京都の異界を歩く

ちょっと変わった京都の探訪記です

明治維新を歩く(その5)〜天竜寺編〜

明治維新の舞台となった京都。多くの歴史的事件がこの街で起きた。薩摩・長州や新撰組などが暗躍し、坂本龍馬もこの街で亡くなった。

嵯峨の天竜寺は、禁門の変において、長州藩の本陣が置かれたために、戦火に巻き込まれた。今回は、その悲劇の歴史を辿ってみたい。


※「明治維新を歩く」と言っておきながら、それ以外も寄り道しまくる事、あらかじめご了承いただきたい。異界があれば寄る主義なのだ。


天竜寺総門から入る

では巨刹、天竜寺に入ろう。その敷地はとても広く、かつては嵐山や渡月橋から帷子ノ辻に至るまで、すべて天竜寺だったという。




まずは総門から入る。京都の他の巨刹と比べると、少し小さい。実は別に勅使門があるからだ。

勅使門とは天皇をお迎えする正門のこと。ここは通用門のようなものだ。だが勅使門は誰も通れないようになっており、我々一般人はここを通るしかない。気にせず入ろう。




続いて中門が現れる。この右側は塔頭(附属寺院のこと)が建ち並び、左側は勅使門や中池、駐車場だ。

言うまでもないが、天竜寺は足利尊氏が建立した古刹。吉野で死んだ後醍醐天皇の怨霊を恐れ、菩提を弔うために、夢窓疎石を開山に迎え入れて創建されたという。そういうことなら"異界"と言って良いだろう。




境内に入る。明治に入って狭くなったと言われているが、それでも十分広い。

さすが京都五山の一位と言われている寺だけある。ちなみに京都五山とは、足利幕府が定めた京都の寺の格式。他は相国寺建仁寺東福寺万寿寺と、超有名な名刹ばかりだ。


弘源寺へ


やがて右側に弘源寺が現れる。天竜寺の塔頭だ。何といっても、ここは長州藩士が付けた刀傷がある事で知られている。




弘源寺の門の右側に「春の特別拝観」の看板がある。たまたま公開日だった。これはラッキー。普段は見られない刀傷や庭が見られる。早速入っていこう。




正面に本堂が現れる。寛永年間の建立という歴史的建造物。天竜寺一帯は火事で何度も焼け、ほとんど明治の再建というから、この建物は貴重だろう。




玄関から右に進むと、広い縁側がある。この左側に美しい襖絵などが飾られていて、眼を奪われる。だが残念ながら撮影禁止だった。撮影可能なのは右側の庭方向のみだ。




これが「虎嘯の庭」と呼ばれる枯山水庭園。禅の悟りの境涯を表しているらしい。春の新緑の頃や、秋の紅葉の頃は、もっと綺麗だろう。




その縁側の柱に長州藩士の付けた刀傷がある。まさにこれを見るために天竜寺まで来たようなものだ。

禁門の変(蛤御門の変)の際、ここを本陣にした長州藩士たち。はやる血気を抑えられず、柱に刀を打ち込んだのだろう。その心意気や如何に。


天竜寺の方丈へ

ここからようやく天竜寺の方丈などに向かう。先ほども言ったが、ここから先の建物は明治に再建されたものばかりだ。




天竜寺の庫裡が現れる。ここで受付を済ませて方丈へ向かおう。

ところで、なぜ明治の建物ばかりかと言うと、禁門の変で焼かれてしまったからだ。長州藩は、ここと伏見長州藩邸に本陣をおいて、御所に攻め入った。特にここには "歴戦のツワモノ"来島又兵衛が率いる来島隊がいたから、主戦部隊だったのだろう。




方丈から庭を眺める。ここも火にかかって焼けたとは信じ難い。

さて結局、長州藩は敗北し、来島は自害した(別の場所で久坂玄瑞も自害して果てた)。

残された長州藩士はバラバラになって長州へ敗走。これで京都の街に平安が戻った、と言いたいところだが、そう簡単には終わらなかった。何せ敵は、あの薩摩藩だ。




方丈内部。静かで心安らぐ空間だ。ここで戦があったとは思えない。

さて上記の続きだが、空っぽになったと思われた天竜寺に薩摩藩兵がやって来た。残党狩りだ。しかも薩摩藩兵を率いるのも"歴戦のツワモノ" 村田新八。容赦無かった。彼らは、あろうことか天竜寺を焼き払ってしまったのだ。




方丈全景。もちろんこの建物も明治の再建だ。

それにしても、焼き払う必要は無かっただろう。"容赦無い" というよりも、もはや "残虐非道" と言いたくなる。しかもこの火は延焼して、京都の大半が焼ける事態になってしまった。




ここが有名な曹源池庭園。約700年前の夢窓国師作庭当時の面影を留めているという。嵐山を借景に紅葉の頃は特に美しいはず。日本初の史跡・特別名勝指定。


苔庭を眺めながら多宝殿へ

せっかくここまで来たので、他の建物も見て回ろう。苔の美しい庭や多宝殿などかあるという。




多宝殿へ向かう渡り廊下から、美しい苔庭が見えた。ここは本当に素晴らしい。まるで箱庭の世界のようだった。特にせせらぎは感動的でさえある。




一番はずれの多宝殿までやって来た。後醍醐天皇の像を祀っているらしい。ただ建物自体は昭和9年の建立という比較的新しい建物。




多宝殿から前庭を望む。手前の桜はまだ咲いてなかった。とはいえ、どこも庭は本当に美しい。

では法堂のところまで歩いて戻ろう。


最後は法堂へ

法堂とは説法する場所という意味。正しくは、"はっとう" と読む。




入り口近くの法堂まで戻ってきた。これも明治時代に再建されたものという。

さて天竜寺には、まだまだ伽藍が沢山あるのだが、これで、主なところは一通り見終わったはずだ。駆け足だったが。


・・・・・・・・・


という訳で、これで「明治維新を歩く(その5)〜天竜寺編〜」を終わる。今回は、長州藩が本陣を構えた天竜寺一ヶ所のみだった。なので歩き始める前は、きっと長州藩への思いが溢れ出すだろう、と思っていた。だが違った。

終わってみると、長州藩の事より、容赦なかった冷徹な薩摩藩の事が頭から離れない。重要文化財クラスの古刹をいとも簡単に焼き払ってしまう。こんなに美しい庭園や由緒ある建物が沢山あったのに・・・。薩摩は壊した。

そういえば江戸市中に火を放って混乱に陥れたのも薩摩藩の仕業だった。戊辰戦争を誘発するためだ。正しい事をしていると思ったのだろうが、焼き出された江戸庶民の事など頭に無かったに違いない。天竜寺の檀家達の事も。

かつて鹿児島に住んでいた頃、よく県民性として「一本木」「猪突猛進」「熱くなりやすい」などと聞いたが、まさにその通り。それは明治維新の原動力にもなった。だがそれが災いして西南戦争へも連なっていく。悲しい歴史だ。


〜  終わり  〜

明治維新を歩く(その4)〜二条城編〜

明治維新の舞台となった京都。多くの歴史的事件がこの街で起きた。薩摩・長州や新撰組などが暗躍し、坂本龍馬もこの街で亡くなった。


今回は二条城を巡る。大政奉還の場として、あまりにも有名だ。だがその周辺には、それだけじゃない "異形の歴史" も秘められていた。


※「明治維新を歩く」と言っておきながら、それ以外も寄り道しまくる事、あらかじめご了承いただきたい。異界があれば寄る主義なのだ。


六角獄舎から歩き始める

二条城の近くにある最大の "異界" は六角獄舎。幕末には、数多くの尊王攘夷派の志士達が、ここで処刑された。まずはここから歩き始めよう。




六角獄舎(その1)。「盟親」と書かれた門を入ると、すぐに石碑や祠、駒札などが建ち並んでいる。ここが敷地の一画らしい。

ここで平野国臣や古高俊太郎が処刑された。平野は「我が胸の燃ゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山」を詠んだ人物だ。

では近づいてみよう。




六角獄舎(その2)。右側の駒札(説明看板のこと)に、禁門の変の際におきた悲惨な事件が書いてある。

戦火が延焼し、京都市中に大規模火災が発生、それが六角獄舎にも迫ってきた。幕府側は、判決前にも関わらず、33名の志士を斬首してしまう。だが結局、六角獄舎に火は来なかった。何という事か・・・。その中に平野も古高もいたのだ。

なお、斬首に使われた刀を洗う「首洗井」が、埋め立てられてはいるが、敷地内に現存しているらしい。




六角獄舎(その3)。日本近代医学発祥という石碑もあった。

ここは宝暦4年、山脇東洋が、日本で初めて人体解剖を行った場所だという。解剖には死刑囚が用いられたとの事。これは初めて知った。ここはもう徹底的に異界のようだ。




六角獄舎(その4)。入り口から奥を見ると、左右はマンションだが、遠くに白壁の建物が見える。盟親という名前の厚生施設だ。

明治中頃に牢獄は移転していき、跡地にできた施設が盟親。"刑務所を出たものの身寄りが無い" という人の保護・更生施設だ。

かつて書いた「鳥辺野への道を歩く」で考察したが、江戸時代に幾つかあった火葬場跡は、現在すべて公共施設になっている。東山区役所や新道小学校、京都市公設西院老人デイサービスセンターなどだ。

今回の牢獄・処刑場跡も、保護更生施設になったという事なので、ざっくり考えると、同じ傾向にあると言えるのではないか。


武信稲荷

六角獄舎の隣に行くと武信稲荷という神社がある。ここには坂本龍馬にまつわる伝説があるという。どんな伝説なのだろうか。




武信稲荷(その1)。平安時代初期に、この辺りに延命院という治療院と、勧学院という学問所ができた。武信稲荷は、それらの守護神として祀られたものだという。




武信稲荷(その2)。延命院と勧学院は、右大臣を務めた公家の藤原良相によって創られたという。とにかく古い時代だ。その治療院や学問所が牢獄刑場になった、というのは摩訶不思議な運命という他ない。




武信稲荷(その3)。敷地内に樹齢約850年の御神木である榎(えのき)がある。平成25年、一部の枝が折れ落下してしまった。それをチェーンソーアート世界チャンピオンの城所ケイジ氏に依頼して、龍の姿に生まれ変わらせたという。




武信稲荷(その4)。御神木の榎は、坂本龍馬とも繋がりがあるという。説明看板によるとこうだ。

隣の六角獄舎には龍馬の妻お龍の父親も、勤王派の医師だったため、捕らえられていた。龍馬とお龍は何度か面会に訪れるが叶わない。そのため御神木の榎に登って、中の様子を窺ったという。

その後、龍馬は身を隠し、お龍は一人心配な日々を送っていた。ある時、武信稲荷を訪れると、榎に"龍"の文字を発見。龍馬からの無事を知らせる伝言だった。その後2人は再会できたという。

もちろん伝説であって、真実かどうかは分からない。ただ京都という街は、本当に各地に坂本龍馬伝説があるものだ、と感心させられる。


三条通へ向かう

武信稲荷を出て三条通へ向かおう。ただ、ここでも色々なものに出会ってしまう。




すぐ隣にお地蔵さんを発見。京都は本当にお地蔵さんが多い。




また、その隣に近代建築の中西医院。昭和初期だろうか。外壁は直されているようだが・・・。本当に京都は近代建築の宝庫だ。




向かい側には三条台若中会所。昭和2年築の古い民家だ。祇園祭の神輿渡御に奉仕している団体の施設らしい。三条台若中という団体は、元禄時代から世襲で続いている、というから凄い。




ようやく三条商店街に到着した。この辺りはアーケードがあって賑わっているようだ。

ここがあの三条通から続いている道とは思えないが、堀川通から西側は別世界。地元密着の店と、町家を改造したカフェなどが仲良く並んで、活気に溢れている。ちなみに長さ800mのアーケードは西日本最大級だそうだ。いつかゆっくり歩いてみたい。


大宮通を北上する

三条通から北は、大宮通を北上する。二条城目指して一直線。だがまた色々なものが登場してしまう。




ここが大宮通平安京創設以来あるという由緒ある道だ。大宮というのは御所の事で、内裏に接していたため名付けられたらしい。

ちなみに右側に写っている白壁も立派な土蔵で、何か由緒ある屋敷のようだ。静かな住宅街こそ隠れた旧跡があるに違いない。




すると、すぐ右側に立派な和風御殿が現れた。表札を見ると二尊円導教会というらしい。後で調べたら高野山真言宗のお寺だった。向拝の屋根の唐破風が見事すぎる。しかも銅板葺きだ。こんな建物がひっそりと建ってるなんて、やはり京都は凄いね。




続いて現れたのは二条陣屋。この門の奥に素晴らしい建物が建っているらしい。しかも国指定重要文化財とのこと。入ってみよう。




二条陣屋(その2)。入り口に駒札があった。見てみよう。

それによると、江戸後期に豪商の屋敷として、趣向を凝らして建てられたという。大名の泊まる宿も兼ねていたため、陣屋と呼ばれたらしい。早くも昭和19年に、国指定重要文化財に指定されたというから、その凄さが分かるだろう。




二条陣屋(その3)。建物入り口部分の全景。奥に行けば行くほど大きくなる、という特異な造りなので、本当は、ここから見たって全景は伝わらない。

しかも建物の中に、"からくり屋敷"のような仕掛けが沢山あるというから、普通の町家とは全然違った造りだ。さすが大名も泊まった元陣屋らしい。




二条陣屋(その4)。そもそも、現在この建物を所有している小川家自体も、元をたどれば、伊予今治城小川祐忠の末裔という。

本来は建物内や庭園なども、じっくり見るべきなのだが、残念ながら時間が無い。今回は駆け足旅だ。再訪を念じて後にする。


大手門前広場に到着する

ようやく二条城の大手門前広場に到着する。ここは、江戸城大手門前広場(つまり宮城前広場)ほど広くはないが、堀川通の空間まで入れると、かなり広い。




ここがその大手門前広場。左側には二条城の大手門が見える。また右側には堀川通が通っており、その右側にホテル・ザ・ミツイが見える。

ところで、二条城には面白い話があって、京都の南北の碁盤の目と少しズレているという。

平安京北極星を目印に、当時の最先端の測量技術を使って造られた。それに対して、二条城は磁石を使った測量技術で造られたから、東へ3度傾いているという。磁北と真北は違うのだ。どちらかが間違った訳ではない。




