現在は居住中なので見学不可だが、時々見学会をやっているらしい。大切に残してほしい。




さて、元の府道に戻って、長円寺方向へ進むと、左側に淀新町天満宮がある。詳細は不明だが、かなり古そうだ。この商家街ができた時からあるのかもしれない。


長円寺へ向かう道は町家の宝庫


ところで、コーヒーハウス ダービーから長円寺へ向かう京都府道125号線は、淀城築城時に商家街として造られた、と先ほど言った。なので古い町家が数多く残っている。

実はどこの城下町も同じで、お城の周囲に武家街、さらに周囲に商家街、という構造になっている。そのうち武家街は消滅し、商家街だけが残った、というケースが多い。

この商家街も、江戸時代から住んでいる方が多いはずだ。建物も、明治か大正時代に建てられた町家が多く残っている。ここからは詳しい説明抜きで、まとめて見ていこう。




長円寺へ向かう道の町家(その1)。良い感じだが、これは昭和の建物だろう。




長円寺へ向かう道の町家(その2)。これも昭和の建物だろう。ただ、1階の黒塀、2階の飾り窓など、粋な雰囲気が残っている。もしかしたら料亭だったのかもしれない。




長円寺へ向かう道の町家(その3)。これは大正か昭和初期か。




長円寺へ向かう道の町家(その4)。良い感じの町家が2棟並んでいるが、どちらも明治かもしれない。




長円寺へ向かう道の町家(その5)。この右側の建物も凄い。昔は何屋さんだったのだろうか。




長円寺へ向かう道の町家(その6)。これは確実に明治だろう。1階の格子窓といい、2階の虫籠窓といい、何から何まで美しい。


長円寺

商家街を抜けると、「長円寺」に到着する。全部で十カ所あるという埋骨地の一つだ。ここは特に新撰組とゆかりが深いという。

寺には住職も住んでおり、綺麗に整備されている。それどころかWEBサイトやツイッターまであるらしい。早速見ていこう。




長円寺(その1)。立派な山門に到着した。なかなか力強い建物だ。この左右に石碑があるので、まずはそちらから見ていこう。




長円寺(その2)。山門の左側には「戊辰之役東軍戦死者之碑」。その右下を見ると、「榎本武揚書」という小さな石碑もある。どうやら、中央の石碑の文字は、榎本武揚が書いたようだ。なぜここに榎本武揚

長円寺のWEBサイトによると、土方歳三榎本武揚に「長円寺が幕府軍を助けた」というような事を言ったらしい。そこで明治40年榎本武揚により幕府軍の戦死者慰霊碑が長円寺に建立されたという。




長円寺(その3)。山門の右側にも「鳥羽伏見の戦い 幕府軍野戦病院の地」の碑。ここには死体だけではなく、負傷兵も大勢運び込まれた。

死体を埋葬した他、負傷兵の治療も行なったので、"野戦病院" といっても、まぁ良いだろう。結果的に野戦病院の機能も果たしたので。




長円寺(その4)。では山門をくぐろう。正面には本堂が構えていた。建物は新しそうだが、創建して450年以上という歴史を誇る古刹だ。浄土宗寺院で、本尊は阿弥陀如来とのこと。




長円寺(その5)。敷地全景。参拝していると、住職がやって来て、声をかけられた。境内の説明をしてくれるという。この住職がツイッターをやっている方のようだ。丁寧な対応で頭が下がる。




長円寺(その6)。本堂の左側には観音堂もあった。中も見てみよう。




長円寺(その7)。観音堂の内部。中央に観音様が祀られている。驚いたのは新撰組の傘?が置かれていたこと。確かに、土方歳三も含め、多くの新撰組隊士が逃げてきたというが・・・。まぁ良いか(笑)




長円寺(その8)。続いて閻魔堂。ここに冥界の支配者「閻魔大王」が祀られている。普通、"エンマ大王" なんてあまり見ないが、京都では意外とある。僕もかつて、六道珍皇寺や千本閻魔堂などを訪ねた事があった。




長円寺(その9)。中を見てみると立派な閻魔大王が祀られていた。長円寺によると、「閻魔様の前では争いはできない。なので長円寺は戦場にならず、幕府軍の埋葬や治療に専念できた。」という事らしい。




長円寺(その10)。閻魔大王の手前をアップしてみた。ここにも、「新撰組ゆかりの閻魔王」と書いてある。もちろん閻魔王のおかげで、新撰組の埋葬や治療ができたのだから、"ゆかり"は当然だ。

実際に土方歳三永倉新八もここにいたはず。それを思うと感慨深い。(近藤勇は伏見で負傷したため、淀の戦いに参加しなかった)。今や新撰組は大人気だから、大いに宣伝したら良いだろう(笑)




長円寺(その11)。最後に見たのは、例の石碑だった。明治40年に、全部で十カ所建てられたという石碑。ここも埋骨地だから、あって当然だろう。

実際に多くの幕府兵が亡くなった。特に新撰組は隊の三分の一を失ったという。この石碑を見るたびに、陰鬱な気分になる。なんで死んだのか。

しかし生き残った兵もいる。土方歳三永倉新八も、そして近藤勇もそうだ。彼らは死に場所を求めて、この後さらに、江戸へ向かうことになる。

この年の秋、元号は明治に変わる。新しい明治時代の始まり。しかし彼らはそれに抗うようにまだ戦い続けた。死に場所を求めて、江戸へ函館へと。


#鳥羽伏見の戦い #淀 #新撰組 #京都歴史散歩 #戊辰戦争

明治維新を歩く(その7)〜鳥羽編〜

明治維新の舞台となった京都。多くの歴史的事件がこの街で起きた。薩摩・長州や新撰組などが暗躍し、坂本龍馬もこの街で亡くなった。


今回は鳥羽を巡る。と言ってもあまり知られてないかもしれない。鳥羽伏見の戦いの鳥羽と言えば分かってくれるだろうか。戦場だった。


※「明治維新を歩く」と言っておきながら、それ以外も寄り道しまくる事、あらかじめご了承いただきたい。異界があれば寄る主義なのだ。


小枝橋から歩き始める

戊辰戦争の発端となった「鳥羽伏見の戦い」。それは小枝橋から始まった。大阪から北上してきた幕府軍は、小枝橋を渡って京都に入ろうとする。しかし城南宮に陣取った薩摩軍が立ちはだかった。まずはその小枝橋から歩き始めよう。




という訳で小枝橋に立つ。とはいえ今の橋は新しく架け替えられたもの。幕末当時の小枝橋はやや下流側(この写真では右側)にあったようだ。




現代の小枝橋から鴨川の流れを見てみよう。マンションなどが建ち並んでいるが、川面の風景はあまり変わらないのではないだろうか。




新小枝橋の下流側。このあたりに旧小枝橋があったはずだ。今は草に覆われて、面影は無いが。




それでは城南宮通を東へ進もう。




と思ったら右角に、何とも良い感じの民家が見えた。蔵や離れなどもある。相当な豪農だったのだろう。

よく見ると屋根の上に、煙抜きの小屋根も見える。かまど(おくどさん)がある訳で、築も古いのだろう。




上の民家を表側から眺めてみた。何とも巨大な町家ではないか。これは驚いた。手前は昭和で、奥は明治か大正だろうか。


鳥羽伏見の戦い勃発の地の碑

すぐに「鳥羽伏見の戦い勃発の地の碑」が建ち並んでいる交差点に出る。そこから南の赤池交差点までの間が戦場だった。赤池交差点で「通せ、通さぬ」の押し問答があって、結局幕府軍が強行突破、鳥羽伏見の戦いは始まった。




鳥羽伏見の戦い勃発の地の碑(その1)。千本通と城南宮通の交差点に、鳥羽伏見の戦い勃発の地の碑が建っている。相当古いものから、最近のものまで三つ、それに駒札が一つ。




鳥羽伏見の戦い勃発の地の碑(その2)。戊辰戦争はここから始まった。まぁ正式にいうと赤池交差点なのだろうが、そこからここまで戦場になった事を考えると、勃発の地と言っても許されるだろう。




鳥羽伏見の戦い勃発の地の碑(その3)。こちらは道標(鳥羽伏見の戦いとは関係ない)。ここから東へ行くと城南宮、南へ行くと千本通を通って大阪へ、そして西へ行くと小枝橋を渡って京都に入れる。交通の要衝だった。




では交差点を越えて、引き続き城南宮通を東へ進もう。




続いて鳥羽離宮公園への道を南下する。目指すは鳥羽離宮公園だ。


鳥羽離宮公園

鳥羽離宮公園に入る。言うまでもないが、かつて鳥羽離宮のあった所だ。平安時代から鎌倉時代にかけて、白河天皇後鳥羽上皇などが拠点として、御所よりも重要視されていた。平安京の重要ポイントと言える。そこが幕末、戦場になった。