そのまま歩くと大手門が見えてきた。余談だが、朝ドラで話題の東映太秦映画村の大手門は、ここをモデルに造られたらしい。

ところで先ほどの話だが、二条城の築城当時は、北極星を使った測量技術も、磁石を使った測量技術も、両方知っていたはずだ。それなのに、なぜわざわざ変えたのか。

おそらく徳川家康は、旧来の権威を破壊したかったのではないか。だからワザと変えた。そもそも平安京の内裏を破壊して二条城を造ったのも同じ理由だろう。


ホテル・ザ・ミツイに寄る

二条城に入る前に、まだ寄る所がある。堀川通を挟んだ向かい側に建っているホテル・ザ・ミツイだ。その地は江戸時代まで福井藩邸があった。徳川家康の次男、秀康が興し、代々松平家が藩政を司った親藩だ。行ってみよう。




まずは堀川を渡る。この川の歴史は古くて、平安京造営時に、人工的に造られた運河だった。排水だけじゃなく、物流の役割も担っていたらしい。

だが戦後、下水道が普及すると枯れてしまった。平成に入り、大規模改修工事が行われ、せせらぎは復活した。実は、琵琶湖疏水の水を引いている。




ホテル・ザ・ミツイ京都に到着した。三井グループの最高級ラグジュアリーホテルだ。

先ほど言ったように、江戸時代までここは福井藩邸だった。幕末の藩主、松平春嶽は有名だろう。公武合体を主導する一方の旗頭であり、ここはその拠点だった。

明治になると三井財閥の惣領家が買い取り、本宅が置かれた(元々三井家は東京ではなく、京都出身だった)。三井一族の統轄機関である大元方まであったという。

だが昭和の中頃に、藤田観光に売却され、京都国際ホテルができた。京都初の本格シティホテルとして賑わっていたらしい。余談だが「二十歳の原点」の高野悦子のバイト先は、このホテルのレストランだった。

それが数年前に閉館し、阪急不動産を経て、三井不動産が買い戻した、という形になった。そこに三井グループが建てたのがホテル・ザ・ミツイ。三井本宅があった頃の庭の一部も、奇跡的に残っているらしい。




ホテル・ザ・ミツイの北西角に、橋本左内寓居跡と書かれた石碑と駒札がある。あの有名な尊王攘夷派の志士、橋本左内福井藩士だったのだ。だから京都滞在中は、ここを拠点にしていたという。

今さら言うまでもないが、松平春嶽の右腕として活躍し、徳川慶喜将軍実現のために奮闘し、西郷隆盛も一目置いた人物。25歳の若さで、安政の大獄で処刑されたが、多くの志士に影響を与えた。


では二条城へ

ようやく二条城の中に入る。徳川家康が京都の拠点に造った城だが、それよりも大政奉還の行われた場所、という方が有名だろう。




二条城大手門。これぞ二条城の正門だ。江戸前期の寛文2年(1662)の築で、国指定重要文化財大政奉還の際、徳川慶喜はこの門から入った。だが出ていく際は裏門から去ったという。




続いて現れたのは唐門。二の丸御殿の正門で、これも国指定重要文化財だ。唐破風の巨大さと、金細工の豪華さに圧倒される。先ほどの質素な大手門とは大違いだ。こちらは天皇行幸のために造られたからだろう。


二条城の中を歩く

唐門を抜けると、いよいよ二の丸御殿と本丸御殿。そのうち二の丸御殿の方が、大政奉還の舞台となったので、見学の中心になる。では見てみよう。




二の丸御殿(その1)。ここは入り口で、奥に全6棟の書院造の御殿群が連なっている。建てられたのは江戸初期。国内の城郭に残る唯一の御殿として、日本建築史上重要な遺構なので、国宝に指定されている。




二の丸御殿(その2)。続いて全景。二の丸御殿は全6棟の建物が斜めに連なっている、という特別な、そして美しい型式になっている。

そのうち、写真左側に見える大屋根の建物が、大政奉還の行われた場所だ。残念ながら、室内は撮影禁止なので、外からしか写せない。

明治維新のクライマックスの一つと言えるだろう。その大広間には人形が並んでいて、大政奉還が再現されているのは、どうかと思うが。




今度は本丸御殿。ただ保存工事中のため見学不可だった。まぁこちらはオマケみたいなものだから構わないが。

ここにある本丸御殿は、桂宮家が御所内に建てたものを、明治27年に、明治天皇の意向により移築したものらしい。

実は明治になってから、二条城は天皇家離宮として利用されていた。実際、大正天皇は約10回滞在されている。

そのため、二条城は正式名称を「元離宮二条城」という。


最後は西門へ


最後は、裏側にある西門にやって来た。遠くの石垣のところにチラッと見えている。裏門と言ってしまうと城郭ファンに怒られそうだ。正しくは搦手門(からめてもん)という。

ここは明治維新の寂しい舞台になった所だ。大政奉還を表明した徳川慶喜は、二条城を退去する際、ここを通って、西門から去っていったという。なぜそうしたのか、分からない。


・・・・・・・・・


これで「明治維新を歩く〜二条城編〜」を終わる。今回は、二条城といい福井藩邸といい、さらには六角獄舎といい、徳川幕府に関連する史跡が多かった。

また今回は紹介しなかったが、徳川幕府により任命された京都守護職上屋敷も、実は近い。(「明治維新を歩く〜西陣編〜」で紹介したので参照されたい)

徳川幕府関連史跡が多いのは、やはり二条城があるからだろう。その中でも主人公と言えるのは徳川慶喜だ。最後は裏門から寂しく去っていったという。

それは彼の矜持だったのだろうか。今となってはよく分からない。一つだけ言えるのは、徳川の世が始まったのも、終わったのも、京都だったという事だ。


~  終わり  ~

明治維新を歩く(その3)〜西陣編〜

明治維新の舞台となった京都。多くの歴史的事件がこの街で起きた。薩摩・長州や新撰組などが暗躍し、坂本龍馬もこの街で亡くなった。

今回は西陣周辺を回る。この辺りには薩摩藩に関わる史跡が多い。なぜ木屋町ではなく、西陣だったのかも、おいおい語っていきたい。



※「明治維新を歩く」と言っておきながら、それ以外も寄り道しまくる事、あらかじめご了承いただきたい。異界があれば寄る主義なのだ。


まずは浄福寺から歩き始める

f:id:wazze2001:20220327233937j:plain
浄福寺(その1)。慶応3年、島津久光薩摩藩士700名を連れて京都に入った。その際、二本松藩邸だけでは収容しきれなかったので、このお寺を借り上げて駐屯所とした。



f:id:wazze2001:20220327233953j:plain
浄福寺(その2)。この大伽藍は本堂で、享保年間の建立という。京都市指定有形文化財。その巨大さには本当に圧倒される。

さて、ここに駐屯した薩摩藩士達は、浄福寺党と呼ばれた。去った後に見たら、あちこちに試し斬りの痕が残っていたらしい。

せっかくなので他の建物も見て回ろう。



f:id:wazze2001:20220327233946j:plain
浄福寺(その3)。こちらは地蔵堂で、やはり京都市指定有形文化財。小さいお堂だが風情があって良い。

そもそも、お寺自体の開創もかなり古く、奈良時代末期まで遡るという。実に、平安京造営前の話だ。



f:id:wazze2001:20220327233959j:plain
浄福寺(その4)。この鐘楼も古く、寛永5年の建立というから、江戸時代初期になる。もちろん京都市指定有形文化財



f:id:wazze2001:20220327233950j:plain
浄福寺(その5)。三間堂の釈迦堂は、江戸時代中期の建立という。やはり京都市指定有形文化財。次々とこんな建物が現れて、本当に凄いね。



f:id:wazze2001:20220327233940j:plain
浄福寺(その6)。護法大権現を祀っている護法堂。ここだけ世界感が違うようだ。

天明の大火の際、天狗が降りてきて、火を消してくれたという。それ以来、仏法を護ってくれる守護神(護法大権現)として、ここに天狗が祀られているらしい。



f:id:wazze2001:20220327233934j:plain
浄福寺(その7)。お寺の東方を護る赤門。遠くからもひときわ目立つので、浄福寺は別名「赤門寺」とも呼ばれるらしい。



それにしても、立派な伽藍の多い見事なお寺だった。それほど有名でもないのに、こんなお寺が普通にあるなんて、京都は本当に凄い。

ではここを出て、堀川通へ向かおう。


堀川通を南下する

f:id:wazze2001:20220327234039j:plain
やがて堀川通に到着した。ここから南へ歩こう。



f:id:wazze2001:20220327234054j:plain
南へ歩くとすぐに、安倍晴明を祀る晴明神社が現れる。ここは「安倍晴明を歩く」で訪問するので、今回は鳥居のみ。それにしても五芒星が目立つね。



f:id:wazze2001:20220327234134j:plain
その南側には一条戻橋。ここも「安倍晴明を歩く」で詳しく説明するので今回は通過。


第一堀川橋

f:id:wazze2001:20220327234146j:plain
一条戻橋から南の方を見ると、見事な石橋が見えた。近づいてみると、明治6年に造られた第一堀川橋とのこと。これは本当に素晴らしい。



f:id:wazze2001:20220327234152j:plain
第一堀川橋(その2)。下まで行ってみよう。本来は全円型(半円ではなく完全な円形)なのだが、下半分が埋め立てられて、半円型アーチ橋にしか見えない。全円を見てみたかった。京都市指定有形文化財



f:id:wazze2001:20220327234149j:plain
第一堀川橋(その3)。橋の前後は、せせらぎと遊べる親水コーナーになっている。

ところで堀川は、平安京造営時に運河として造られたものだが、戦後になって下水道の整備により涸れ川となっていた。それを近年、琵琶湖疏水の水を引き込んで、復活させたものだ。市民運動の成果もあったらしい。


堀川通からさらに東へ

f:id:wazze2001:20220327234250j:plain
第一堀川橋から東へ進むと、すぐに良い感じの町家がある。大正時代か昭和初期か分からないが、風情あふれる町家だ。京都は本当に素晴らしい。



f:id:wazze2001:20220327234255j:plain
その東側に「長宗我部はま子バレエ学園」という建物。立派なビルだし、きっと名のあるバレエ団だったのだろう(長宗我部はま子さんもきっと有名だったのだろう)。ただ残念ながらすでにやっている様子は無し。1階の居酒屋だけが営業しているようだ。



f:id:wazze2001:20220327234301j:plain
さらに東へ歩くと、「初代上京区役所跡」の石碑。明治16年から昭和13年まで、ここに上京区役所があったらしい。


会津藩洋学所跡

この辺りは会津藩松平容保公の勤めていた京都守護職上屋敷に近い。そのせいか会津藩の関わる史跡が出てくるようになる。



f:id:wazze2001:20220327234315j:plain
会津藩洋学所跡(その1)。元治元年(1864)、会津藩士、山本覚馬はここ長徳寺に洋学所を開設した。禁門の変(蛤御門の変)のあった年だ。

山本は会津藩士のみならず、京都にいる多くの諸藩士に洋学を教えて、京都に洋学の新風を巻き起こした、と言われている。



f:id:wazze2001:20220327234318j:plain
会津藩洋学所跡(その2)。山本覚馬は、NHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロイン新島八重の兄だ。彼はここで、英語と蘭学を教えていたらしい。

明治に入ると、山本は新島襄と協力して、同志社大学の創設に力を尽くした。さらに京都府議会の初代議長にも就任して、京都の近代化に貢献したという。


新町通を南へ

新町通は、かつて京の南北を結ぶメインストリート。平安時代から江戸時代まで、商業の中心として栄え、祇園祭の山鉾が幾つも並ぶ山鉾町だった。

明治時代に京都駅が出来てから、メインストリートは烏丸通に移った。ただ、今も京都府庁や警察本部など、政治拠点が並ぶのは、その名残だろう。



f:id:wazze2001:20220406223421j:plain
まずは京都ブライトンホテル。平安時代の頃は安倍晴明の屋敷があった所と言われている。「安倍晴明を歩く」で詳しく紹介するので、ここは眺めるのみにとどめる。



f:id:wazze2001:20220327234427j:plain
ブライトンホテルから南へ歩くと、すぐにこんな建物が現れる。立派な蔵造りの建物が何棟も連なっているようだ。一体何だろう。



f:id:wazze2001:20220327234432j:plain
南へ回り込むと判明。お醤油屋さんだった。もろみとか澤井本店とか書いてある。後で調べると、明治12年創業の澤井醤油本店というらしい。



f:id:wazze2001:20220327234429j:plain
雰囲気は素晴らしい。それにしても、京都は江戸時代の創業が余りにも多いので、明治12年だと何だか新しく感じる(笑)



f:id:wazze2001:20220327234507j:plain
そのまま南へ歩くと京都府警察本部。この左側は京都地方検察庁だ。この奥の京都府庁や右側の近畿農政局も含めると、まさに京都の政治拠点という事が分かる。

さて何か説明看板があるので見てみよう。



f:id:wazze2001:20220327234504j:plain
平安京左京一条三坊二町跡とある。平安京時代の遺跡らしい。さらにここには室町時代の上京惣構でもあったというから、重要な場所だった訳だ。

では南側の京都府庁へ向かおう。


京都守護職上屋敷

f:id:wazze2001:20220327234619j:plain
京都府庁の敷地内に入った。府庁舎自体も近代建築だが、それは後で見るとして、まずは会津藩松平容保公が勤めた京都守護職上屋敷跡の碑から見てみよう。



f:id:wazze2001:20220327234514j:plain
京都守護職上屋敷跡の石碑。今さら言うまでもないが、京の治安維持のために幕府から任命された会津藩松平容保公の勤めた場所。現在の京都府庁全体の敷地がそうだったらしい。相当広かった。



f:id:wazze2001:20220327234510j:plain
その奥の方で工事中なのは、旧京都府警察本部だった建物。ここに文化庁が移転してくるので、耐震工事をしているという。

文化庁が京都に移転するのは知っていたが、旧京都府警察本部だったとは。ここが日本文化を守り育てる拠点になる訳だ。

この建物は、昭和3年に京都で行われた昭和天皇の即位礼に合わせて建てられた歴史的建造物。いずれ文化財になるだろう。


京都府庁旧本館

f:id:wazze2001:20220327234558j:plain
せっかくここまで来たら入らない訳にはいかない。明治37年に建てられた京都府庁旧本館だ。国指定重要文化財



f:id:wazze2001:20220327234613j:plain
京都府庁旧本館(その2)。外観はルネッサンス様式の威風堂々とした建物。これを設計したのは、明治建築界の巨匠、辰野金吾の弟子である松室重光という。



f:id:wazze2001:20220327234603j:plain
京都府庁旧本館(その3)。本館は移ったものの、現在も現役の府庁舎として、執務し続けられている、というのは凄い。府によると、現役の官公庁建物としては日本最古のものらしい。



f:id:wazze2001:20220327234554j:plain
京都府庁旧本館(その4)。柱間の優雅な曲線(アール)が美しい。そして真正面には階段。僕は他のところでも言ったが、洋館の一番の見どころは、階段だと思っている。



f:id:wazze2001:20220327234616j:plain
京都府庁旧本館(その5)。階段の勾配は、緩やかであればあるほど、優美さが感じられる。その階段をゆっくりゆっくり降りてくる貴婦人や貴公子の姿を想像したら良い。



f:id:wazze2001:20220327234601j:plain
京都府庁旧本館(その6)。廊下も厳かだ。左側に見える"上下上げ下げ窓" も良い感じ。そこから漏れてくる陽光は美しい。

ではここを通って、旧議場の方へ向かおう。



f:id:wazze2001:20220327234552j:plain
京都府庁旧本館(その7)。旧議場も美しい。まるで中世ヨーロッパにいるかのようだ。明治の日本が古典主義に憧れていた、という事が伝わってくるだろう。



f:id:wazze2001:20220327234610j:plain
京都府庁旧本館(その8)。旧議場はイベント会場としても使えるらしい。京都の伝統産業の発信や普及などに限定されるらしいが、大いに使い倒してもらいたいものだ。



f:id:wazze2001:20220327234607j:plain
京都府庁旧本館(その9)。それにしても京都は近代建築が多い。ここはその頂点ではないか。

そんな思いで、京都府庁旧本館を後にした。ここからは西へ歩いて、御所の方に向かおう。


京都平安女学院と聖アグネス教会

西へ歩くとすぐに平安女学院が現れる。そこに建つのは昭和館と聖アグネス教会という二つの近代建築。どちらも素晴らしい。



f:id:wazze2001:20220327234724j:plain
まず目に飛び込んできたのは昭和館昭和4年築という歴史的建造物だ。校舎として今も現役で使われているらしい。国登録有形文化財



f:id:wazze2001:20220327234727j:plain
昭和館(その2)。設計したのはアメリカ人建築家のJ.V.Wバーガミニー。そして構造設計は、あの内藤多仲だという。東京タワーや通天閣の設計で有名な建築家だ。



f:id:wazze2001:20220327234818j:plain
続いて物凄い建物が現れた。明治31年に建てられたという聖アグネス教会だ。設計はアメリカ人建設家ジェームズ・ガーディナー



f:id:wazze2001:20220327234815j:plain
聖アグネス教会(その2)。建築当時は「聖三一大聖堂」と呼ばれていたが、大正12年から聖アグネス教会と呼ばれるようになったという。京都市指定有形文化財



f:id:wazze2001:20220327234807j:plain
聖アグネス教会(その3)。その重厚なレンガに圧倒される。ちなみに敷地内にも明治館という名のレンガ建築があるらしい。そちらは国登録有形文化財



f:id:wazze2001:20220327234813j:plain
聖アグネス教会(その4)。教会建築というと窓に注目したい。ここも縦長窓やバラ窓などどれも凝っている。御所の向かいという立地も絶妙で、ある意味京都らしい。


烏丸通を北上する

ここから御所に沿って「烏丸通」を北上しよう。目指すは蛤御門。だが途中で色々面白いものが現れてしまう。



f:id:wazze2001:20220327234827j:plain
有栖川宮旧邸(その1)。まず現れた立派な門は、有栖川宮旧邸の青天門。大正期に作られたもので、国登録有形文化財になっている。現在は平安女学院の所有らしい。



f:id:wazze2001:20220327234830j:plain
有栖川宮旧邸(その2)。有栖川宮といえば、明治維新で2回ほど名前が出てくる。一つ目は、皇女和宮の婚約者としてだ。徳川家に無理矢理降家されせられた和宮は有名だが、元々は有栖川宮と婚約していた。

二つ目は、戊辰戦争における新政府軍の総大将としてだ。新政府軍といえば西郷隆盛が有名だが、実は総大将は有栖川宮だった。西郷が江戸に入って、無血開城の交渉をした際も、有栖川宮駿府に待機していた。



f:id:wazze2001:20220327234833j:plain
続いて護王神社が現れる。和気清麻呂を神として祀る神社だ。和気清麻呂といえば、平安京の造営を任されたり、道鏡事件で皇統を守ったりと、八面六臂の大活躍をした官僚のトップ。

それより猪神社の呼び名の方が有名だろう。狛犬の代わりに猪を置いてあるところから、そう呼ばれるようになったらしい。今では境内各所に猪にまつわるものが置かれている。


蛤御門

f:id:wazze2001:20220327234920j:plain
ついに蛤御門に到着した。禁門の変(蛤御門の変)が余りにも有名だ。

長州藩士が決起して御所を来襲したのだが、対する会津藩薩摩藩が守りきった事件をいう。いや事件というより内戦だが・・・。

御所の周囲で市街戦となったが、一番激しい戦闘だったのが蛤御門。以後、長州藩は朝敵となり、長州征伐へと進んでいく事になる。



f:id:wazze2001:20220327234916j:plain
蛤御門(その2)。例によって石碑が建っている。今の蛤御門は、明治10年頃に移設されたもので、それ以前は今よりも30mほど東側に建っていたという。ちなみに正式名称は新在家御門で、蛤御門というのは通称らしい。



f:id:wazze2001:20220327234923j:plain
蛤御門(その3)。当時の弾痕が今も残っている。しかも何ヵ所もあった。この市街戦で戦火が飛び火し、京都市街の大半が焼けてしまうという被害にあった。約3万戸が焼失したという。


中立売御門と乾御門


蛤御門を出て、そのまま御所に沿って北上しよう。



f:id:wazze2001:20220327234926j:plain
北へ歩いていくと中立売御門が現れる。ここも禁門の変の舞台だ。

元々筑前藩が守っていたのだが、長州藩はそれを突破して御所内へ侵入。しかし乾門を守っていた薩摩藩が駆けつけると形勢逆転。長州藩は敗退してしまった。

この戦いで結局、久坂玄瑞真木保臣といった、名のある志士まで死んでしまった。



f:id:wazze2001:20220327234928j:plain
次に見えてきたのは、あの有名な「とらや」。室町時代の創業という "超" 老舗の和菓子屋さんだ。

今は東京に本店があるが、元々はここが創業の地だった。室町時代より、天皇の要望に応じて御所に納めていたというが、御所の隣というこの場所なら近いので便利だ。

明治維新天皇が東京に行ってしまうと、とらやもお供して東京に行った、というのは有名な話だ。



f:id:wazze2001:20220327234934j:plain
乾御門に到着した。先ほども言ったように、禁門の変では薩摩藩がここを守っていた。もちろん西郷隆盛もいた。

やがて西郷以下薩摩藩は、中立売御門へ援軍に行き、長州藩を蹴散らしてしまった。以後、長州と薩摩はいがみ合うようになる。


二本松薩摩藩

ついに二本松薩摩藩邸に到着した。その広大な敷地は今、同志社大学になっている。近所に薩摩藩墓所があるなど、まさに薩摩藩の"縄張り"みたいな場所だ。



f:id:wazze2001:20220327234937j:plain
烏丸今出川交差点の右側に、唯一の名残りとも言える門が残されている。周囲はレンガ造の近代建築が多いのに、ここだけ異質だ。まぁそれも京都らしいと言えるが。



f:id:wazze2001:20220410154736j:plain
烏丸今出川交差点の角に地下鉄今出川駅。要するに烏丸通今出川通の交差する交通の要衝という訳だ。そして、この交差点の南側は天皇のおられた御所。北側は薩摩藩邸。今出川通を挟むだけで、非常に近い。

これで、薩摩藩がなぜここに藩邸を築いたかが分かるだろう。御所の守り役になりたかったに違いない。土佐藩長州藩等とは、考え方が違ったのだ。幕末における薩摩藩の立ち位置が突出していたのも頷ける。



f:id:wazze2001:20220328085419j:plain
烏丸今出川交差点の北側に同志社大学の西門。その脇に二本松薩摩藩邸跡を示す石碑と駒札がある。それを読むとかつては相国寺だったらしい。

さて、明治時代になると、一旦国有地になるが、払い下げで、元会津藩士の山本覚馬が買い取った。先ほど名前の出た会津藩洋学所の山本覚馬だ。

その後、山本は新島襄と出会い、思いを共有すると、自分の敷地を新島に譲る。また同志社の名前も彼が考えたらしい。そんな経緯で同志社はできた。



f:id:wazze2001:20220328085425j:plain
石碑の向こう側は同志社大学。今も言ったように新島襄が明治に作った大学だ。この中は驚くほどの近代建築の宝庫で、重要文化財が目白押し。本当は何時間もかけて見てまわりたい。ただ今回は明治維新が主題なので、残念だが中は回らない。次回を期したい。



f:id:wazze2001:20220328085431j:plain
西門の向かい側を見ると、いかにも学生街という感じ。昔ながらの喫茶店や、古本屋さんなどが、軒を連ねている。何だか早稲田通りを見ているようだ。


相国寺

f:id:wazze2001:20220328085438j:plain
続いて相国寺の入り口が現れる。室町時代を築いた足利幕府にとって、無くてはならない寺だ。御所の北に作った、というのが特に重要らしい。天皇よりも上に位置する、という立地になるからだ。

また、その敷地の半分以上を薩摩藩に貸し与えた、というのも重要だろう。勤王派だったのだろうか。そして薩摩藩墓地もすぐ近所にある。この一帯は薩摩にとって、極めて重要な場所だと言える。



f:id:wazze2001:20220328085459j:plain
相国寺(その2)。早速相国寺の建物を見て回ろう。これは経蔵。安政7年の築という。京都五山を代表するお寺というが、なるほど禅宗様式だ。



f:id:wazze2001:20220328085456j:plain
相国寺(その3)。こちらは本堂。慶長10年に建てられたという。もちろん国指定重要文化財京都五山というのは、鎌倉五山にならって作られた、足利時代の文化だ。



f:id:wazze2001:20220328085502j:plain
相国寺(その4)。この鐘楼も美しい。天保14年の築という。京都は公家文化と思われがちだが、こうしてみると武家文化も濃い、というのが伝わってこないだろうか。


薩摩藩墓所

相国寺を東へ進むと薩摩藩墓所に到着する。戊辰戦争で亡くなった藩士のお墓だ。



f:id:wazze2001:20220328085508j:plain
薩摩藩墓所(その1)。せっかく来たというのに、鉄扉があって中に入れない。何故だろう?仕方ないので外からお参りする。

それにしても、霊山墓地にある長州藩士のお墓や土佐藩士のお墓は、誰でもお参りできる。なぜ薩摩藩だけお参りできないのか?

かつて鹿児島に住んでいた頃に言われていた「鹿児島県民は身内に甘いがヨソモノに冷たい」という言葉が浮かんだ。まさかね。



f:id:wazze2001:20220328085505j:plain
薩摩藩墓所(その2)。鉄扉の隙間から写真を撮った。

ここでさらなる疑問がある。なぜ薩摩藩だけ霊山墓地にないのだろうか。他藩のお墓は、ほとんど霊山墓地にあるというのに。

西南戦争で朝敵になったからだろうか。いや違う。霊山墓地は明治元年に勅命で整備されたもの。西南戦争よりもっと前だ。

もちろん近所に薩摩藩邸があった事もあるだろう。だがそれなら他藩だって藩邸近くにあったはず。実際はほぼ霊山墓地だ。

僕が考える理由は、"我が道を行く薩摩" という強烈な自意識がそうさせたのではないか。他とは違う、という意識。どうだろう?