鳥羽離宮公園(その1)。今は公園として整備されている。ではこの入り口から入っていこう。




鳥羽離宮公園(その2)。中はほとんどが、広い芝生の広場になっていた。ここが戦場だったとは・・・。




鳥羽離宮公園(その3)。北側に、鳥羽伏見の戦い勃発の地の石碑と配置図が建っていた。それはありがたいが、これだけで戦場だった事を想起するのは難しい。




鳥羽離宮公園(その4)。雨が激しく降ってきた。それはともかく、この池と東屋は、鳥羽離宮を模して造ったのではないだろうか。そんな気がする。




鳥羽離宮公園(その5)。道路をはさんだ南側には、南殿跡の石碑と看板があった。離宮は相当広かったわけだ。


千本通赤池交差点


また千本通に戻ってきた。この辺りは拡幅されて新しくなっている。とにかく赤池交差点に向かおう。




その赤池交差点に到着した。千本通赤池通が交わるので千本通赤池交差点という。

正面が千本通で、まっすぐ進むと大阪に至る。幕府軍はこの道をやってきた訳だ。




千本通赤池交差点の右角に、超立派な和風民家が見えた。庄屋さんだったのではないか。それくらいのレベルの豪邸だ。




千本通赤池交差点の角に、駒札が建っていた。それによると、まさにここが「通せ通さぬ」の"押し問答"の地。つまり鳥羽伏見の戦いの、本当の勃発の地だったのだ。


城南宮へ

千本通赤池交差点の次は城南宮を目指す。薩摩藩が陣を構えた場所だ。そこまでは、鳥羽離宮公園の東側を通って、城南宮通まで戻ろう。




鳥羽離宮南殿跡。こちらもだだっ広い芝生広場になっていた。




鳥羽離宮南殿の詳しい説明看板まであった。これは嬉しい。




では城南宮通から国道1号線を渡ろう。正面に城南宮の大鳥居も見える。




国道1号線を渡って振り返ると、和菓子司「おせき餅」があった。なんと創業450年という。戦国時代から続くという超老舗の和菓子屋さんだ。

元々別の所にあったのが、昭和7年京阪国道の開通の際、現在地に移ってきたらしい。名物はおせき餅。城南宮参拝の土産として有名とのこと。


城南宮

城南宮は平安時代より伝わる古社だが、鳥羽離宮ができてからは、その一部となり繁栄した。薩摩藩はここに陣を構えて、幕府軍を迎え撃った。




城南宮(その1)。ではこの参道から入っていこう。




城南宮(その2)。この大鳥居を過ぎたところで、また急に雨が強くなってきた。とりあえずは斎館で小休憩させてもらった。




城南宮(その3)。歩いていくと、左側に駒札が二つ建っていた。城南宮の説明用と、鳥羽伏見の戦いの説明用、という事らしい。




城南宮(その4)。とにかく城南宮本殿へお参りしよう。観光客も少なく、静かにお参りできる良い神社だ。




城南宮(その5)。右側に庭園入口があった。池泉回遊式庭園が有名とのこと。時間があればゆっくり訪ねたい。




城南宮(その6)。東鳥居で城南宮とお別れだ。ここに陣を構えた薩摩藩によって幕府軍は惨敗することになる。歴史の転換点の舞台だった。そして時代は明治へ向かっていく。

#鳥羽伏見の戦い

明治維新を歩く(その6)〜伏見編〜

明治維新の舞台となった京都。多くの歴史的事件がこの街で起きた。薩摩・長州や新撰組などが暗躍し、坂本龍馬もこの街で亡くなった。

特に伏見は独自の歴史を持っている。ただの"酒蔵と龍馬の街"というだけではない。そんな伏見の意外性も、歩きながら語っていきたい。


※「明治維新を歩く」と言っておきながら、それ以外も寄り道しまくる事を、あらかじめご了承いただきたい。異界があれば寄る主義だ。


中書島駅からスタート

伏見に行くには近鉄と京阪がある。どちらに乗っても目的地に行けるが、今回は京阪に乗って、中書島駅から北上するルートにした。

坂本龍馬寺田屋で襲われた後、北上して大手橋付近で身を隠し、さらに北上して薩摩藩邸まで逃げた。そんな龍馬に敬意を表して(笑)




という訳で、京阪の中書島駅に到着した。初めて降りる駅だ。駅舎は近代化されて、特に何かをモチーフにした様でもない。もう少し観光地らしくしたら良いのにと思うが・・・




とはいえ駅前には、やはり看板が立っている。左に日本酒、右に龍馬。やはりこの街は "日本酒と龍馬の世界" のようだ。




さらに駅前には仰々しい石碑がある。長建寺の道標らしい。後で行く予定だが、この街にとって重要なお寺である事が伝わってくる。


駅前正面の道を歩き始める

駅を降りて真正面の道を進むと寺田屋に行けるはずだ。途中いろいろ寄り道はする予定だが、とにかくその方向へ歩き出そう。




では駅前の正面の道を歩き出し・・・と思ったら、いきなり場末の飲み屋街??話には聞いていたが、これは想像以上にかぐわしい。本当に駅を出てすぐなのに・・・




すぐ右側に近代レトロ建築。有名な新地湯だ。昭和初期に建てられた銭湯で、今も現役で営業している。"古い建物"ファンには有名な建物で、実は前から見たかった(笑)




新地湯から北東方向に向かうと濠川に出る。その向かい側は、酒蔵の連なる街並み。後ほど行く予定だ。




さらに十石舟の乗り場も見える。あまり知られてないが、伏見は港町だった。淀川から上がってきた貨物船の中継基地。この街で舟を乗り換えて、京に向かった。


長建寺

先ほど言ったとおり、寺田屋へ真っ直ぐ行かず、何件か寄り道する。まずは、濠川の向かい側にある長建寺。駅前でみた巨大石碑のお寺だ。




長建寺(その1)。入口正面に、中国風の竜宮門がある。とにかく、この建物が有名で、どうしても見たかった。なるほど噂どおり独特の面構え(笑)




長建寺(その2)。竜宮門を裏から。この建物もお寺創建時と同じ、元禄年間の建立だろう。




長建寺(その3)。門を入ってすぐ左側にある鐘楼。これも何やら独特の形をしている。一体どういうお寺だろう(笑)




長建寺(その4)。こちらが本堂。先にも言ったとおり元禄年間の建立らしい。外壁や屋根は手直しされているが。




長建寺(その5)。そしてこちらも有名な閼伽水。伏見七名水の一つとして知られている。元々伏見は"名水の里"で、だからこそ日本酒の里になった。その伏見を代表する名水の一つという訳だ。


中書島遊廓跡

長建寺の北西側に広がる街並みは、かつて遊廓だった。中書島遊廓という。江戸時代から明治にかけて繁栄し、1970年まで続いたらしい。異界巡りを旨としているので寄らない訳にはいかない。




中書島遊廓跡(その1)。とはいえ祇園先斗町などと違って、それらしい建物はほとんど残されていない。これなどは玄関横の窓が怪しいし、建物全体のボリュームもそれっぽいのだが、どうなのだろう。(外壁はモルタルを塗られてしまったようだが)




中書島遊廓跡(その2)。この建物も怪しいがどうだろう。2階の手すりが何とも・・・




中書島遊廓跡(その3)。こちらは遊廓とは関係ないが、昔ながらの昭和の長屋街。特に京都には多いような気がする・・・。




中書島遊廓跡(その4)。「りょう馬」という名前のスナックもあった。龍馬ファンのオーナーがやってるのだろう。この町は、どこまでも龍馬らしい。




中書島遊廓跡(その5)。こちらは有名な建物。「ふじわら」という小料理屋さんだ。玄関横の窓がそれらしいし、2階の手すりもそれっぽい。元遊廓の建物とみて間違いないだろう。




中書島遊廓跡(その6)。「ふじわら」の向かい側の建物。外壁は手直しされてるが、1階の格子窓といい、建物全体のボリュームといい、元遊廓の可能性が極めて高い。


濠川に沿って伏見長州藩邸へ

中書島遊廓跡を抜けると、再び濠川に出る。ここから寺田屋はすぐなのだが、まだ寄りたい所がある。濠川沿いは歴史の宝庫だ。




蓬莱橋中書島駅から真っ直ぐ北へ進むと出る橋だ。歴史の宝庫、中書島にとって最重要な橋と言って良い。だがここは渡らず、西へ進もう。




濠川に沿って西へ歩くと、小公園があり、龍馬とお龍の像が建っている。その名も「龍馬とお龍 愛の旅路像」というらしい。

何だそりゃ、という感じだが、龍馬とお龍は寺田屋で襲われた後、ここから舟で薩摩に向けて旅立った。だから"愛の旅路"?