再び烏丸通を北上する

ここでまた烏丸通に戻る。すると藤井右門宅跡という石碑と駒札があった。



f:id:wazze2001:20220328085711j:plain
藤井右門というのは江戸中期の尊王思想家。皇学所教授として公家に尊王論を説いた。だが幕府に捕らえられ処刑されたという。

幕末になると、その旧宅は、近所に薩摩藩邸があった関係から、勤王志士達の会議・連絡所として、大いに活用されたという。



f:id:wazze2001:20220328085715j:plain
やはり薩摩藩が関係する会議だけは、木屋町近辺ではなく、飛び離れた場所で行われたのだ。長州藩土佐藩などの会議は、大抵木屋町近辺だったというのに。本当に薩摩の"独立独歩"の精神は徹底されてるな、と感心する。

では藤井右門宅跡を辞して、また烏丸通を北上しよう。


今度は寺之内通を西へ

やがて寺之内通が現れるので左折する。妙蓮寺を目指すのだが、また途中で色々なものに出会ってしまう。



f:id:wazze2001:20220328085735j:plain
まずは泉妙院。妙顕寺塔頭で、尾形光琳尾形乾山菩提寺だという。



f:id:wazze2001:20220328085732j:plain
泉妙院(その2)。ここが尾形光琳尾形乾山兄弟の墓所らしい。全然知らずに来たので、こんな有名人の墓所があったことに驚く。



f:id:wazze2001:20220328085807j:plain
続いて妙顕寺鎌倉時代創建という古刹で、京都初の法華道場らしい。山門にも「門下唯一の勅願寺」と書かれている。天皇の発願により建てられたお寺という意味だ。



f:id:wazze2001:20220328085803j:plain
妙顕寺(その2)。こちらは本堂。天保年間の建立という歴史的建造物で、京都府指定有形文化財に指定されている。豊臣秀吉は、本能寺の変の後、しばらくこのお寺を拠点にしていたという。


お茶の町

そのまま寺之内通を西へ歩いていくと、急に茶道具の店が増えてくる。何かと思ったら、ここは"お茶の町"だった。



f:id:wazze2001:20220328085810j:plain
右側に、中を窺い知れない邸宅が現れる。表札を見ると「千」とある。まさに千さんの家だ。この奥には、重要文化財裏千家 茶室「今日庵」や表千家 茶室「不審庵」がある。

さらに周囲には、表千家茶道会館や裏千家茶道専門学校、茶道総合資料館など、お茶にまつわる建物が数多く建っている。本来ならじっくり見て回るべきだが、今回は割愛する。

街全体の雰囲気も素晴らしいので、いつか必ず再訪したい。



f:id:wazze2001:20220328085937j:plain
今度は宝鏡寺というお寺。立派な山門に驚くが、聞くと鎌倉時代創建の古刹という。しかも皇女が入寺する尼門跡寺院だった。なおこの門は寛政年間の建立で、京都市指定有形文化財



f:id:wazze2001:20220328085830j:plain
宝鏡寺(その2)。こちらの本堂も寛政年間の建立で、やはり京都市指定有形文化財

ところで、このお寺は皇女が入寺するたびに、御所より人形が贈られたという。そのため貴重な人形を数多く所蔵しており、上の山門の写真に「春の人形展」とあるのは、その公開行事のこと。

また人形供養が行われたり、境内に人形塚があったりすることから、通称 "人形の寺" とも呼ばれているらしい。


妙蓮寺

さらに西へ歩くと、ようやく妙蓮寺に到着した。ここは薩摩藩にかかわるお寺だ。



f:id:wazze2001:20220328085848j:plain
妙蓮寺は鎌倉時代の創建という古刹。この山門も寛政年間の建立という歴史的建造物だ。

さて、薩摩藩禁門の変以後、ここを "野戦病院" として使っていたという。薩摩藩邸から近かったからだろう。



f:id:wazze2001:20220328085845j:plain
妙蓮寺(その2)。この美しい建物は鐘楼。やはり寛政年間の建立という。

禁門の変では、追われた長州藩士がここに駆け込み、居合わせた薩摩藩士との間で、一戦交えたという。その時の刀傷が、このお寺の柱に残っているらしい。



f:id:wazze2001:20220328085851j:plain
妙蓮寺(その3)。この本堂も寛政年間の建立という歴史的建造物。

元々妙蓮寺は別の場所にあったのだが、豊臣秀吉が現在地に移転させたという。秀吉はお寺の再編に力を入れたので、その一環だったのだろう。



f:id:wazze2001:20220328085842j:plain
妙蓮寺(その4)。この庫裡もやはり寛政年間の建立。

寺之内通には由緒ある古刹が軒を連ねている。どれも巨刹ばかりなのだが、あまり知られていないようだ。もったいない。


烏丸通を北上する


また烏丸通に戻って、さらに北上を続けよう。目指すは最後の目的地、小松帯刀寓居跡だ。



f:id:wazze2001:20220328085942j:plain
という訳で烏丸通を北上する。この先に小松帯刀寓居跡がある。今さら説明するまでもないが、小松帯刀薩摩藩家老にして、最高実力者だ。

世間的には西郷隆盛の方が有名だが、藩内の実力では圧倒的に小松の方が上だった。しかも坂本龍馬とも親しく、小松無くして坂本も無かった。

つまり薩摩藩の命運を握っていたのは小松であり、もっと言うなら、日本の命運を握っていたのも、小松と言える。その屋敷で行われたのは・・・



f:id:wazze2001:20220328090053j:plain
鞍馬口に到着した。左折して、この道を進むと石碑がある。だが実をいうと、ここも既に小松帯刀寓居跡なのだ。とても広かった。

元々、この辺り一帯には近衛家の別邸があり、その美しさから「御花畑屋敷」と呼ばれていたという。そこには水の流れる美しい庭園や、水路にかかる水車まであったらしい。総面積は約1800坪という広さだ。

その広大な近衛別邸を薩摩藩が借り上げたが、小松帯刀は自分の別邸のように使っていた。その辺りの詳しいことは、歴史研究家、原田良子氏の近衛家別邸「御花畑」発見の経緯に書かれているので参照されたい。


小松帯刀寓居跡

実は、ここが "発見" されたのは2016年。まだ最近のことだ。発見したのは、上記の原田良子氏。その経緯はすべてネット上にあげられていて、誰でも見られる。



f:id:wazze2001:20220328090115j:plain
交差点に到着すると、その角に「小松帯刀寓居跡」と書かれた小さな石碑があった。建物の壁にも説明看板のようなものが見える。建物は町家を改造したカフェのようだ。では石碑を見てみよう。



f:id:wazze2001:20220328090121j:plain
小松帯刀寓居跡(その2)。石碑をアップしてみた。まだ発見されたばかりなので新しい。実はここが発見されるまで、別のところが候補地だった。一条堀川東入で、石碑もあった(撤去済み)。

注意してほしいのは、ガイドブックなどには、まだ古い情報が載っている可能性があること。実際に僕が今年買った本もそうだった(「京都歴史ウォーキング」水曜社)。これだから歴史ものは最新のじゃないといけない、という実例だ。



f:id:wazze2001:20220328090124j:plain
小松帯刀寓居跡(その3)。石碑をよく見ると「薩長同盟所縁之地」と書いてある。実はここが有名な "薩長同盟" 締結地だった。小松邸に集まったのは、薩摩側が小松帯刀西郷隆盛、長州側が木戸孝允。そして仲介者の坂本龍馬

内容は軍事同盟か否かで議論が分かれるようだが、軍事的に支援する件も入っているので、軍事同盟とみて良いのではないか。明治維新のターニングポイントの "一つ" だった事は間違いない。まさにここが、その場所だった。



f:id:wazze2001:20220328090119j:plain
小松帯刀寓居跡(その4)。建物の横にある説明看板も見ておこう。これは京都歴史地理同考会理事長の中村武生氏が書いたもののようだ。相変わらず氏の文章は固い(笑)。

さて、ここが明治維新の重要地点になったのは、薩摩藩がここを近衛家から借り上げていたからだ。この西陣一帯は薩摩藩にとって、拠点の集まる中枢地帯だった。

近所には、妙蓮寺から借り上げた野戦病院があったし、相国寺から借り上げた京都藩邸もあった。それに薩摩藩墓所もあった。この西陣こそ薩摩藩の中枢だった。


・・・・・・・・・


さて、そろそろ今回の旅を終わる。この西陣一帯は、薩摩藩の"縄張り"みたいなものだ、と言った意味が分かっただろうか。わずかに会津藩が出てきたが、ほとんど薩摩藩の拠点ばかりだった。

何度も言ったが、長州藩土佐藩などの他藩は、ほぼ木屋町界隈に集中していた。なぜ薩摩藩だけ飛び離れていたのか。御所に近いから、というのは言った。でもそれだけではない、と思っている。

鹿児島に住んでいた頃よく言われた。「鹿児島の人間は、仲間の絆は大事にするが、ヨソモノには冷たい」 それが関係してないだろうか。だから他藩とは常に距離を置いていたのではないか。

実際に明治維新において、薩摩は常に、我が道を進んでいた。独立独歩の精神。それが京都の街の中にも現れていたのではないか。ぶらぶらと京都の街を歩きながら、そんな事を考えていた。


〜  終わり  〜

明治維新を歩く(その2)〜清水寺編〜

明治維新の舞台となった京都。多くの歴史的事件がこの街で起きた。薩摩・長州や新撰組などが暗躍し、坂本龍馬もこの街で亡くなった。

しかし尊王派の僧侶も活躍していた事は、あまり知られていない。しかも有名な清水寺西本願寺など、意外と大きなお寺にいたという。

今回は八阪神社から、霊山護国神社を経て、清水寺に向かう。その中で、多くの人たちが、絡み合って動いていた事も分かるに違いない。



※「明治維新を歩く」と言っておきながら、それ以外も寄り道しまくる事、あらかじめご容赦いただきたい。異界があれば寄る主義なのだ。


八阪神社から歩き始める

f:id:wazze2001:20220327220226j:plain
八阪神社(その1)。四条通の突き当たりにそびえたつ西楼門。桃山断層の階段の上に建っているので、遠くからでも目立つ。今回はここから歩き始めよう。



f:id:wazze2001:20220327220223j:plain
八阪神社(その2)。まずは本殿にお参り。京の街は過去に何度も疫病が流行った。ここは疫病退散を目的に建てられたのだ。商売繁盛は後から加えられたに過ぎない。



f:id:wazze2001:20220327220300j:plain
八阪神社の裏には、円山公園が広がっている。有名な“しだれ桜”もあって、花見のシーズンは大勢の人が来るらしい。



f:id:wazze2001:20220327220310j:plain
八阪神社からスタートしたのは、ここに来たかったから。有名な坂本龍馬中岡慎太郎の像。二人が並んでいるのは共に倒れたからだろう。


長楽館

円山公園の脇の道を西へ進むと、立派な洋館が見えてくる。長楽館だ。



f:id:wazze2001:20220327220321j:plain
長楽館(その1)。明治42年築の京都市指定有形文化財。"煙草王"と呼ばれた村井吉兵衛が、京都の別邸として建てた。



f:id:wazze2001:20220327220346j:plain
長楽館(その2)。伊藤博文大隈重信山縣有朋など、多くの明治元勲が来たらしい。さすが室内も見応えがある。



f:id:wazze2001:20220327220352j:plain
長楽館(その3)。意匠は細部に至るまで手が込んでいる。現在はホテル&レストランとして営業中。


長楽館から南へ

長楽館を出て南へ歩いていこう。ここから先は芭蕉堂や祇園閣など見どころが多い。



f:id:wazze2001:20220327220447j:plain
すぐ左側に大谷祖廟への参道が現れる。親鸞上人の御廟だ。菊溪川探索のとき訪れたので、今回はお参りせず通過する。



f:id:wazze2001:20220327220455j:plain
続いて円山公園野外音楽堂。70年代の「フォークキャンプ」や80年代以降の「宵々山コンサート」など、京都の有名コンサートは、ほとんどここで行われた。



f:id:wazze2001:20220327220502j:plain
今度は右側に大雲院。織田信長の子、信忠の菩提を弔うために建てられた。元々は別の場所にあったのを戦後移築されたらしい。この門は江戸時代の築。



f:id:wazze2001:20220327220516j:plain
突き当たりの正面に芭蕉堂。西行法師が庵を結び、そして終焉の地でもあった。この奥に庵がある。



f:id:wazze2001:20220327220522j:plain
突き当たり右側に祇園閣。昭和2年築の国登録有形文化財大倉財閥の創業者、大倉喜八郎が京都別邸として建てた。その奇抜なデザインを設計したのは伊東忠太


ねねの道

豊臣秀吉正室ねねが余生を送ったので名付けられた道。圓徳院や高台寺など雅な庭を持つお寺が多い。南へ歩いていこう。



f:id:wazze2001:20220327220529j:plain
この道は菊溪川探索のとき何度も歩いた。かつては名前も付いてなかったような気がする。今や電線地中化や石畳み化も完成して、とても見栄え良くなった。観光客も多いので、本当に喜ばしい事だろう。



f:id:wazze2001:20220327220534j:plain
歩いていくと左側に、野茂英雄ポートランド コーヒーロースターズ(真ん中の小屋)。今日は定休日のようだ。

ここは野茂がメジャーリーグ在籍中に、ポートランドコーヒーの美味さに感動して、引退後に日本で始めたお店。

菊溪川探索のとき訪れたが、その時は大勢のお客さんがいた。かなりの人気店らしい。


月真院

f:id:wazze2001:20220327220600j:plain
さらに南側に月真院というお寺。臨済宗建仁寺派の寺院で、高台寺塔頭らしい。ここは明治維新に関わるお寺だ。門前に石碑と駒札(駒形の説明看板)があるので見てみよう。



f:id:wazze2001:20220327220558j:plain
月真院(その2)。「御陵衛士屯所跡」とある。新選組を脱退した伊東甲子太郎らが作った「御陵衛士」の屯所跡だった。別名「高台寺党」とも呼ばれたという。

京都といえば新撰組。あらためて「新撰組を歩く」というのをやってみたいと思っている。



f:id:wazze2001:20220327220603j:plain
月真院(その3)。境内には織田信長の子、有楽斎が植えたと言われる椿があるという。ただ公開時期しか拝観できない。


圓徳院

月真院に続いて、高台寺へ上がる坂道があったのだが、菊溪川探索のとき訪問したので今回は通過した。そのまま圓徳院へ進もう。



f:id:wazze2001:20220327220726j:plain
圓徳院(その1)。この道は何度も通ったが、ここは一度も入った事がないので、今回入ってみよう。



f:id:wazze2001:20220327220723j:plain
圓徳院(その2)。ここも高台寺塔頭で、"ねね"の作ったお寺だ。晩年の"ねね"は自分だけの理想郷を作りたかったらしい。美しい舞を舞う若い女性たちを集めて、周辺に住まわせたという。



f:id:wazze2001:20220327220717j:plain
圓徳院(その3)。この大広間から見られる庭が特に有名らしい。かつて秀吉と住んだ伏見城の庭を、そのまま移築したという。



f:id:wazze2001:20220327220720j:plain
圓徳院(その4)。かつて周囲の山には菊溪菊の黄色い花が咲き乱れていた。竹林には幽玄な茶室があった。そこに美しい舞を舞う若い女性たちと、伏見城から移築した枯山水。まさに"ねね"にとってパラダイスだったに違いない。



f:id:wazze2001:20220327220710j:plain
圓徳院(その5)。ここがそうなのだが、思ったより小さかった。その形状から、雨が降ったら水がたまるのか、とボランティアガイドに聞いたら、それは無いという。すべて浸透するようだ。


三面大黒天

f:id:wazze2001:20220327220750j:plain
圓徳院を出ると、三面大黒天の境内だった。せっかくなのでお参りしておこう。



f:id:wazze2001:20220327220746j:plain
三面大黒天(その2)。ここもかなり人気らしい。大勢の参拝客がいた。(写真はなるべく人が写らないように撮っている)


f:id:wazze2001:20220327220753j:plain
三面大黒天(その3)。豊臣秀吉の出世守り本尊だという。大黒天と毘沙門天、弁財天の三面を併せ持っているのでその名が付いた。もちろん御開帳日じゃないと見られない。


石塀小路と春光院

f:id:wazze2001:20220327220835j:plain
三面大黒天から歩いていくと、石塀小路の入口が現れる。かつては富裕層向けの高級貸家街で、一般人が入るには敷居の高い所だった。今は有名になってしまったので、観光客が闊歩している。

菊溪川探索のとき歩いたので、今回は入り口を眺めるのみで通過。



f:id:wazze2001:20220327220839j:plain
さらに右側には春光院。立派な茅葺き門が見事だ。ここも明治維新とゆかりがある。

尊王攘夷派の僧侶として活躍した月照は、ここにも住職として居住していた時期があった。そしてここで、西郷隆盛有村俊斎など薩摩藩の志士達と、討幕に向けての密儀を重ねたという。西郷は相当目立ったろうから、"密儀"だったのかは怪しいが(笑)


維新の道


やがて維新の道に突き当たる。明治100年にあたる昭和43年に「維新の道」と名付けられた。勤王の志士を祀る霊山護国神社やその墓地、さらに霊山歴史館などがある。明治維新ファンは避けて通れないだろう。



f:id:wazze2001:20220327220844j:plain
ここから維新の道は始まる。看板が並んで、何だか仰々しい。維新の道と名付けたのは霊山顕彰会。その初代会長はパナソニック創業者の松下幸之助だ。

左側には見えないが並行して高台寺への表参道もある。とにかく上がっていこう。



f:id:wazze2001:20220327220847j:plain
霊山護国神社の鳥居に到着した。ここから神域か。手前右側には道があり、二寧坂から降りてきた道らしい。右側は京大和という老舗料亭だったが、一部を残して、大半がパークハイアット京都というホテルになった。


翠紅館跡地

f:id:wazze2001:20220327221051j:plain
さらに進むと、京大和という料亭に到着。大半はパークハイアットに引き渡したが、ここだけは京大和のままだ。

実は明治維新にとっても重要な場所。右側に、石碑と駒札があるので見てみよう。



f:id:wazze2001:20220327221057j:plain
翠紅館跡とある。幕末に開かれた翠紅館会議で有名な場所だ。

明治10年に京大和ができる前は、西本願寺の別邸があった。その美しさから翠紅館と名付けられたという。当時の本願寺宗主・広如は、勤王の旗印を鮮明にし、尊王攘夷の志士達に、部屋を自由に使わせていた。

その部屋を使って、志士達は何度も会議を重ねたという。その会議を翠紅館会議といった。



f:id:wazze2001:20220327221054j:plain
翠紅館跡の左側には石碑が幾つも建っている。どれも明治維新に関係しているようだ。

翠紅館に集まったのは、例えば土佐藩武市半平太長州藩井上聞多久坂玄瑞桂小五郎久留米藩真木保臣など。錚々たるメンバーだった。

そんな尊王攘夷運動だが、八月十八日の政変で事態は一変する。京は新撰組の暗躍する世界となり、政局は混迷を深めていく。


霊山護国神社

さらに坂を上がると霊山護国神社に到着する。明治に新しくできた神社だ。



f:id:wazze2001:20220327221109j:plain
霊山護国神社(その1)。出発点は招魂社だ。明治維新で亡くなった志士を祀るために造られた。その後、東京に政府が移ると、都内にも造るべし、という機運が高まり、東京招魂社が造られた(今の靖國神社)。つまり靖國神社より古いのだ。



f:id:wazze2001:20220327221106j:plain
霊山護国神社(その2)。日本全国に招魂社は造られたが、昭和に入って、すべて護国神社と改称させられた。ここは全国の護国神社靖國神社の起点になった神社といえる。



f:id:wazze2001:20220327221103j:plain
霊山護国神社(その3)。その後、全国の護国神社と同じように、明治以降の日清戦争日露戦争、さらには太平洋戦争などの戦死者も祀られるようになった。


坂本龍馬墓地

ここに来た最大の理由は、坂本龍馬達のお墓にお参りするためだ。上がってみよう。



f:id:wazze2001:20220327221152j:plain
何やら電車のゲートのような感じになっている。ここが坂本龍馬中岡慎太郎などの墓地への入り口だ。お金を払って、入っていこう。



f:id:wazze2001:20220327221158j:plain
坂道を上がると、すぐに墓地の地図がある。これを見ると、坂本龍馬中岡慎太郎以外にも、多くの志士が眠っている。しかも有名な志士が多い。

時間があれば全部回りたいところだが、さすがに今回は時間が無い。次回を期して、今回は坂本・中岡のみの参拝としよう。



f:id:wazze2001:20220327221217j:plain
坂本龍馬墓地(その1)。坂本龍馬中岡慎太郎両氏の墓地に到着した。鳥居があるので戸惑うが、神様として祀られているので、まぁそういう事なのだろう。龍馬がこれを見たら苦笑いするかもしれない。



f:id:wazze2001:20220327221223j:plain
坂本龍馬墓地(その2)。真正面の二つの細い石柱が、坂本龍馬中岡慎太郎のお墓だ。思ったより質素だったのでホッとした。これでこそ龍馬らしい。

新しい花が供えられてるのは、やはり人気が高いので、いつも供花が絶えないのだろう。



f:id:wazze2001:20220327221220j:plain
坂本龍馬中岡慎太郎墓地(その3)。ここにも坂本・中岡像があった。本当に京都に多い。あまりにも偶像化しすぎじゃないか?と思うがしようがない。それよりも司馬遼太郎の影響の大きさに苦笑するべきだろう。



f:id:wazze2001:20220327221226j:plain
墓地からの景色は素晴らしい。京都全体が見渡せる。本当に良いところに坂本は眠れたね、と言葉をかけるしかない。


霊山歴史館

墓地を降りてから、元の道に戻ると、目の前は霊山歴史館だ。



f:id:wazze2001:20220327221304j:plain
先にも紹介した霊山顕彰会が作った歴史博物館。明治維新に絞ったのが特徴といえる。入ってみよう。



f:id:wazze2001:20220327221301j:plain
霊山歴史館(その2)。とはいえ中は撮影禁止なので、ここから写すしかない。中身は多くの方が想像するような内容だった。ここでは二つだけ言っておきたい。

一つ目は、老中阿部正弘堀田正睦の影が薄いように見える。全体的には、薩摩長州から新撰組まで、偏る事なく取り上げているが、何となく徳川方の開明幕臣の取り上げ方が少ないような気がする。いわゆる薩長史観の影響だろうか。



f:id:wazze2001:20220327221307j:plain
霊山歴史館(その3)。3つ目は、武士と市民の共同作業で明治維新は行われたのだが、ここには市民の姿がほとんど出てこない。具体的にいうと、近江屋や壺屋などの商人たちだ。彼ら無くして維新は成功しなかった。それなのに何故?司馬遼太郎海音寺潮五郎の影響だろうか?

という思いで、この歴史館を後にした。まぁ分かる人には分かるだろうが。


霊山から産寧坂

歴史館を出た後、産寧坂へ坂を降りていくことになる。



f:id:wazze2001:20220327221310j:plain
歴史館を出ると、すぐ右側に龍馬坂が見える。坂本龍馬中岡慎太郎の葬列が、この坂を上って来たので名付けられたという。

それにしても、京都には龍馬通とか龍馬坂とか多くないか。いずれも龍馬にゆかりがあるのだろうが、安直過ぎないか。一人を偶像化するのは良くない。



f:id:wazze2001:20220327221314j:plain
この辺りが頂点のようだ。左側にはホテル霊山があったが解体された。跡地にはシンガポール系の高級ホテル「バンヤンツリー ホテルズ&リゾーツ」が進出するらしい。



f:id:wazze2001:20220327221321j:plain
産寧坂へ向けて坂を降りていこう。右側は普通にマンションが建っているのだが、この場所だけに高そうだ。



f:id:wazze2001:20220327221420j:plain
産寧坂に到着した。これは振り返ったところ。この奥に興正寺の霊山本廟があるので、仰々しい石柱が建っている。


明保野亭跡

維新の道と産寧坂の交差点の北側に明保野亭跡がある。会津藩土佐藩の一触即発の危機となった「明保野亭事件」のあった所だ。



f:id:wazze2001:20220327221509j:plain
明保野亭跡(その1)。今は青龍苑という庭園になっている。料亭の明保野亭が移転していった後、京都坂口という料亭になり、そこに2000年頃、今のような庭園が完成したらしい。(さらに近年、老舗を集めた現在の複合施設ができた)

庭園だけは無料で入ることができる。行ってみよう。



f:id:wazze2001:20220327221503j:plain
明保野亭跡(その2)。その美しい庭は、京都を代表する庭師、七代目小川治兵衛(植治)の造ったものを、さらに2000年に再構築したという。

さて、明保野亭事件とは次のようなものだ。元々尊王攘夷の志士達の密儀の場となっていた明保野亭だが、ある時、討幕に向けて長州藩士が集まっている、という情報が新撰組にもたらされた。会津藩士と新撰組は現地に急行する(続く)



f:id:wazze2001:20220327221512j:plain
明保野亭跡(その3)。美しい茅葺きの茶室が並んでいる。これらは名園にあったものを移築したり再現したものらしい。

(続き)明保野亭を急襲した会津藩士は、現地にいた武士を斬ったのだが、そもそも誤情報で、斬られたのは無関係の土佐藩士だった。彼は一命を取り止めたものの、背中に傷を受けたのは恥じとし、切腹してしまった。それを伝え聞いた土佐藩士達はいきりたった。会津藩と一戦交えるべしと。また会津藩士達もそれなら受けて立つと意気軒昂(続く)



f:id:wazze2001:20220327221506j:plain
明保野亭跡(その4)。どこを切り取っても絵になる。こんな見事な庭園が無料で見られるとは、なんて素晴らしいことか。東山に行ったらぜひ散策してほしい。できれば一人静かに。

(続き)困ったのは会津藩主、松平容保公だ。幕府から京の治安を任されていたのに、その膝下で会津藩土佐藩が一戦交えようとしている。もはや止められない。その藩主の苦悩を知った柴司(斬った方の会津藩士)は、くい止めるために切腹して果てた。それを知り土佐藩士も会津藩士も鉾を納めた。戦争は回避された。この一件を明保野亭事件という。


産寧坂から清水坂

f:id:wazze2001:20220327221529j:plain
では再び産寧坂を南へ進もう。



f:id:wazze2001:20220327221541j:plain
轟川に到着した。「一寸法師がお椀に乗って川を上がった」という伝説は、この川だという説がある。その説明看板(駒札)まであった。



f:id:wazze2001:20220327221544j:plain
その反対側の道。かつて「轟川を歩くと」のとき歩いた。この道を上がると清水寺に向かう。



f:id:wazze2001:20220327221553j:plain
引き続き産寧坂を上がろう。観光客も多い。この左上に、移転後の明保野亭がある。小さく看板も見えるので近付いてみる。



f:id:wazze2001:20220327222251j:plain
明保野亭。先ほどの所から移転して、長い間、ここで営業していた。残念ながら今はコロナで一時休業中だ。



f:id:wazze2001:20220327222248j:plain
明保野亭の看板。坂本龍馬も通ったというこの店が、今でも営業しているというのは本当に凄い。何とかコロナが収まって早く再開してほしい。


清水坂を上る

f:id:wazze2001:20220327222255j:plain
ついに清水坂に到着した。この坂を上がって清水寺に向かおう。



f:id:wazze2001:20220327222338j:plain
すぐ左側に教書堂(来迎院)がある。清水寺成就院塔頭で、独特の経木を奉納したのでその名が付いたという。



f:id:wazze2001:20220327222259j:plain
続いて右側の路地を入ると、五龍閣が建っている。大正12年築の洋館で国登録有形文化財。設計は武田五一という有名な建築家だ。夢二カフェとして営業していたが、今は一時休業中。再開が待たれる。



f:id:wazze2001:20220327222343j:plain
今度は左側に真福寺大日堂。東日本大震災で流された陸前高田の松を、"一人ひと削り運動"で1万人以上が削って大日如来を造り、ここに奉納したという。



f:id:wazze2001:20220327222348j:plain
また坂を上っていこう。



f:id:wazze2001:20220327222354j:plain
左側に宝徳寺が現れる。本尊の阿弥陀如来は、飛鳥時代の608年、聖徳太子が厄除け守護仏として自刻した、という伝承があるらしい。