小公園の前は、濠川が広くなっている。舟廻しの場所だという。地名も南浜といって、ここがまさに川港だった。

濠川の左側は、大正時代まで建物が無く、広場と道路を経てすぐに寺田屋だった。まさに"舟宿"だった事が分かる。




そのまま西へ歩くと、すぐに竹田街道に出る。物流拠点の伏見と、巨大都市の京都を結ぶ重要街道だ。明治に入ってからも、日本初の市電が通るなど、重要性は増すばかりだった。




竹田街道を渡ると、すぐに伏見長州藩邸跡の石碑がある。そう、ここに京都の藩邸とは別に、伏見藩邸があった。同じ京都市内なのになぜ?

実は長州藩だけじゃなく、土佐藩薩摩藩など多くの藩が伏見にも藩邸を構えていた。なぜならここは京都と別の、独立した地域だからだ。

今は京都市伏見区だが、かつては伏見"市"という別の市だった。しかも淀川水運の拠点、すなわち京都の物流の玄関口という重要な場所だ。


京橋から寺田屋

伏見長州藩邸の北側に京橋がある。そこは鳥羽伏見の戦いの戦場でもあった。それを思い浮かべながら東へ歩くと、すぐに寺田屋へ出る。




京橋の上から濠川を眺めよう。正面に蓬莱橋が見える。この一帯は、江戸時代から明治中頃まで、淀川水運の拠点として大いに栄えた。川岸には舟宿や蔵などが建ち並んでいたという。




京橋のたもとに「伏見口の戦い激戦地跡」の碑がある。伏見奉行所に陣をおいた会津藩新撰組は、薩摩藩の猛攻に敗れ、この辺り一帯に火を放ちながら淀へ敗走した。

街中が焼かれ、大きな被害を受けたという。ここは鳥羽伏見の戦いの戦場だった。その伏見奉行所にも後で行く予定だが、京都奉行所と別に奉行所があった事に留意したい。




ところで竹田街道を眺めると、素晴らしい町家がいくつも並んでいる。正面の町家は森鶴本店という肉屋さんらしいが巨大な町家だ。おそらく相当な老舗なのだろう。




この町家も古そうだ。宮本堂老舗という和菓子屋さんらしい(名前からして老舗だ)。屋根に小さな煙突が見えるが、おそらく、ガスコンロが普及する前のカマド(おくどさん)の名残りだろう。つまり相当古い。




竹田街道から寺田屋に向かって歩いていくと、すぐに観音像などが並んでいる場所にぶつかる。色々なものが雑多に並んでおり、聖地のような雰囲気だが、おそらく戦後にできたものではないか。


寺田屋に到着

上の聖地の2軒隣が寺田屋。今回の最重要ポイントだ。寺田屋といえば二つの事件がある。薩摩藩士粛清事件と坂本龍馬襲撃事件。どちらも明治維新を語るとき避けて通れない。




寺田屋外回り(その1)。寺田屋に到着した。まずは正面から見てみよう。1階の格子窓や2階の手すりなど、どれも良い感じだ。明治に再建した建物らしいが、今も現役で旅館を営業している、というのは凄い。




寺田屋外回り(その2)。続いて斜めから。寺田屋自体は「表側が焼けただけで、裏の一部は焼け残った」と主張している。(見学時にはっきりそう言っていた)

まぁ、素晴らしい明治建築物なので、そこは拘らなくても良いと思う。坂本龍馬にまつわるテーマパークみたいなものだから。雰囲気さえ掴められれば良い。




寺田屋外回り(その3)。寺田屋の右隣は、石碑が並ぶ小公園になっている。まず目に入るのは「伏見寺田屋殉難九烈士之碑」。

薩摩藩士が、同士討ちにより、9名戦死した事件の石碑だ。討った藩士も、討たれた藩士も、同じ国を想う尊王派志士だった。

ここで有馬新七など将来有望な若者が死んでいったのは残念すぎる。なお右側の駒札は霞んでいて何が書いてあるか不明。




寺田屋外回り(その4)。「史跡 寺田屋」の大きな石碑もある。この石碑には「坂本龍馬先生 遭難の跡」とも書かれている。なに先生だって?これには坂本龍馬も苦笑するに違いない。




寺田屋外回り(その5)。小さな坂本龍馬像もある。台座にはまた「坂本龍馬先生」。まぁそれは置くとして、この像は見覚えがある。土佐稲荷の像と同じではないか。同じ人物が造ったものだろうか。一体いくつあるのだろう。

さらに、その奥には巨大な尖塔型の石碑も見える。そちらは「薩藩九列士遺蹟表」という。寺田屋事件で死んだ薩摩藩士の遺蹟を讃えた碑らしい。寺田屋二大事件の一つだ。彼らのお墓は、伏見の大黒寺にあり、後で行く予定。


寺田屋内部を見学

では寺田屋の建物内を見学しよう。明治に再建されたものとはいえ、当時の雰囲気をある程度残しているに違いない。しかも古い建物ファンなら尚更興味津々だ。




寺田屋内部(その1)。建物内に入ると、いきなり坂本龍馬テーマパークのような趣き。元々は薩摩藩の定宿だったらしいが、もはや坂本龍馬一本だけで(笑)やっているようだ。




寺田屋内部(その2)。この階段を上がると宿泊部屋の並んでいる二階。当時をどこまで再現しているか分からないが、雰囲気さえ掴められれば良い。




寺田屋内部(その3)。二階の部屋。これは、とても良い感じだ。明治の旅館建築の粋(いき)が伝わってくる。

特に、窓の桟(さん)と手すりが、何とも言えない風情を出しているではないか。やはり、来て良かった。




寺田屋内部(その4)。刀痕の貼り紙。寺田屋によれば、坂本龍馬襲撃事件の際の刀痕らしいが、あくまでも再現(レプリカ)と思えば良いだろう。




寺田屋内部(その5)。これはまた別の部屋だが、凄いと思ったのは、手すりの模様が違うこと。大工さんは相当こだわったね。




寺田屋内部(その6)。裏側の階段。お龍さんが駆け上がったものを再現した、といったところだろうか。

有名な話だが、お龍さんが一階のお風呂に入っているとき襲撃に気付き、この階段を裸で駆け上がった。

龍馬はそれで襲撃を知った訳で、まさにお龍さんによって救われた、と言って良い。では降りていこう。




寺田屋内部(その7)。「裸のお龍さんで有名なお風呂です」と書いてある。これはどうみてもレプリカだろうけど。ただ位置関係を知るには役立つ。やはり幕末にあった建物をほぼ同じように再現して建てたようだ。




寺田屋内部(その8)。一番最後の部屋。ここは坂本龍馬に関する書籍も沢山あり、まさに坂本龍馬のテーマパークだ。龍馬ファンは来る価値があるだろう。

それに歴史好きや古民家ファンも十分楽しめる。明治の旅館建築として十分価値のある建物だ。(しかも舟宿なんて珍しい!) ぜひ今後も残してほしいと思う。


南浜通を東へ

寺田屋を出た後は、南浜通を東へ向かう。そこは古建築の建ち並ぶ凄い街並みだ。




寺田屋を出ると、すぐ左側に「竜馬通り商店街」が見えるが、ここは行かずに素通りする。ただ、その前に街灯の看板を見てほしい。行けども行けども「竜馬通り」と書いてある。この街は龍馬抜きには語れないのか(笑)




そのまま歩くとすぐ北側に、また素晴らしい町家。これは大正時代か昭和初期くらいだろうか。




続いて現れたのは、大きな倉庫のような建物。黄桜酒造の酒蔵だ。ここから酒造の街並みが広がる。




その東隣には、また凄い町家の数々。この南浜通は本当に凄い。




その南側を見ても凄い。いくらでも出てくるね。




これは何?と思ったら消防署!ここでは消防署も町家風!?




では消防署の前の道を北へ進もう。それにしても、こんな路地も古い街並みが残されている!


黄桜酒造

伏見には、黄桜や月桂冠、松竹梅などの有名な酒造の他にも、無数の小さな酒造が軒を連ねている。全部回ったら何日あっても足りない。とりあえず目についた所は訪ねよう。




黄桜(その1)。塩屋町の通りに出たら、西へ向かう。ここも古い建物だらけの凄い街並み!と思ったら、両サイドとも黄桜の建物だった。




黄桜(その2)。まずは南側の建物から。黄桜の工場だ。おそらく明治期のものだろうか。中の一部は資料館になっていて見学できる。早速入ってみよう。




黄桜(その3)。黄桜資料館の内部。元々は酒蔵だったのだろう。天井が凄く高い。




黄桜(その4)。ここで一旦黄桜を出て、塩屋町の通りに出た。すると左隣に立派な町家。あまりにも美しい建物なので撮っておいた。

おそらく建築年代は明治か大正時代だろう。ただ気になるのは、江戸時代を思わせるような二階の窓の造り。これは何とも素晴らしい。




黄桜(その5)。そして北側には「カッパカントリー」という黄桜直営の居酒屋レストラン。何でも地ビールまで造っているらしい。喉を潤したいところだが、今日は先が長いので諦める(笑)


伏見土佐藩邸跡から月桂冠旧本社へ

黄桜の東側には伏見土佐藩邸跡がある。坂本龍馬にすれば、土佐藩邸にかくまってもらいたかっただろうが、方向的に伏見奉行所に近く、そこには行けなかったようだ。その土佐藩邸跡の南側は月桂冠の建物群が広がっている。




カッパカントリーから東へ歩くと、また凄い建物が現れる。明治か大正時代の酒蔵だろう。今はレストランになっているようだ。その手前の路地を南へ入る。




すぐに伏見土佐藩邸跡の石碑。前も言ったように、伏見は京都の玄関口として、重要な地位にあったので、大きな藩はほとんど藩邸を置いていた。

坂本龍馬はここを目指したかった事だろうが、会津藩新撰組が陣を置いていた伏見奉行所に近かったので来られず、結局反対の西方向へ脱出した。




また元の通りに戻って東へ向かうと、突き当たりに物凄い建物が現れる。やはり酒蔵だったのだろう。今は飲食店と陶器店になっているようだ。こんな建物が普通に建ってるなんて、本当に伏見は凄い。




月桂冠旧本社(その1)。南へ歩くと月桂冠の建物群が見えてくる。まず正面に見えるのは土蔵。おそらく酒蔵だったのだろう。窓の数が多いのは換気対策ではないだろうか。

そして右側の黒っぽい建物は、月桂冠創業者の大蔵家の長屋門。文政11年に建てられた歴史的建物だ。2階の小さな虫籠窓の連なりと、1階の太い格子が圧倒的な存在感。




月桂冠旧本社(その2)。右側道路の突き当たりに月桂冠旧本社。まだ笠置屋という屋号だった頃の建物だろう。その素晴らしさに圧倒される。今はレストランになっているようだ。




月桂冠旧本社(その3)。同じ旧本社を別角度から。本当にどこから見ても凄い建物だ。こんな建物が残されているなんて素晴らし過ぎる。さすが老舗の月桂冠という他ない。


月桂冠新本社からイエズス教会跡地へ

日本を代表する酒造メーカー、月桂冠関連の建物は続く。とにかく南へ歩いていこう。




すぐ左側に月桂冠の新本社。寛永14年創業という老舗メーカーの現在の本社だ。




そのまま南へ向かう。右側には月桂冠の古い建物がどこまでも続いている。明治42年築らしい。本当に凄い。




左側に駒札(将棋の駒の形をした看板)を発見。何だろうと近づいてみると、「イエズス会 伏見教会跡地」と書いてある。ここにキリシタン大名高山右近の建てたカトリック教会があったようだ。




この道の奥にカトリック教会があった。そこへ行く道なので"信仰の小道"と呼ばれているらしい。高山右近は、キリシタン大名として余りにも有名だが、伏見に教会があった事は知らなかった。今は月桂冠の所有地だが、丁寧に保存されているようだ。さすが老舗メーカーらしく心温まる。


月桂冠大倉記念館

月桂冠の建物の一部は記念資料館になっている。古い酒蔵をそのまま活かして使われているらしい。古民家ファンは見学必須だろう(笑)




月桂冠記念館(その1)。ここが入り口。いわゆる長屋門のような形状になっている。では早速入っていこう。




月桂冠記念館(その2)。中は完全に歴史資料館だ。かつて人力で造っていた頃の資材が所狭しと展示されている。すべて京都市指定有形民俗文化財とのこと。もはや説明不要。写真のみ提示しよう。




月桂冠記念館(その3)。




月桂冠記念館(その4)。




月桂冠記念館(その5)。




月桂冠記念館(その6)。「さかみず」。名水の里、伏見らしい。地下から湧き出る名水で、これも伏見を代表する名水の一つ。




月桂冠記念館(その7)。レンガ造りの煙突が良いね。




月桂冠記念館(その8)。最後はここで3種類の生酒が試飲できる。どれも美味しかった。普段は地酒ばかり飲んでいて、あまり大手メーカーのものは飲まなかったのだが、反省しよう。大手のものも十分美味い。


弁天橋から会津藩駐屯地跡へ

月桂冠記念館を出ると、すぐ南側に十石舟乗り場のある弁天橋。今は観光客がのんびり舟旅を楽しめる場所だ。そこから北へ向かって、一気に会津藩駐屯地跡へ向かおう。




ほろ酔い気分で南へ歩くと、弁天橋に出る。実は最初に訪ねた長建寺はここからすぐだ。




橋の上から濠川を眺めよう。すぐそこに十石舟乗り場もある。観光客を乗せて、のんびり伏見周遊できるらしい。

時間があればのんびりしたいところだが今回は忙しい。舟遊びは次回にとっておいて、すぐにまた北へ戻ろう。




月桂冠旧本社を越えて、さらに北へ進むと、右側に白菊水がある。これも伏見七名水のひとつ。本当に伏見は名水井が多い。




さらに北へ進み、油掛け通とのT字路の突き当たりにお地蔵さん。格子の向こうに二体あるのが薄ぼんやり分かる。




会津藩駐屯地跡(その1)。さらに北へ進むと、突き当たりに東本願寺伏見別院(通称、伏見御堂)。ここが会津藩駐屯地だった。

鳥羽で戦闘が始まると、伏見の御香宮に陣を構えていた薩摩藩も砲撃を開始。あっという間に伏見は火の海になったらしい。




会津藩駐屯地跡(その2)。この地に陣を構えていた会津軍も迎撃を開始、激しい戦闘が繰り広げられた。

だが意気軒昂な会津藩士といえど、近代装備を備えていた薩摩軍には歯が立たず、結局、淀方面へ敗走する。


油掛け通を西へ

では油掛け通を西へ進もう。この先に油掛け地蔵があるので名前が付いた。歴史ある通りだ。

※ちなみに京都では"通り"の事を"通"と書く。なので油掛け通。読み方は普通に"とおり"だけど(笑)




油掛け通を入ると、いきなり右側に立派な土蔵が現れる。江戸期か明治初期だろうか。その先も何やら凄い町家が見えるぞ。




油掛け通で見かけた凄い町家(その1)。どうやら山本本家という造り酒屋らしい。創業は江戸初期とのこと。さすが伏見という他ない。

ここからは解説抜きで見ていこう。




油掛け通で見かけた凄い町家(その2)。




油掛け通で見かけた凄い町家(その3)。




油掛け通で見かけた凄い町家(その4)。看板を見ると一級建築士事務所らしい。明治時代の築だろうか。凄いね。




油掛け通で見かけた凄い町家(その5)。こちらはお菓子司のようだ。昭和初期?




油掛け通で見かけた凄い町家(その6)。よく分からないが、普通の民家だろうか。明治時代?




油掛け通で見かけた凄い町家(その7)。こちらは家守酒造といって、クラフトビールの製造・販売店らしい。比較的最近だろうか。建物自体は明治初期だろうけど。




ここで再び、龍馬通り商店街が現れる。先ほど見た通りの続きだろう。ここは曲がらず、真っ直ぐ進む。


油掛け地蔵から竹田街道

しばらく歩くと右側に油掛け地蔵。そしてその先に駿河屋本店を経て、竹田街道に至る。




油掛け地蔵(その1)。やがて右側に油掛け地蔵尊の入り口が現れる。左側の石碑に、芭蕉が来訪して句を詠じた、というような事が書いてある。これは初耳だ。早速入ってみよう。




油掛け地蔵(その2)。まずは本堂から。油掛山西岸寺というらしい。創建ははっきりしないが、安土桃山時代のようだ。知恩院末寺の浄土宗。




油掛け地蔵(その3)。こちらが油掛け地蔵尊。油を掛ければ願いがかなうという。なので油で真っ黒だ。これは凄い。

以前、嵯峨野でも同じような地蔵尊を見たが、どちらも凄い迫力を感じる。こういった庶民の信仰は逞しくて大好きだ(笑)




駿河屋本店(その1)。やがて竹田街道との交差点に出るが、その手前角に駿河屋本店がある。建物は昭和に入ってからだろうが、老舗の匂いをプンプン感じる。これは気になる。




駿河屋本店(その2)。調べてみると、室町時代の創業という超老舗の和菓子司のようだ。今は和歌山に拠点を移したが、ここが総本家とのこと。いゃ驚いたが、さすが伏見という他ない。




駿河屋本店(その3)。お店の角に、「電気鉄道事業発祥の地」という石碑もあった。かつて伏見インクラインで発電された電気を使って、京都駅からここまで市電が走っていた。それを指しているのだろう。(京都駅の竹田口にも同じような石碑がある)