このように清水坂には、由緒ある古刹が次々と現れるのだが、あまり知られていないせいか、ほとんどの方は通過していく。もったいない、としか言いようがない。


子安塔伝説

子安塔跡地に到着した。子安塔といっても知らない人の方が多いだろうが、清水寺の"奥の院"にある三重塔といえば分かってくれるだろうか。実はかつて門前にあったのだ。



f:id:wazze2001:20220327222400j:plain
まずは右側の清水寺警備室を見てみよう。ここに明治44年まで子安塔があった。その跡地を標す石碑があるので近付いてみたい。



f:id:wazze2001:20220327222403j:plain
子安塔跡の石碑がこれだ。光明皇后が安産祈願をしたところ、無事に内親王が産まれたので、観音堂を建立した。それを子安塔という。という訳で、清水寺の創建より、もっともっと古いのだ。

また光明皇后が子安塔に浴室を作って、癩者の身体を洗った、という伝承もある。やがて癩者は仏に生まれ変わったという。この先の、音羽の滝に打たれると癩病が治る、という伝承と併せて考えると、清水寺は弱者救済のお寺だった、という性格が分かるだろう。


清水寺に到着

f:id:wazze2001:20220327222450j:plain
ついに最後の目的地、清水寺に到着した。眼前に巨大な仁王門が聳えている。今回は成就院を目指すので、左側の成就院参道を歩こう。



f:id:wazze2001:20220327222500j:plain
仁王門から左側へ進むと、おびただしい数の石仏群が現れる。これは明治初期の廃仏毀釈で市中に捨てられた石仏を、集めて祀ったものだという。なのでお地蔵さんや観音様、阿弥陀如来大日如来など様々だ。やはり清水寺は"捨てられたもの"(つまり弱者)を救済するお寺だった。



f:id:wazze2001:20220327222504j:plain
やがて成就院の前庭の池が現れる。成就院は「月の庭」が有名だが、それはここではない。

それよりここは轟川探索の時訪れて、源流探しで散々歩き回った。想い出の池といえる。


成就院

f:id:wazze2001:20220327222515j:plain
清水寺塔頭(附属寺院のこと)、成就院に到着した。拝観寺院ではないので、特別公開日しか室内は見られない。ただ建物は寛永年間の築なので、外からでも十分感じられるものがある。じっくり眺めてみよう。



f:id:wazze2001:20220327222512j:plain
成就院(その2)。ここは勤王僧として活躍した月照と信海のいた寺だ。特に月照西郷隆盛の友人だったので、西郷のほか水戸藩士など多くの志士が、ここを訪れたらしい。安政の大獄までは、ここで何度も倒幕の密儀が行われた。明治維新を語る時ここは避けて通れない。



f:id:wazze2001:20220327222518j:plain
成就院(その3)。ここは建物自体も面白い。寛永年間の築というが、この"煙抜き"も昔からあったのだろうか。興味津々だ。

さて安政の大獄の後、幕府に追われた月照は薩摩に逃れる。だが当時の薩摩の藩論は公武合体だったため、月照は受け入れられなかった。月照は全てを悟り自殺する。

また、信海も幕府に捉われ、江戸へ護送されて、牢獄で獄中死する。さぞや激しい拷問のあった事だろう。こういった勤王僧のいた事は、もっと多くの方に知ってほしい。


清水寺

f:id:wazze2001:20220327222522j:plain
では清水の舞台へ向かおう。



f:id:wazze2001:20220327222525j:plain
もちろん観音様へもお参りしなくてはならない。先ほどから言った通り、弱者救済の仏様はこのお方なのだ。



f:id:wazze2001:20220327222527j:plain
舞台からの景色は素晴らしい。何度来ても感動する。江戸の昔から、多くの人を魅了してきたのも頷ける。



f:id:wazze2001:20220327222639j:plain
清水の舞台から降りていくと、音羽の滝に到着する。例の"癩者が治癒した"という霊験あらたかな滝だ。かつて音羽川探索のさい、散々眺めた場所でもある。



f:id:wazze2001:20220327222643j:plain
そのまま歩いていくと、清水の舞台を下から見上げる場所に出る。ものすごい迫力だ。



f:id:wazze2001:20220327222648j:plain
そのまま出口に向かって歩いていこう。


舌切茶屋と忠僕茶屋

やがて二つの茶屋に出る。ここも明治維新と関わりのある茶屋だ。



f:id:wazze2001:20220327222708j:plain
舌切茶屋(その1)。月照には"お付き"の武士がいた。近藤正慎という。月照が薩摩に逃れたとき、京に残っていた近藤は捕えられ、月照の逃亡先を白状するよう拷問を受けた。

近藤は無意識に口にしてしまうのを恐れ、自害を決意する。だが武士の命の刀は取り上げられ、舌を噛み切ろうにも拷問で体力が無い。最後は、牢獄の壁に頭を打ち付けて、舌を噛み切って死んだという(続く)



f:id:wazze2001:20220327222705j:plain
舌切茶屋(その2)。その後、明治になって清水寺は、近藤正慎の遺徳を称え、彼の遺族(奥さんと子供がいたらしい)のために、清水寺境内にお茶屋を出す権利を与えた。その遺族の営んだ茶屋は、近藤の死を後世に伝えるため「舌切茶屋」と名付けられた。今も変わらず、代々遺族が営んでいるという。



f:id:wazze2001:20220327222712j:plain
舌切茶屋から歩いていくと、忠僕茶屋が現れる。だが残念ながら閉まっていた。コロナのためだろう。

ここも月照とゆかりのある茶屋だ。大槻重助という月照の付き人がいて、薩摩逃亡にも同行していた。大槻は月照の自殺を見届けると、遺品を携えて京都に戻ってきた。しかし幕府に捕らえられ、六角獄舎に投獄されてしまう。その後、解放された後も、大槻は月照の墓を守って暮らしたという。

清水寺は彼の忠義を称え、茶屋を出す権利を与えた。その忠義の姿から、忠僕茶屋と名付けられた。今も変わらず、代々遺族が営んでいるという。



・・・・・・・・・



これで清水寺編を終わる。尊王攘夷派の僧侶が何人もいて、活躍した事が分かっただろう。清水寺月照や信海、さらには本願寺の宗主・広如もそうだ。

明治維新は決して武士の力だけで成立したのではない。前回の「木屋町編」では市民の力が大きかった事を伝えたが、今回は僧侶も活躍した事を伝えた。

明治維新は、武士や市民、僧侶など様々な人々の力が混ざり合うことによって成功できたのだ。



〜 終わり 〜

明治維新を歩く(その1)〜木屋町編~

明治維新の舞台となった京都。多くの歴史的事件がこの街で起きた。新撰組や薩摩・長州などが暗躍し、坂本龍馬もこの街で亡くなった。

今はほとんど石碑しかないが、それをたどるだけでも思いを巡らすことはできる。京都の重層性の一端を知る手掛かりになる事だろう。

その石碑は高瀬川に面した木屋町に非常に多い。なぜそこに明治維新の足跡が集中しているのかについては、おいおい語っていきたい。


木戸孝允別邸跡

木屋町に多いと言ったが、特に二条から四条までの間は桁違いに多い。しかし、木戸孝允別邸跡だけは少し離れた所にある。維新後に新たに購入したからだろう。まずはそこから歩き始めたい。



f:id:wazze2001:20220331192648j:plain
木戸孝允別邸跡(その1)。木屋町通の北側の丸太町通二条通の中間あたりにある。周りは「お宿いしちょう」や「石長松菊園」「市職員厚生会館かもがわ」など旅館が多い。すべて木戸邸の跡地に建っている。

江戸時代まで、ここには近衛家の邸宅があった。明治維新後、近衛家が東京に移ったので、その跡地を木戸が購入した、という流れらしい。



f:id:wazze2001:20220326095231j:plain
木戸孝允別邸跡(その2)。明治天皇行幸の碑が建っている。木戸は、京都の別邸として買ったのが、最期はここで病死した。その直前、明治天皇がお見舞いに来られたという。その行幸碑。

「市職員厚生会館かもがわ」の敷地内には、当時の建物の一部が保存されている。


旧銅駝小学校

そのまま南へ歩くと旧銅駝小学校がある。



f:id:wazze2001:20220331193145j:plain
銅駝小学校(その1)。昭和初期の築という近代レトロ建築。京都は本当に学校建築が素晴らしい。



f:id:wazze2001:20220326095329j:plain
旧銅駝小学校(その2)。舎密局だったこともあるという。舎密局とは明治政府が作った科学技術の研究、教育、勧業機関。この辺りは工業が盛んだったので、それと関係してるのだろう。



f:id:wazze2001:20220331193235j:plain
旧銅駝小学校(その3)。今は銅駝美術工芸高校になっている。"ものづくり京都"の起点である事に変わりはない。


久坂玄瑞吉田稔麿等寓居跡

河原町通に出て南へ歩くと、久坂玄瑞吉田稔麿等寓居跡がある。



f:id:wazze2001:20220326095406j:plain
久坂玄瑞吉田稔麿等寓居跡(その1)。ここにある法雲寺というお寺で、二人は蟄居させられていた。その石碑。



f:id:wazze2001:20220326095409j:plain
久坂玄瑞吉田稔麿等寓居跡(その2)。結局、久坂は禁門の変で死に、吉田は池田屋事件で死んだ。二人とも20代だった。この二人に高杉晋作を入れて、"松蔭門下の三秀"と言う。(高杉も20代で死んだ)


近代産業揺籃の地

明治に入ると、この辺りは近代工業が盛んになった。琵琶湖疏水による発電が役に立ったらしい。その中で世界的企業なども生まれていった。



f:id:wazze2001:20220326095459j:plain
南へ歩くと明治天皇行幸所織工場跡。明治に入って、京都は繊維産業の近代化も図った。明治天皇行幸したのも分かる気がする。

ところで明治の京都は本当に面白いのだが、なかなか表舞台に出ない。もっと近代の歴史にスポットが当たってほしい。



f:id:wazze2001:20220326095526j:plain
斜め向かいには島津製作所旧本社ビルがある。1927年築で、設計は武田五一。まさに京都の近代工業を象徴する建物だ。(壁に変な光が見えるのは向かいのホテルオークラの窓の反射)

現在はフォーチュンガーデン京都というブライダル施設になっている。



f:id:wazze2001:20220326123706j:plain
南へ歩くと、すぐに京都市役所。こちらも1927年築で設計は武田五一という近代建築。

京都は本当に、こういった近代建築が多い。いかに明治の京都人が慧眼だったかが分かる。


長州藩邸跡

京都市役所の向かいは長州藩邸跡。そこは高瀬川の物流拠点であり、東海道の起点の三条大橋にも近く、京都最高の場所を押さえていた、と言えるだろう。



f:id:wazze2001:20220326123759j:plain
長州藩邸跡(その1)。現在はホテルオークラ京都が建っている。

オークラグループが経営支援に乗り出す前は、京都ホテルという老舗ホテルだった。その始まりは明治21年創業の常盤ホテルまで遡る。またその建設には渋沢栄一も関わっていた。



f:id:wazze2001:20220326123810j:plain
長州藩邸跡(その2)。ホテルオークラ敷地内には桂小五郎像もある。

長州藩邸が廃された後、一旦官業場になり、その後官有地払い下げで常盤ホテルが購入した。その際、伊藤博文の力が大きく働いたらしい。やはり長州だからか。



f:id:wazze2001:20220326123828j:plain
長州藩邸跡(その3)。長州屋敷跡の碑も建っている。ホテルオークラから高瀬川まで含む一帯と考えると相当広い。



f:id:wazze2001:20220326123846j:plain
長州藩邸跡(その4)。明治になると長州藩邸跡地に官業場ができた。そこに明治天皇行幸したという碑。

殖産興業は明治の日本にとって生命線だった。日本各地に官業場ができ、明治天皇もよく行幸された。



f:id:wazze2001:20220326123850j:plain
長州藩邸跡(その5)。ホテルオークラ京都の前身である京都ホテルは、明治より皇族方の御用達ホテルになっていた。長州にとっても申し分なかっただろう。


木屋町通を北上する

ホテルオークラから東に行き、再び木屋町通を北上しよう。



f:id:wazze2001:20220326123956j:plain
まずは高瀬川を渡る。角倉了以が開削した人工河川で、ここが京都の物流ルートだった。



f:id:wazze2001:20220326124003j:plain
続いて木屋町通が現れる。ここを北上しよう。

ところで京都では"通り"のことを"通"と書く。京都独特の書き方だ。しかし呼び方は普通に"とおり"と言う。京都は本当にややこしい。


山縣有朋別邸跡にして角倉了以邸跡

やがて木屋町通は突き当たる。高瀬川もここから始まるのだ。



f:id:wazze2001:20220328191415j:plain
突き当たりの右側は山縣有朋の別邸「無鄰菴」跡地。今は食事処「がんこ高瀬川二条苑」になっている。江戸時代は高瀬川を開削した角倉了以邸だった。



f:id:wazze2001:20220328172353j:plain
山縣有朋別邸(その2)。それを示す看板もあった。京都はたいてい看板があって助かる。



f:id:wazze2001:20220328172358j:plain
その向かい側は島津創業記念館。世界に誇る島津製作所はここから生まれた。もちろん高瀬川水運と関係あるという。建物も明治後期の築で国登録有形文化財