竹田街道から坂本龍馬避難跡へ

竹田街道を北上して坂本龍馬避難跡へ向かう。竹田街道は物流拠点の伏見と京都を結ぶ重要街道。明治に入ってからも、日本初の市電が通るなど、重要性は増すばかりだった。




早速北へ向かおう。するとすぐに素晴らしい古民家が現れる。蔵もあるが、江戸期か明治だろうか。




凄いね、竹田街道。次々と良い感じの町家が現れる。何屋さんだったのだろうか。




やがて大手筋に出るので、左へ曲がる。すると北川本家という老舗の造り酒屋が現れる。全然知らなかったが、江戸時代の創業というから超老舗じゃないか。
こんな老舗の造り酒屋が思いがけず現れるなんて、さすが伏見だ(建物は新しかったので撮らなかったが)。ただ敷地の角にお地蔵さんがあったので撮っておいた。




やがて大手筋は、濠川にかかる橋に出る。この橋の向こう側に、坂本龍馬避難跡があるはずだ。




坂本龍馬避難跡(その1)。立派な石碑が建っていた。この脇に材木小屋があり、寺田屋で襲撃された龍馬はそこに避難。薩摩藩からの救援を待っていた。




坂本龍馬避難跡(その2)。もちろん目立つ竹田街道を通ったのではなく、その裏道を抜けて、ここまで来たらしい。

ここからさらに北側に、薩摩藩の伏見屋敷があり、彼は薩摩藩に救援依頼を送り、ひたすらここで身をひそめた。

ここで薩摩藩に救援された事により、さらに薩摩との距離が縮まり、後の薩摩行、そして亀山社中へと繋がっていく。


大手筋を東へ

大手筋を東へ進もう。この道は銀座跡などのある伏見の中心地だった。今もアーケード街があり、伏見の経済・文化の中心地である事に変わりはない。




東へ戻るとすぐにお地蔵さん。本当に京都はお地蔵さんが多い。夏の終わりを告げる地蔵盆も無くてはならない風物詩。




やがて大手筋商店街に入る。豊臣秀吉伏見城を築いた時、ここを大手筋としたので、伏見の中心地となり、繁栄が始まった。歴史も由緒もある商店街といえる。




アーケードを入ると、すぐ左側に大光寺がある。石碑にあるように、元は徳川家光の傅役だった青山伯耆守の屋敷跡だったらしい。




続いて現れるのは源空寺。何とも不思議な形をした山門がある。この異形の建物は何だろうか。

寺伝では伏見城の楼門を移築した事になっているらしい。真実か否かは不明だが存在感は大きい。




では大手筋商店街をどんどん進もう。古くからある商店街だが、最近は新しい経営者も増えて、徐々に変わってきているらしい。人気のパン屋さんやカフェもできたとの事。何となく良いね。




やがて左側に伏見銀座跡の碑。ここが銀座発祥の地だった。といっても東京銀座ではなく、本物の銀座のほう。

鋳を加工して銀貨を作る鋳造所のことだ。江戸時代初めに徳川慶喜の命により、ここに初めて造られたらしい。




すぐ正面に踏切。京阪電車が通り過ぎていく。右側に京阪伏見桃山駅がある。伏見の中心駅なのに、京阪らしく質素な駅だ。


京町通を南へ

京阪伏見桃山駅を過ぎると、すぐに京町通と交差する。由緒あるその通りを南へ曲がり、鳥羽伏見の戦いの痕跡へ向かおう。




京町通を入ってすぐ右側に凄い町家を発見。明治時代だろうか。




続いて左側。やはり明治時代だろうか。こんな凄いのが簡単に現れるなんて、本当に京都は凄いね。




そのまま京町通を南へ進もう。左右には凄い町家が次々と現れる。由緒ある通りなのだろう。




京町通の説明看板を発見。それによると、この道は、北に行くと本町通、つまり大和大路。南に行くと奈良街道。つまり京と奈良を結ぶメインストリートだった。


鳥羽伏見の戦いの銃弾痕

やがて右側に、鳥羽伏見の戦いの銃弾痕のある町家が現れる。ここは戦場だったのだ。




鳥羽伏見の戦いの銃弾痕(その1)。この町家に銃弾痕があるらしい。近づいてみよう。




鳥羽伏見の戦いの銃弾痕(その2)。木格子に残る傷痕。流れ弾が当たったということか。左から右へ当たっているので、伏見奉行所に陣を構えた会津藩か、新撰組の撃ったものだろう。




鳥羽伏見の戦いの銃弾痕(その4)。いずれにしろ、ここで会津藩新撰組は大敗する。旧式銃と刀剣では太刀打ちできなかった。(薩摩藩は新式銃器を揃えていた)

特に新撰組土方歳三はこれで悟る。これからの軍隊は最新式の西洋軍備じゃないと戦えないと。そして自ら率先して、西洋式に改めていく。

箱館戦争のときの土方歳三の姿を見れば分かるだろう。一番有名な写真だが、彼はマゲを切り、西洋軍服を着ている。彼は根っからの軍人だったのだ。




鳥羽伏見の戦いの銃弾痕(その5)。左端に説明看板がある。ところで、鳥羽伏見の戦いの時に、既にあった建物という事は、江戸時代の建物ということだろう。これは凄いね。


伏見奉行所跡へ向かう

では次の目的地「伏見奉行所跡」へ向かおう。会津藩新撰組の最後の陣地となった場所だ。




京町通を南へ行くと、左側にお地蔵さんがある。




油掛け通に出たら、左折して東へ向かおう。遠くに近鉄の高架橋が見える。




近鉄の高架橋に到着した。下を覗いてみると、右側はシャッター街。おそらく過去は店が並んでいたのだろう。繁栄の名残。通り過ぎようと思ったら・・・




近鉄の高架下にお地蔵さんがあった。これはビックリ。本当にどんな所にでもあるんだな。


伏見奉行所

やがて伏見奉行所跡に到着する。会津藩新撰組が、最後の陣を構えた所だ。明治以後は陸軍砲兵隊の基地になり、終戦後は進駐軍の基地になったりした。数奇な運命を辿ったと言って良い。現在は日本最初期の大型団地として、現在に至っている。




伏見奉行所跡(その1)。ここが団地入り口らしい。先ほども書いたが、戦後すぐ造成された日本最初期の団地として、団地マニアの間では有名だ。その名は桃陵団地という。




伏見奉行所跡(その2)。入り口左側に、わざわざ桃陵団地の歴史を記した石碑があった。有名な団地は違うね。




伏見奉行所跡(その3)。右側には伏見奉行所跡の石碑と駒札。伏見は、京都とは別の街だったので奉行所があった。

そして奉行所徳川幕府出先機関だったので、幕末ここに会津藩新撰組が陣を構えた訳だ。




伏見奉行所跡(その4)。やがて明治に入ってから、陸軍の基地になった。伏見工兵大十六大隊跡の石碑もある。




伏見奉行所跡(その5)。桃陵団地に沿って北へ歩いて行くとスターハウスも見えた。団地マニア垂涎の的!かつては結構な数があったのだが、今では希少な存在らしい。団地マニアのブログではよく取り上げられる。


御香宮神社へ向かう

次の目的地は御香宮神社。薩摩藩が陣を構えたところだ。地図を見ると意外と近い。ここから僕らは、鳥羽伏見の戦いのど真ん中を歩いていく事になる。




北へ向かうと、すぐ左側にお地蔵さん。当然このお地蔵さんも鳥羽伏見の戦いをくぐり抜けてきたのだろう。




再び大手筋に出るので、右折して東へ向かおう。正面に御香宮神社の大きな鳥居が見える。すぐそこが御香宮神社のようだ。

そうすると伏見奉行所とは本当に近いね。これは驚いた。会津藩新撰組薩摩藩は、この近さで戦闘を行なったという事か。




やがて左側に桃山幼稚園が現れる。日本聖公会桃山キリスト教会が建てた幼稚園だ。聖公会なので英国国教会の流れをくんでいるのだろう。聖公会系の教会は軽井沢や館山で見たが、戦前に建てられた古い教会建築が多い。




桃山幼稚園(その2)。ところがここの校舎は、なんと和風建築。昭和11年に宮大工が建てたらしい。御香宮神社の隣だからこうしたのだろうか。十字架と和風建築の取り合わせが妙味だ。


御香宮神社

ようやく御香宮神社に到着する。平安時代貞観4年に社殿を修造した記録がある、というから相当な古社と言っていい。だがそれより鳥羽伏見の戦いにおいて、薩摩藩が陣を構えた、という方が有名かもしれない。




御香宮神社(その1)。まずは立派な表門から。この門は伏見城の大手門を移築したらしい。国指定重要文化財




御香宮神社(その2)。では表門から境内へ入ろう。立派な鳥居と石畳の道を見れば、その奥深さが分かる。




御香宮神社(その3)。この極彩色に彩られた建物は拝殿。寛永二年、紀州徳川家初代の徳川頼宣の寄進により建立されたらしい。京都府指定文化財




御香宮神社(その4)。やがて奥に本殿が現れる。慶長十年、徳川家康の命により建立されたという。国指定重要文化財




御香宮神社(その5)。この絵馬堂も相当古そうだ。残念ながら建立年代は不明。




御香宮神社(その6)。境内には「竹田街道の車石」というのも保存されていた。竹田街道は伏見と京都を結ぶ重要街道で、物流の要衝と言える。

江戸時代は荷牛車が主な配送手段だったので、その利便性性を図るため、このような車石を街道に敷きつめて、レール代わりにしたらしい。




御香宮神社(その7)。伏見城の残石というのもあった。よく分からないが、まぁ石垣を保存しているのだろう。




御香宮神社(その8)。伏見七名水の一つ「御香水」。この神社の名前の由来となった清泉で、地元民もよく貰いに来るという。環境省選定の日本名水百選の一つでもある。




御香宮神社(その9)。伏見の戦跡の石碑。これを見るためにここに来たようなものだ。この石碑も明治に建てられたのだろう。




御香宮神社(その10)。伏見の戦跡の石碑の隣に説明看板があったのだが、なんと内閣総理大臣佐藤栄作の書だった。これは驚いた。


御香宮神社を出て大手筋を西へ

では次なる目的地、大黒寺へ向かおう。まずは大手筋を西へ戻る。




御香宮神社を出ると、すぐに「黒田節誕生の地」という駒札がある。これは初めて知った。黒田節に歌われる「酒は飲め飲め♪」というのも、"伏見の酒"という事だが本当だろうか(笑)




また大手筋を西へ。




やがて近鉄の高架下に出る。右側は近鉄桃山御陵前駅。なぜこの駅名かというと、大手筋を東へまっすぐ進むと、明治天皇伏見桃山御陵に出るからだ。伏見はただの城下町だけじゃなく、天皇御陵のある街でもあった。




とはいえ桃山御陵前駅の向かい側、つまりガード下の南側は、何やら怪しい商店街(失礼)。「駅前0番地」と言うらしい。暗くてよく見えないが、どうやら飲み屋街のようだ。ディープだね(笑)。時間があればゆっくり訪ねてみたい。


京町通を北へ


近鉄桃山御陵前駅を過ぎると、すぐに京町通に出るので、右折して北へ向かおう。




京町通を北へ。ここも古そうな通りだ。良い感じの町家がありそうで期待が膨らむ。




すぐ左側に九州熱中屋という飲み屋さん。良い感じの和風民家だが、これは戦後の築だろうか。




続いて右側に、また古そうな町家。明治だろうか。




2階の窓が狭いのが京町家の特徴。特に明治に多い。ではこの角を左折して西へ向かおう。




すぐに京阪の踏切がある。この辺りは近鉄と京阪が入り乱れてるね。ではここを渡って・・・。


新町通を通って伏見区役所へ

すぐに新町通に出るので、右折して北へ。伏見区役所の方向へ向かおう。




新町通北へ。この道も豊臣秀吉伏見城を築城した際、商家街として整備した道だ。期待できそう。




すぐに新町七丁目地蔵堂




伏見区役所へ曲がる角にある町家。外壁はトタン板だが、やはり明治か大正時代ではないだろうか。




やがて伏見区役所に到着。ここでトイレ休憩をした。




ここからは伏見区役所前の通り(南部町通)を北へ向かう。ちなみにこの辺りは、伏見中央図書館や伏見青少年センター、伏見児童館、伏見中学があるなど、伏見の中心拠点のようになっている。




南部町通を進んで、すぐ右側に金礼宮がある。750年創建という古社らしい。


大黒寺


やがて大黒寺に到着する。薩摩藩邸に近いので、島津義弘公はこの寺を薩摩藩の祈祷所にしたという。薩摩藩ゆかりの寺なので、一般には「薩摩寺」などと呼ばれていたらしい。




大黒寺(その1)。ここが入り口だ。早速入っていこう。




大黒寺(その2)。本堂。幕末には薩摩藩士たちの密儀がたびたび行われていたという。西郷隆盛が会談したという部屋も残されているらしい。




大黒寺(その3)。寺田屋事件の九列士もこの地に葬られているらしい。




大黒寺(その4)。境内に金運清水という地下水もあった。さすが伏見。




大黒寺(その5)。この巨大な石碑は「薩摩藩義士の碑」。幕末ではなく、木曽川治水工事で亡くなった薩摩藩士を顕彰したもの。平田靫負の墓所もここにあるらしい。


伏見薩摩藩邸跡へ向かう

では大黒寺を出て伏見薩摩藩邸跡へ向かおう。ここからはもうすぐだ。




大黒寺を出て北へ向かい、すぐの交差点を左折する。右側は伏見児童館だが、何やら駒札が建ってるぞ。




寒天発祥の地らしい。初めて知った。




やがて左側に凄い町家が見える。どうやら畳屋さんらしい。明治だろうか。




濠川を渡る。




濠川を渡ると正面に、今回の最終目的地、「薩摩藩伏見藩邸跡」。まさにここに薩摩藩邸があった。そして坂本龍馬はここにかくまわれ、やがて治療のため薩摩へ向かった。なんとも言えず感慨深い。


京阪丹波橋駅

では京阪丹波橋駅へ向かおう。後は帰るだけだ。




濠川を渡って、そのまま京町通まで向かう。




京町通が現れたら、左折して北へ向かう。




すぐ左側に京町七丁目地蔵尊




また右側に凄い町家が現れたぞ。昭和だろうけど、本当に良い感じだ。




ついに京阪丹波橋駅に到着。ようやく長い旅が終わった。あらためて伏見という街の凄さ、そして面白さが分かった気がする。駆け足だったのがもったいない。ぜひ今度ゆっくり訪ねてみたい。


#京都歴史散歩
#幕末の京都
#伏見の歴史
#鳥羽伏見の戦い

明治維新を歩く(その5)〜天竜寺編〜

明治維新の舞台となった京都。多くの歴史的事件がこの街で起きた。薩摩・長州や新撰組などが暗躍し、坂本龍馬もこの街で亡くなった。

嵯峨の天竜寺は、禁門の変において、長州藩の本陣が置かれたために、戦火に巻き込まれた。今回は、その悲劇の歴史を辿ってみたい。


※「明治維新を歩く」と言っておきながら、それ以外も寄り道しまくる事、あらかじめご了承いただきたい。異界があれば寄る主義なのだ。


天竜寺総門から入る

では巨刹、天竜寺に入ろう。その敷地はとても広く、かつては嵐山や渡月橋から帷子ノ辻に至るまで、すべて天竜寺だったという。




まずは総門から入る。京都の他の巨刹と比べると、少し小さい。実は別に勅使門があるからだ。

勅使門とは天皇をお迎えする正門のこと。ここは通用門のようなものだ。だが勅使門は誰も通れないようになっており、我々一般人はここを通るしかない。気にせず入ろう。




続いて中門が現れる。この右側は塔頭(附属寺院のこと)が建ち並び、左側は勅使門や中池、駐車場だ。

言うまでもないが、天竜寺は足利尊氏が建立した古刹。吉野で死んだ後醍醐天皇の怨霊を恐れ、菩提を弔うために、夢窓疎石を開山に迎え入れて創建されたという。そういうことなら"異界"と言って良いだろう。




境内に入る。明治に入って狭くなったと言われているが、それでも十分広い。

さすが京都五山の一位と言われている寺だけある。ちなみに京都五山とは、足利幕府が定めた京都の寺の格式。他は相国寺建仁寺東福寺万寿寺と、超有名な名刹ばかりだ。


弘源寺へ


やがて右側に弘源寺が現れる。天竜寺の塔頭だ。何といっても、ここは長州藩士が付けた刀傷がある事で知られている。




弘源寺の門の右側に「春の特別拝観」の看板がある。たまたま公開日だった。これはラッキー。普段は見られない刀傷や庭が見られる。早速入っていこう。




正面に本堂が現れる。寛永年間の建立という歴史的建造物。天竜寺一帯は火事で何度も焼け、ほとんど明治の再建というから、この建物は貴重だろう。




玄関から右に進むと、広い縁側がある。この左側に美しい襖絵などが飾られていて、眼を奪われる。だが残念ながら撮影禁止だった。撮影可能なのは右側の庭方向のみだ。




これが「虎嘯の庭」と呼ばれる枯山水庭園。禅の悟りの境涯を表しているらしい。春の新緑の頃や、秋の紅葉の頃は、もっと綺麗だろう。




その縁側の柱に長州藩士の付けた刀傷がある。まさにこれを見るために天竜寺まで来たようなものだ。

禁門の変(蛤御門の変)の際、ここを本陣にした長州藩士たち。はやる血気を抑えられず、柱に刀を打ち込んだのだろう。その心意気や如何に。


天竜寺の方丈へ

ここからようやく天竜寺の方丈などに向かう。先ほども言ったが、ここから先の建物は明治に再建されたものばかりだ。




天竜寺の庫裡が現れる。ここで受付を済ませて方丈へ向かおう。

ところで、なぜ明治の建物ばかりかと言うと、禁門の変で焼かれてしまったからだ。長州藩は、ここと伏見長州藩邸に本陣をおいて、御所に攻め入った。特にここには "歴戦のツワモノ"来島又兵衛が率いる来島隊がいたから、主戦部隊だったのだろう。