今度は木屋町通を南下する

f:id:wazze2001:20220328172420j:plain
高瀬川もここから始まる。鴨川から旧山縣有朋邸の庭園を経てここに来ている。



f:id:wazze2001:20220328172423j:plain
高瀬川には高瀬舟(模造船)が置かれていた。これで様々な物資を運んでいたらしい。


一之舟入

f:id:wazze2001:20220328172433j:plain
高瀬川の一番北側にある一之舟入。京都最大の内港だった。



f:id:wazze2001:20220328172431j:plain
一の舟入(その2)。この高瀬川の物流を使って、京都の工業は発達した。


佐久間象山大村益次郎遭難の碑

f:id:wazze2001:20220326124012j:plain
一之舟入の南側に、佐久間象山大村益次郎遭難の碑。二人ともこの辺りで暗殺されたらしい。



f:id:wazze2001:20220326124009j:plain
佐久間象山大村益次郎遭難の碑(その2)。詳しい駒札(説明看板)もあった。明治維新の志士で、まともに生き延びた人は少ない。


二之舟入

南側にはすぐ二之舟入がある。



f:id:wazze2001:20220326130023j:plain
二之舟入。ここには長州藩邸があったので、高瀬舟は直接長州藩邸に出入りできた事になる。誰にも見られず秘密に出入りする事も可能だった。そう考えると長州藩邸は最高の場所にあったと言うほかない。



f:id:wazze2001:20220326130035j:plain
御池通を横断する。


次々と現れる石碑

f:id:wazze2001:20220326130041j:plain
御池橋に加賀藩邸跡の碑。ここから多くの藩邸跡地が続出する。藩邸が多いのは、高瀬川の水運と、東海道の陸運という、二つの物流拠点だったからに他ならない。人も物も情報も集積する。



f:id:wazze2001:20220326130045j:plain
木屋町通の御池〜五条間は、明治時代に市電建設のため埋め立てたので、道は広くなっている。歩道もあって歩きやすい。

どんどん南へ進んでいこう。



f:id:wazze2001:20220326142310j:plain
水の堰き止めの石が見える。



f:id:wazze2001:20220326142316j:plain
三之舟入



f:id:wazze2001:20220326142323j:plain
四之舟入


武市瑞山寓居跡と吉村寅太郎寓居跡

この辺りから徐々に土佐藩ゆかりの史跡が増えてくる。この先に土佐藩邸があったからだ。



f:id:wazze2001:20220326142433j:plain
武市瑞山寓居跡の碑と、ちりめん洋服発祥の地の碑。武市瑞山は、幕末に活躍した武市半平太のこと。

ちりめん洋服発祥の地については始めて知った。



f:id:wazze2001:20220326142437j:plain
武市瑞山は、料亭「四国屋丹虎」の一室を間借りしていたらしい。この路地の奥にあったという。



f:id:wazze2001:20220326142427j:plain
隣には吉村寅太郎寓居跡。同じ土佐藩士で、土佐勤王党天誅組にも参加した烈士。



f:id:wazze2001:20220326142443j:plain
詳しい駒札まである。吉村寅太郎は、坂本龍馬中岡慎太郎武市瑞山と並んで、"土佐四天王"と呼ばれていた。



f:id:wazze2001:20220326142422j:plain
こちらは、ちりめん洋服発祥の地の説明碑。


桂小五郎寓居跡から三条通

さらに木屋町通を南へ進む。



f:id:wazze2001:20220326195058j:plain
桂小五郎寓居跡。ここは元々、対馬宗氏の屋敷跡で、桂はそこを間借りしていた。池田屋事件のとき桂が逃げ込んだのもここらしい。



f:id:wazze2001:20220326142449j:plain
さきぞう発祥の地というのまである。これはよく分からない。



f:id:wazze2001:20220326142458j:plain
佐久間象山大村益次郎遭難の碑への道標。紛らわしいが、あくまでも道標に過ぎない。実際は先ほどの所。


三条通

東海道は、江戸日本橋から京都三条大橋までを結ぶ日本の大動脈だった。その延長である三条通は京都経済の中心地として栄えた。



f:id:wazze2001:20220326195404j:plain
三条小橋に到着。



f:id:wazze2001:20220326195447j:plain
三条通に着いたので、ここから三条大橋の方へ行こう。


三条大橋

東海道の起点である三条大橋は、言ってみれば、今の京都駅と同じ役割り。なので、その周囲は数多くの旅館が建ち並んだ。(今の京都駅の周囲にホテルが多いのと同じ)

そんな旅館の2階は、志士達の格好の密儀の場となった。この界隈に史跡が多いのは、そんな理由もあった。



f:id:wazze2001:20220326195506j:plain
三条大橋に到着。東海道の起点にして終点。人も物も、そして情報も、全てここに集まった。



f:id:wazze2001:20220326195517j:plain
河畔には、旧三条大橋の石柱と高札の駒札がある。



f:id:wazze2001:20220326195525j:plain
道路をはさんだ向かい側には、弥次さん喜多さんの像。東海道中膝栗毛だからね。



f:id:wazze2001:20220326195539j:plain
橋を渡り始めよう。



f:id:wazze2001:20220326195543j:plain
欄干の擬宝珠に池田屋事件の刀傷。この近くに池田屋があった。後で訪問する。



f:id:wazze2001:20220326195558j:plain
河原の風景。中洲をはさんで右側は「みそそぎ川」という。夏はこの上に納涼床ができる。


鴨川東岸エリア

f:id:wazze2001:20220326210929j:plain
対岸に到着。川端通が通っている。昔はここに京阪電車の地上駅があったが、80年代頃に地下鉄になってしまった。



f:id:wazze2001:20220326211009j:plain
ここでちょっと地下の京阪三条駅に降りてみよう。

新撰組の中には、生き延びて、長生きした人物もいる。永倉新八大正4年まで生きていたし、池田七三郎に至っては昭和13年まで生きていた。

日本最初の地下鉄は昭和2年に開業した銀座線だが、工事自体は大正時代から始まっていた。もしかしたら彼らも目にした可能性はある。少なくとも話は伝え聞いたに違いない。

新撰組の生き残り達は、もし目にしていたら、どんな思いで、地下鉄を眺めたのだろうか。



f:id:wazze2001:20220326211018j:plain
地上に出て、真ん中の狭い道を南へ向かう。この道は大和大路通といって、伏見街道や奈良街道へ続いている。大和の国に行けるので大和大路通というらしい。



f:id:wazze2001:20220326211048j:plain
南へ行って、すぐ右側に小川亭跡。かつて「小川亭」という旅館があった。女将さんは"勤王ばあさん"として知られ、勤王の志士達の面倒をよく見たらしい。



f:id:wazze2001:20220326211051j:plain
小川亭跡(その2)。ここの座敷で、志士達は何度も討幕の密儀をしていたらしい。



f:id:wazze2001:20220326211054j:plain
東へ歩くとすぐに旧有済小学校。既に廃校になっているが、明治時代に作られた望楼は、遠くからも目立つ。国登録有形文化財


池田屋事件

f:id:wazze2001:20220326221335j:plain
また三条大橋を渡って、三条通を西へ進もう。



f:id:wazze2001:20220326221346j:plain
「昭和初期の三条小橋」と「高瀬川生洲」の駒札。昔は高瀬川から水を引き込んで、川魚を食べさせる生簀料理の店が多かったらしい。



f:id:wazze2001:20220326221413j:plain
池田屋事件の碑(その1)。今さら言うまでもない有名な事件。新撰組の名を一躍有名にした。あとは蒲田行進曲でも有名になった?



f:id:wazze2001:20220326221416j:plain
池田屋事件の碑(その2)。今は「池田屋 はなの舞」という居酒屋になっている。後ろの駒札(説明看板)も居酒屋が立てたものだろう。


瑞泉寺

また木屋町通に戻って南へ進もう。



f:id:wazze2001:20220326222128j:plain
瑞泉寺(その1)。豊臣秀吉の跡継ぎとされた豊臣秀次のお墓がある。

秀次は、後継者にも関わらず、豊臣秀吉から謀反を疑われ、切腹させられた。さらには、子供から奥さんまで家族39名すべて処刑されてしまった。

その後、江戸時代に角倉了以は、彼らの菩提を弔うために、このお寺を建てたという。



f:id:wazze2001:20220326222125j:plain
瑞泉寺(その2)。門前に「橋下左内訪問之地」の石碑がある。

左内は、秀次のお墓参りに来たのではなく、ここを定宿にしていた開明幕臣岩瀬忠震の意見を聞くために訪ねたという。

二人は、一橋慶喜の擁立で意見が一致し、その後は共に"一橋派"として活動していく事になる。


坂本龍馬の拠点「酢屋」

さらに南へ歩くと、「龍馬通」の標識が現れる。



f:id:wazze2001:20220326222132j:plain
龍馬通の標識。この先に坂本龍馬の拠点があったからだ。入っていこう。



f:id:wazze2001:20220326222406j:plain
坂本龍馬寓居跡(その1)。ここは代々続く材木商で、屋号は「酢屋」。この2階を坂本龍馬は拠点にしていた。



f:id:wazze2001:20220326222412j:plain
坂本龍馬寓居跡(その2)。2階に海援隊京都本部を置き、龍馬も2階の表通りに面した部屋を使っていたらしい。



f:id:wazze2001:20220326222409j:plain
坂本龍馬寓居跡(その3)。後で述べる壺屋や近江屋もそうだが、この辺りは商家が多かった。

東海道の陸運や高瀬川の水運など、物流拠点だった事も関係していただろう。いずれにしろ、商家が多かったおかげで、志士達の拠点も多かった。商家の屋敷を間借りしているケースが多かったからだ。



f:id:wazze2001:20220326222415j:plain
坂本龍馬寓居跡(その4)。今は1階が店舗、2階が龍馬関係のギャラリーとして一般公開されている。当時も今も、そのまま酢屋が営業を続けているとは、いかにも京都らしい。



f:id:wazze2001:20220326224248j:plain
すぐ近くには、後藤象二郎寓居跡もある。

同じ土佐藩士で、龍馬とも親交があった。後藤は、ここにあった醤油商「壺屋」を、京都での拠点にしていた。

今はホテルリソル京都が建っていて、ホテル内には後藤象二郎ギャラリーもあるらしい。


再び木屋町通

木屋町通に戻って、材木橋から南下しよう。



f:id:wazze2001:20220326224950j:plain
高瀬川にかかる材木橋。この辺りは高瀬川水運を利用した材木商が多かった。そのため材木町や材木橋などの名前が生まれた。



f:id:wazze2001:20220326224324j:plain
木橋の反対側を見ると、道路の突き当たりに先斗町歌舞練場。

先斗町京都五花街の一つで、幕末には多くの志士が闊歩した。その歌舞練場は昭和2年築の近代レトロ建築。



f:id:wazze2001:20220326224320j:plain
南へ歩くと彦根藩邸跡。安政の大獄を主導した井伊直弼のイメージが強い彦根藩だが、桜田門外之変で直弼が討たれた後、藩論は勤王に転じた。ここは勤王の志士達の溜まり場になった事だろう。



f:id:wazze2001:20220326224954j:plain
近くに良い感じの町家があった。大正か昭和初期の築だろうか。今は居酒屋になってるようだ。京都は本当に凄い。



f:id:wazze2001:20220326224958j:plain
六之舟入跡。



f:id:wazze2001:20220326225001j:plain
七之舟入跡。


土佐藩邸跡

ついに広大な面積を誇った土佐藩邸跡に着いた。立誠小学校のあった所のほとんどが敷地だったらしい。



f:id:wazze2001:20220326225238j:plain
土佐藩邸跡の石碑と駒札。ここは一番東北角で、敷地はここから始まった。



f:id:wazze2001:20220326231318j:plain
土佐藩邸跡には立誠小学校が建っていた。昭和2年築のレトロな校舎で、近代建築としても価値がある。

近年廃校になり、今はホテルや店舗、ホールなどの複合施設になっている。一番良い形かもしれない。



f:id:wazze2001:20220326231324j:plain
土佐藩邸跡には日本映画発祥地の駒札もあった。明治30年に稲畑勝太郎が、日本で最初に映画を試写した場所らしい。



f:id:wazze2001:20220326225313j:plain
立誠小学校の北側に土佐稲荷がある。本来は岬神社というのだが、土佐藩邸の敷地内にあり、土佐藩士の崇敬か篤かったので"土佐稲荷" と呼ばれるようになったらしい。



f:id:wazze2001:20220326225310j:plain
土佐稲荷(その2)。元々は土佐藩邸内にあったのだが、色々あって今の敷地に移ったらしい。



f:id:wazze2001:20220326225320j:plain
土佐稲荷(その3)。坂本龍馬土佐藩邸内に七日間の蟄居を命じられた時も、この神社を崇めていた、と伝えられている。



f:id:wazze2001:20220326225316j:plain
土佐稲荷(その4)。境内に坂本龍馬像もあった。京都には何体あるのだろう。


坂本龍馬終焉の地

河原町通に出ると、すぐ南西側に坂本龍馬終焉の地がある



f:id:wazze2001:20220326225328j:plain
坂本龍馬中岡慎太郎遭難之地(その1)。ここで坂本龍馬は襲われた。いまだに犯人は分かってないが、大方の予想通り、見廻組だろうと僕も思っている。

それにしても河原町通の人通りの多いところで、周りは買い物客でいっぱい。この写真を撮るのも苦労した。石碑と駒札があるだけなんて、寂し過ぎないか。



f:id:wazze2001:20220326225331j:plain
坂本龍馬中岡慎太郎遭難之地(その2)。ここには近江屋という醤油屋があった。寺田屋事件の後、龍馬は密かに酢屋から近江屋に移っていた。

もちろん近江屋も志士達を支援した商家だった。忘れてならないのは、志士達を支援した数多くの商人がいたから、明治維新は達成されたのだ。



・・・・・・・・・



よくヨーロッパの市民革命との比較で、欧州は市民だが、日本は武士がやったという人がいる。司馬遼太郎の小説や大河ドラマなどの影響で、あたかも武士だけの出来事のように思われてしまった。

しかし実態は、武士と商人がタッグを組んで行った革命といえる。(さらには月照のような勤王僧侶もいたし、新撰組のような農家出身の志士もいた)