方丈から庭を眺める。ここも火にかかって焼けたとは信じ難い。

さて結局、長州藩は敗北し、来島は自害した(別の場所で久坂玄瑞も自害して果てた)。

残された長州藩士はバラバラになって長州へ敗走。これで京都の街に平安が戻った、と言いたいところだが、そう簡単には終わらなかった。何せ敵は、あの薩摩藩だ。




方丈内部。静かで心安らぐ空間だ。ここで戦があったとは思えない。

さて上記の続きだが、空っぽになったと思われた天竜寺に薩摩藩兵がやって来た。残党狩りだ。しかも薩摩藩兵を率いるのも"歴戦のツワモノ" 村田新八。容赦無かった。彼らは、あろうことか天竜寺を焼き払ってしまったのだ。




方丈全景。もちろんこの建物も明治の再建だ。

それにしても、焼き払う必要は無かっただろう。"容赦無い" というよりも、もはや "残虐非道" と言いたくなる。しかもこの火は延焼して、京都の大半が焼ける事態になってしまった。




ここが有名な曹源池庭園。約700年前の夢窓国師作庭当時の面影を留めているという。嵐山を借景に紅葉の頃は特に美しいはず。日本初の史跡・特別名勝指定。


苔庭を眺めながら多宝殿へ

せっかくここまで来たので、他の建物も見て回ろう。苔の美しい庭や多宝殿などかあるという。




多宝殿へ向かう渡り廊下から、美しい苔庭が見えた。ここは本当に素晴らしい。まるで箱庭の世界のようだった。特にせせらぎは感動的でさえある。




一番はずれの多宝殿までやって来た。後醍醐天皇の像を祀っているらしい。ただ建物自体は昭和9年の建立という比較的新しい建物。




多宝殿から前庭を望む。手前の桜はまだ咲いてなかった。とはいえ、どこも庭は本当に美しい。

では法堂のところまで歩いて戻ろう。


最後は法堂へ

法堂とは説法する場所という意味。正しくは、"はっとう" と読む。




入り口近くの法堂まで戻ってきた。これも明治時代に再建されたものという。

さて天竜寺には、まだまだ伽藍が沢山あるのだが、これで、主なところは一通り見終わったはずだ。駆け足だったが。


・・・・・・・・・


という訳で、これで「明治維新を歩く(その5)〜天竜寺編〜」を終わる。今回は、長州藩が本陣を構えた天竜寺一ヶ所のみだった。なので歩き始める前は、きっと長州藩への思いが溢れ出すだろう、と思っていた。だが違った。

終わってみると、長州藩の事より、容赦なかった冷徹な薩摩藩の事が頭から離れない。重要文化財クラスの古刹をいとも簡単に焼き払ってしまう。こんなに美しい庭園や由緒ある建物が沢山あったのに・・・。薩摩は壊した。

そういえば江戸市中に火を放って混乱に陥れたのも薩摩藩の仕業だった。戊辰戦争を誘発するためだ。正しい事をしていると思ったのだろうが、焼き出された江戸庶民の事など頭に無かったに違いない。天竜寺の檀家達の事も。

かつて鹿児島に住んでいた頃、よく県民性として「一本木」「猪突猛進」「熱くなりやすい」などと聞いたが、まさにその通り。それは明治維新の原動力にもなった。だがそれが災いして西南戦争へも連なっていく。悲しい歴史だ。


〜  終わり  〜

明治維新を歩く(その4)〜二条城編〜

明治維新の舞台となった京都。多くの歴史的事件がこの街で起きた。薩摩・長州や新撰組などが暗躍し、坂本龍馬もこの街で亡くなった。


今回は二条城を巡る。大政奉還の場として、あまりにも有名だ。だがその周辺には、それだけじゃない "異形の歴史" も秘められていた。


※「明治維新を歩く」と言っておきながら、それ以外も寄り道しまくる事、あらかじめご了承いただきたい。異界があれば寄る主義なのだ。


六角獄舎から歩き始める

二条城の近くにある最大の "異界" は六角獄舎。幕末には、数多くの尊王攘夷派の志士達が、ここで処刑された。まずはここから歩き始めよう。




六角獄舎(その1)。「盟親」と書かれた門を入ると、すぐに石碑や祠、駒札などが建ち並んでいる。ここが敷地の一画らしい。

ここで平野国臣や古高俊太郎が処刑された。平野は「我が胸の燃ゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山」を詠んだ人物だ。

では近づいてみよう。




六角獄舎(その2)。右側の駒札(説明看板のこと)に、禁門の変の際におきた悲惨な事件が書いてある。

戦火が延焼し、京都市中に大規模火災が発生、それが六角獄舎にも迫ってきた。幕府側は、判決前にも関わらず、33名の志士を斬首してしまう。だが結局、六角獄舎に火は来なかった。何という事か・・・。その中に平野も古高もいたのだ。

なお、斬首に使われた刀を洗う「首洗井」が、埋め立てられてはいるが、敷地内に現存しているらしい。




六角獄舎(その3)。日本近代医学発祥という石碑もあった。

ここは宝暦4年、山脇東洋が、日本で初めて人体解剖を行った場所だという。解剖には死刑囚が用いられたとの事。これは初めて知った。ここはもう徹底的に異界のようだ。




六角獄舎(その4)。入り口から奥を見ると、左右はマンションだが、遠くに白壁の建物が見える。盟親という名前の厚生施設だ。

明治中頃に牢獄は移転していき、跡地にできた施設が盟親。"刑務所を出たものの身寄りが無い" という人の保護・更生施設だ。

かつて書いた「鳥辺野への道を歩く」で考察したが、江戸時代に幾つかあった火葬場跡は、現在すべて公共施設になっている。東山区役所や新道小学校、京都市公設西院老人デイサービスセンターなどだ。

今回の牢獄・処刑場跡も、保護更生施設になったという事なので、ざっくり考えると、同じ傾向にあると言えるのではないか。


武信稲荷

六角獄舎の隣に行くと武信稲荷という神社がある。ここには坂本龍馬にまつわる伝説があるという。どんな伝説なのだろうか。




武信稲荷(その1)。平安時代初期に、この辺りに延命院という治療院と、勧学院という学問所ができた。武信稲荷は、それらの守護神として祀られたものだという。




武信稲荷(その2)。延命院と勧学院は、右大臣を務めた公家の藤原良相によって創られたという。とにかく古い時代だ。その治療院や学問所が牢獄刑場になった、というのは摩訶不思議な運命という他ない。




武信稲荷(その3)。敷地内に樹齢約850年の御神木である榎(えのき)がある。平成25年、一部の枝が折れ落下してしまった。それをチェーンソーアート世界チャンピオンの城所ケイジ氏に依頼して、龍の姿に生まれ変わらせたという。




武信稲荷(その4)。御神木の榎は、坂本龍馬とも繋がりがあるという。説明看板によるとこうだ。

隣の六角獄舎には龍馬の妻お龍の父親も、勤王派の医師だったため、捕らえられていた。龍馬とお龍は何度か面会に訪れるが叶わない。そのため御神木の榎に登って、中の様子を窺ったという。

その後、龍馬は身を隠し、お龍は一人心配な日々を送っていた。ある時、武信稲荷を訪れると、榎に"龍"の文字を発見。龍馬からの無事を知らせる伝言だった。その後2人は再会できたという。

もちろん伝説であって、真実かどうかは分からない。ただ京都という街は、本当に各地に坂本龍馬伝説があるものだ、と感心させられる。


三条通へ向かう

武信稲荷を出て三条通へ向かおう。ただ、ここでも色々なものに出会ってしまう。




すぐ隣にお地蔵さんを発見。京都は本当にお地蔵さんが多い。




また、その隣に近代建築の中西医院。昭和初期だろうか。外壁は直されているようだが・・・。本当に京都は近代建築の宝庫だ。




向かい側には三条台若中会所。昭和2年築の古い民家だ。祇園祭の神輿渡御に奉仕している団体の施設らしい。三条台若中という団体は、元禄時代から世襲で続いている、というから凄い。




ようやく三条商店街に到着した。この辺りはアーケードがあって賑わっているようだ。

ここがあの三条通から続いている道とは思えないが、堀川通から西側は別世界。地元密着の店と、町家を改造したカフェなどが仲良く並んで、活気に溢れている。ちなみに長さ800mのアーケードは西日本最大級だそうだ。いつかゆっくり歩いてみたい。


大宮通を北上する

三条通から北は、大宮通を北上する。二条城目指して一直線。だがまた色々なものが登場してしまう。




ここが大宮通平安京創設以来あるという由緒ある道だ。大宮というのは御所の事で、内裏に接していたため名付けられたらしい。

ちなみに右側に写っている白壁も立派な土蔵で、何か由緒ある屋敷のようだ。静かな住宅街こそ隠れた旧跡があるに違いない。




すると、すぐ右側に立派な和風御殿が現れた。表札を見ると二尊円導教会というらしい。後で調べたら高野山真言宗のお寺だった。向拝の屋根の唐破風が見事すぎる。しかも銅板葺きだ。こんな建物がひっそりと建ってるなんて、やはり京都は凄いね。




続いて現れたのは二条陣屋。この門の奥に素晴らしい建物が建っているらしい。しかも国指定重要文化財とのこと。入ってみよう。




二条陣屋(その2)。入り口に駒札があった。見てみよう。

それによると、江戸後期に豪商の屋敷として、趣向を凝らして建てられたという。大名の泊まる宿も兼ねていたため、陣屋と呼ばれたらしい。早くも昭和19年に、国指定重要文化財に指定されたというから、その凄さが分かるだろう。




二条陣屋(その3)。建物入り口部分の全景。奥に行けば行くほど大きくなる、という特異な造りなので、本当は、ここから見たって全景は伝わらない。

しかも建物の中に、"からくり屋敷"のような仕掛けが沢山あるというから、普通の町家とは全然違った造りだ。さすが大名も泊まった元陣屋らしい。




二条陣屋(その4)。そもそも、現在この建物を所有している小川家自体も、元をたどれば、伊予今治城小川祐忠の末裔という。

本来は建物内や庭園なども、じっくり見るべきなのだが、残念ながら時間が無い。今回は駆け足旅だ。再訪を念じて後にする。


大手門前広場に到着する

ようやく二条城の大手門前広場に到着する。ここは、江戸城大手門前広場(つまり宮城前広場)ほど広くはないが、堀川通の空間まで入れると、かなり広い。




ここがその大手門前広場。左側には二条城の大手門が見える。また右側には堀川通が通っており、その右側にホテル・ザ・ミツイが見える。

ところで、二条城には面白い話があって、京都の南北の碁盤の目と少しズレているという。

平安京北極星を目印に、当時の最先端の測量技術を使って造られた。それに対して、二条城は磁石を使った測量技術で造られたから、東へ3度傾いているという。磁北と真北は違うのだ。どちらかが間違った訳ではない。




そのまま歩くと大手門が見えてきた。余談だが、朝ドラで話題の東映太秦映画村の大手門は、ここをモデルに造られたらしい。

ところで先ほどの話だが、二条城の築城当時は、北極星を使った測量技術も、磁石を使った測量技術も、両方知っていたはずだ。それなのに、なぜわざわざ変えたのか。

おそらく徳川家康は、旧来の権威を破壊したかったのではないか。だからワザと変えた。そもそも平安京の内裏を破壊して二条城を造ったのも同じ理由だろう。


ホテル・ザ・ミツイに寄る

二条城に入る前に、まだ寄る所がある。堀川通を挟んだ向かい側に建っているホテル・ザ・ミツイだ。その地は江戸時代まで福井藩邸があった。徳川家康の次男、秀康が興し、代々松平家が藩政を司った親藩だ。行ってみよう。




まずは堀川を渡る。この川の歴史は古くて、平安京造営時に、人工的に造られた運河だった。排水だけじゃなく、物流の役割も担っていたらしい。

だが戦後、下水道が普及すると枯れてしまった。平成に入り、大規模改修工事が行われ、せせらぎは復活した。実は、琵琶湖疏水の水を引いている。




ホテル・ザ・ミツイ京都に到着した。三井グループの最高級ラグジュアリーホテルだ。

先ほど言ったように、江戸時代までここは福井藩邸だった。幕末の藩主、松平春嶽は有名だろう。公武合体を主導する一方の旗頭であり、ここはその拠点だった。

明治になると三井財閥の惣領家が買い取り、本宅が置かれた(元々三井家は東京ではなく、京都出身だった)。三井一族の統轄機関である大元方まであったという。

だが昭和の中頃に、藤田観光に売却され、京都国際ホテルができた。京都初の本格シティホテルとして賑わっていたらしい。余談だが「二十歳の原点」の高野悦子のバイト先は、このホテルのレストランだった。

それが数年前に閉館し、阪急不動産を経て、三井不動産が買い戻した、という形になった。そこに三井グループが建てたのがホテル・ザ・ミツイ。三井本宅があった頃の庭の一部も、奇跡的に残っているらしい。




ホテル・ザ・ミツイの北西角に、橋本左内寓居跡と書かれた石碑と駒札がある。あの有名な尊王攘夷派の志士、橋本左内福井藩士だったのだ。だから京都滞在中は、ここを拠点にしていたという。

今さら言うまでもないが、松平春嶽の右腕として活躍し、徳川慶喜将軍実現のために奮闘し、西郷隆盛も一目置いた人物。25歳の若さで、安政の大獄で処刑されたが、多くの志士に影響を与えた。


では二条城へ

ようやく二条城の中に入る。徳川家康が京都の拠点に造った城だが、それよりも大政奉還の行われた場所、という方が有名だろう。




二条城大手門。これぞ二条城の正門だ。江戸前期の寛文2年(1662)の築で、国指定重要文化財大政奉還の際、徳川慶喜はこの門から入った。だが出ていく際は裏門から去ったという。




続いて現れたのは唐門。二の丸御殿の正門で、これも国指定重要文化財だ。唐破風の巨大さと、金細工の豪華さに圧倒される。先ほどの質素な大手門とは大違いだ。こちらは天皇行幸のために造られたからだろう。


二条城の中を歩く

唐門を抜けると、いよいよ二の丸御殿と本丸御殿。そのうち二の丸御殿の方が、大政奉還の舞台となったので、見学の中心になる。では見てみよう。




二の丸御殿(その1)。ここは入り口で、奥に全6棟の書院造の御殿群が連なっている。建てられたのは江戸初期。国内の城郭に残る唯一の御殿として、日本建築史上重要な遺構なので、国宝に指定されている。




二の丸御殿(その2)。続いて全景。二の丸御殿は全6棟の建物が斜めに連なっている、という特別な、そして美しい型式になっている。

そのうち、写真左側に見える大屋根の建物が、大政奉還の行われた場所だ。残念ながら、室内は撮影禁止なので、外からしか写せない。

明治維新のクライマックスの一つと言えるだろう。その大広間には人形が並んでいて、大政奉還が再現されているのは、どうかと思うが。




今度は本丸御殿。ただ保存工事中のため見学不可だった。まぁこちらはオマケみたいなものだから構わないが。

ここにある本丸御殿は、桂宮家が御所内に建てたものを、明治27年に、明治天皇の意向により移築したものらしい。

実は明治になってから、二条城は天皇家離宮として利用されていた。実際、大正天皇は約10回滞在されている。

そのため、二条城は正式名称を「元離宮二条城」という。


最後は西門へ


最後は、裏側にある西門にやって来た。遠くの石垣のところにチラッと見えている。裏門と言ってしまうと城郭ファンに怒られそうだ。正しくは搦手門(からめてもん)という。

ここは明治維新の寂しい舞台になった所だ。大政奉還を表明した徳川慶喜は、二条城を退去する際、ここを通って、西門から去っていったという。なぜそうしたのか、分からない。


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これで「明治維新を歩く〜二条城編〜」を終わる。今回は、二条城といい福井藩邸といい、さらには六角獄舎といい、徳川幕府に関連する史跡が多かった。

また今回は紹介しなかったが、徳川幕府により任命された京都守護職上屋敷も、実は近い。(「明治維新を歩く〜西陣編〜」で紹介したので参照されたい)

徳川幕府関連史跡が多いのは、やはり二条城があるからだろう。その中でも主人公と言えるのは徳川慶喜だ。最後は裏門から寂しく去っていったという。

それは彼の矜持だったのだろうか。今となってはよく分からない。一つだけ言えるのは、徳川の世が始まったのも、終わったのも、京都だったという事だ。


~  終わり  ~