河原町通から木屋町通

ここから再び木屋町通に戻ろう



f:id:wazze2001:20220326235420j:plain
木屋町通に戻る途中に、関西電力河原町変電所がある。ここはかつて京都電燈の発電所があった所だ。

同社は琵琶湖疏水による水力発電から、鉄道業まで行った(後の京都市電)。ここにあるのはその名残り。



f:id:wazze2001:20220326231128j:plain
木屋町通に着くと、すぐに八之舟入跡。



f:id:wazze2001:20220326235334j:plain
その向かい側には本間精一郎遭難之碑。そのまま南へ進もう。



f:id:wazze2001:20220326230957j:plain
九之舟入跡。


また河原町通

f:id:wazze2001:20220326235429j:plain
河原町通へ戻る途中に古高俊太郎邸跡。勤王派の志士で、新撰組に捉われた後、六角獄舎で斬首された。



f:id:wazze2001:20220326225505j:plain
河原町通に戻ってきた。人混みの中に中岡慎太郎寓居跡がある。人気のスィーツショップの前らしく、若い女性達が大勢いた。

その落差!というか場違いな雰囲気に戸惑う。確かに幕末の頃、ここには書店「菊屋」があり、中岡はその2階を間借りしていた。

ここにいる女性達も名前くらいは知っているだろう。中岡慎太郎。慶応3年の冬、坂本龍馬とともに近江屋で暗殺されたのだ。



・・・・・・・・・



これで木屋町の史跡は終わる。二条から四条の間に集中しているのが分かっただろう。理由は何度も述べた通り、藩邸と商家が集中していたからだ。

ところが薩摩藩だけは違った。


最後は薩摩藩邸へ

今まで長州や土佐などの名前は散々出たが、薩摩の名前はまったく出なかった。あれほど活躍したというのに。

理由は、薩摩藩邸が錦小路と二本松という"飛び離れた所" にあったからだ。なぜ薩摩藩邸だけ離れていたのか。

それは後で語るとして、とりあえず錦小路藩邸に行こう。二本松の方は離れ過ぎているので西陣編で訪問したい。



f:id:wazze2001:20220326235736j:plain
という訳で四条通を西へ向かおう。錦小路薩摩藩邸は大丸デパートの脇にある。



f:id:wazze2001:20220326235741j:plain
四条通は新しいビルばかりなので、錦小路を通っていく事にした。まずは新京極通を北へ上がる。



f:id:wazze2001:20220326235747j:plain
すぐ右側に松竹発祥の地がある。特に看板がある訳ではないが、結構有名な話だ。松竹兄弟がここに寄席を作ったのが始まりという。

実は、新京極は芝居や落語、映画など、演芸のメッカ。今は東京や大阪の方が盛んになったが、かつては京都こそ演芸発祥の地だった。


錦小路

錦小路に到着した。まずは東端にある錦天満宮にお参りしてから西へ行こう。



f:id:wazze2001:20220326235755j:plain
天満宮(その1)。新京極と錦小路の交差する所に錦天満宮はある。学問の神様だが、ここでは商売の神様のようだ。



f:id:wazze2001:20220326235759j:plain
天満宮(その2)。いつも人で賑わっており信仰の篤さがうかがえる。写真は撮らなかったが、ビルに食い込んだ鳥居も有名。



f:id:wazze2001:20220326235805j:plain
そのまま錦小路を西へ歩こう。"京の台所"として有名で、東京でいえば上野のアメ横みたいなもの。観光客も多い。


薩摩藩邸跡

東西に長い錦小路のうち、西の方と言って良いだろう。大丸デパートに到着した。その脇に薩摩藩邸跡はある。



f:id:wazze2001:20220326235812j:plain
錦小路薩摩藩邸(その1)。大丸デパートの脇に石碑はあった。荷物搬入口の横で、トラックが頻繁に行き来するような場所。よく探さなければ見つからない。長州藩邸跡や土佐藩邸跡と比べると、雰囲気は良くない。



f:id:wazze2001:20220326235815j:plain
錦小路薩摩藩邸(その2)。まぁ、仕方ない。幕末のころ、薩摩藩邸は二本松に移ってしまい、そちらが有名になった。

それにしてもなぜ当初、ここに建てたのだろう。二本松は御所に近く、御所の守りを考えると便利な場所と言える。それに比べて、ここは御所からも遠い。さらに人や物、情報の集積地だった木屋町からも遠い。これは本当に謎だ。



f:id:wazze2001:20220326235819j:plain
錦小路薩摩藩邸(その3)。違法駐車に邪魔されて、上手く写真も撮れない。あまりよろしくない場所、というのが分かるだろう。とりあえず薩摩藩邸は二本松の方に期待して、ここは終わる事にしたい。



・・・・・・・・・



今回の木屋町の旅は、とにかく史跡の多かった事、それに尽きる。何度も言うが、商家の多かった事が主な理由だ。

そして、支援する商人の存在が無ければ明治維新は成功しなかった、という事もよく分かったのではないだろうか。

明治維新は、市民と武士の共同作業だったのだ。



〜 終わり 〜

羅城門を歩く〜京都の葬送地~

京都の葬送地シリーズ4回目!今回は羅城門!!言わずと知れた"平安京の正門" です。

そこが葬送地とは驚くかもしれませんが、平安京に住む庶民の "死体捨て場"となっていたのも事実です。
今回はそんな羅城門に行ったときのことを紹介しましょう。



まずは、近所にある日本最大級の “魔界スポット” 東寺から歩き始めましょう。


東寺

f:id:wazze2001:20211118020603j:plain
という訳で東寺からスタートします。
すぐそばに、こんな強力な"魔界"がある以上、寄らない訳にはいきません。
写真は通常観光客が入る慶賀門。僕もここから入りました。重要文化財



f:id:wazze2001:20211118020553j:plain
東寺は、平安京遷都と同時に作られた国家鎮護の官寺。また空海真言密教の根本道場とした事でも知られています。

特に強烈なのは立体曼荼羅と呼ばれる仏像群。大日如来を中心に不動明王など21体の仏像が整然と配置されています。

もちろん建物も凄い。写真は国宝の金堂で桃山時代の築。他にも国宝や重文の建物が何棟も並んでいて圧倒されます。



f:id:wazze2001:20211118020555j:plain
東寺といえば五重の塔。もちろん国宝です。木造塔としては日本一の高さ。"京都のシンボル"と言っても良いでしょう。



f:id:wazze2001:20211118020600j:plain
重要文化財の南大門。観光客はほとんど来ませんが、ここが本来の正門になります。
僕もここから出ました。西へ500mほど行った所に目的地、羅城門があるからです。
目の前の道は九条通り。平安京の南の果てです。では羅城門へ歩いていきましょう。


矢取地蔵尊

f:id:wazze2001:20211118021215j:plain
羅城門跡地に到着すると、入り口に良い感じのお堂が建っていました。
矢取地蔵尊空海の身代わりになったという伝説の残るお地蔵様です。



f:id:wazze2001:20211118021218j:plain
矢取地蔵尊をアップ。羅城門と全然関係ないのに、"あっけらかんと"こういうのがある、というのも京都の凄いところ。1200年の歴史を誇る京都の重層性をよく表しています。

では羅城門跡地の公園に行ってみましょう。


羅城門跡地の公園

f:id:wazze2001:20211118021236j:plain
この奥に公園があり、そこに羅城門遺跡の石柱が建っています。



ところで羅城門は平安京の正門として建てられましたが、100年もしないうちに使われなくなり、やがて盗賊の住処となり、最後は平安京庶民の"死体捨て場"となり果てました。

奥の公園に行きましょう。



f:id:wazze2001:20211118021259j:plain
明治28年に建てられた羅城門遺跡の石柱。ここに羅城門はありました。



さて、今昔物語には次のような話も書かれています。

                                                      • -

ある夜のこと。
とある盗賊が、羅城門に人影を感じたので、門の中まで行ってみると、山積みされた死体のなかに老婆がいた。
彼女は死体から髪の毛を抜いている。
聞けば、死体の髪の毛を集めて、カツラを作って売り飛ばすのだという。
(当時の官女は、今でいうウイッグを付けるのが当たり前でした)
身震いしながら話を聞きていると、老婆は「生きるためにしようがないのだ」と言うのだった。

                                                      • -

そのような話が伝わるほど、羅城門は恐ろしい"魔界"に成り果てたのです。



その後(980年)暴風雨で倒壊すると、二度と再建されることはありませんでした。


まわりは普通の住宅地

f:id:wazze2001:20211118021317j:plain
現在は小公園となり、遊具が置かれています。その周りは生活感あふれる普通の住宅地。



ネットを散見すると、「きちんとした史跡公園にしたら良いのに」とか「現状は貧弱すぎる」などと書かれています。
残念ながら僕はそう思いません。
歴史の浅い街と違って、ここは1200年の歴史を持つ京都市。幾重にも歴史が積み重なって、今があります。



周りの住宅の生活感あふれる姿は、まさに重層化の証拠じゃないでしょうか。京都らしい、とも言えます。

いやそれよりも、平安京の正門〜盗賊の住処〜死体捨て場と変遷した羅城門に相応しいと、間違いなく言えます。

化野への道を歩く(その3)~京都の葬送地~

~ 化野への道を歩く(その2)からの続き ~


再び伝統的建造物群保存地区を歩く

f:id:wazze2001:20211117000012j:plain
また伝統的建造物群保存地区に戻ってきました。このまま歩いていきましょう。



f:id:wazze2001:20211117000014j:plain
茅葺き古民家も発見。これは江戸時代の築でしょうか。どの建物も本当に素晴らしい。



f:id:wazze2001:20211117000009j:plain
ツワブキの花が綺麗に咲いていました。


街並み保存館を見る

f:id:wazze2001:20211117000829j:plain
町並み保存館に到着しました。ここではボランティアガイドが丁寧に説明してくれます。



f:id:wazze2001:20211117000827j:plain
町並み保存館(その2)。建物は典型的な明治の町家。入るとすぐに土間が続きます。



f:id:wazze2001:20211117000832j:plain
町並み保存館(その3)。土間にはおクドさんがありました。



f:id:wazze2001:20211117000825j:plain
町並み保存館(その4)。面取り柱の見事な和室続き間。



f:id:wazze2001:20211117000822j:plain
町並み保存館(その5)。和室続き間から美しい庭が見えました。

ここで少し休憩して、また出発しましょう!



f:id:wazze2001:20211117001602j:plain
町並み保存官の前には将軍地蔵大菩薩がありました。名前が仰々しい(笑)


茅葺き古民家の道を歩く

f:id:wazze2001:20211117001854j:plain
この辺りからどんどん茅葺き古民家が増えてきます。どれも良い感じですね。



f:id:wazze2001:20211117001857j:plain
維持管理が本当に大変だと思いますが、何とか頑張ってほしい。



f:id:wazze2001:20211117001859j:plain
茅葺き古民家と、始まりかけた紅葉。絵になります。


愛宕神社の鳥居と門前の茶屋

f:id:wazze2001:20211117002449j:plain
愛宕神社の一ノ鳥居に到着。今回は本殿まで行かないので、鳥居前で拝んでおきました。

ちなみに全国に900社以上ある愛宕神社総本宮になります。かつては相当賑わったらしい。



f:id:wazze2001:20211117002451j:plain
一ノ鳥居の前には「鰻茶屋 平野屋」があります。約400続く老舗料理屋さんです。

鰻が有名ですが、団子などの和菓子もあり値段もお手頃。小休憩にも最適ですね。


愛宕念仏寺に到着

f:id:wazze2001:20211117004149j:plain
愛宕念仏寺に到着しました。ここが今回の本当の終着点です。



f:id:wazze2001:20211117004153j:plain
愛宕念仏寺(その2)。本堂は鎌倉時代の建立(重要文化財)。鳥辺野編で言いましたが、かつては松原通り沿いの弓矢町にありました。大正時代にここに移転してきたのです。

紛らわしいけれど、山城国愛宕郡にあったので愛宕念仏寺。とはいえ、鳥辺野から化野へ、どちらも葬送地ですから、絶妙な移転だったと思います。



f:id:wazze2001:20211117004155j:plain
愛宕念仏寺(その3)。ここは千二百羅漢で有名。お寺を埋め尽くす千二百体の羅漢様が出迎えてくれます。



f:id:wazze2001:20211117004143j:plain
愛宕念仏寺(その4)。とにかく壮大という他ない。圧倒されます。異界の頂点といったところでしょうか。



f:id:wazze2001:20211117004140j:plain
愛宕念仏寺(その5)。この羅漢様は一般の参拝者が掘ったもの。悩みや苦しみを持った人が助けを求めて掘ったという。

そう考えると、羅漢様の表情が優しい顔ばかりなのも、助けを求めてやって来た心が、きっとそうさせたのでしょう。


心の救済

さて、これで"化野への道"は本当に終了します。

振り返ってみると、やはりここも“救済の道”だった、という事が分かりました。きっと嵯峨野や化野はそういう場所なのでしょう。



ところで嵯峨野で、寂庵の場所を尋ねた女性がいましたよね。その後は見なかったけれど、おそらく辿り着けたと思います。

なぜなら今(ブログを書いている時)調べたら、声をかけられた場所、つまり茅葺き古民家の見える場所からわずか100mでした。

あの女性も寂聴さんに救いを求めて来たのでしょうか。当時の僕は化野を目指すばかりで、寂庵の存在は知りませんでした。


里山風景に身を委ねる

でも寂聴さんは本当に良い所にお寺を構えられたのですね。里山風景の広がるのどかな場所。茅葺き古民家まで見えます。


嵯峨野は観光地のイメージですが、外れの方は未だに田園風景の広がるのどかな場所でした。のんびり歩くにはちょうど良い。

今回は嵯峨野の里山風景が一番心に残りました。実は、里山風景に身を委ねる事こそ、究極の "心の救済"なのかもしれません。



〜 終わり 〜