蓮台野への道を歩く(その3)~京都の葬送地~
人権の町を歩く
千本北大路交差点の東北角地一帯は楽只地区といいます。被差別民の住むエリアで、近現代に至るまで差別に苦しんできた歴史がありました。
地政学的にみると鳥辺野ルートとの類似を感じます。鳥辺野にも弓矢町という集落がありました。(ただこちらは江戸時代に成立した町ですが)
ここには最近まで「ツラッティ千本」という人権啓発施設がありました。(現在は他所に移転して活動中)
この辺りは被差別集落だけじゃなく、在日コリアン集落もあるため、"人権の町"とも言われています。
立派な市営住宅が建ち並んでいます。住環境は改善されたようですね。
このエリアの一画に、「水平社宣言」の一節を記した石碑があります。
水平社の初代委員長、南梅吉がここに住んでいたので建てられました。
「人の世に熱あれ、人間に光りあれ」
残念ながら写真は撮り損ねました。では楽只地区を出て次へ向かいましょう。
天神川へ
北大路通りを西へ歩いていると、道路が凸型に高くなっている部分を発見。
もしかしたら御土居の痕跡でしょうか。場所柄、充分可能性はありますね。
天神川を発見しました。早速下に降りて、川沿いを歩きましょう。
それにしても物凄い激流ですよ。流量も流速も!とても都市河川とは思えません。
ちなみに平安京の頃は、いろんな川からの分流が、幾筋も街の中を流れていました。(今は暗渠になってしまいましたが)
砂防ダム内の違法占拠集落
天神川を上流へ歩いていくと、この先で、”砂防ダム内の違法占拠集落”に至ります。河川敷にある集落です。(写真の掲載は控えます)
戦後の混乱期に、貧しい人々が次々と家を建てて、そのまま現在に至っている、という集落。京都って、ある意味"おおらか"ですよね。
今ではかなり有名になってしまいました。僕も集落内を歩き回りましたが、一言だけ言うと、もの凄い民衆のパワーを感じました。
一条天皇と三条天皇の火葬塚
続いて到着したのは、一条天皇と三条天皇の火葬塚。宮内庁が管理している"天皇陵"です。
火葬塚(その2)。先ほどの違法占拠集落と目と鼻の先。そこと隣り合わせにあるというのが、京都の凄い所ですね。
旧朝鮮学校だった建物
続いて、かつて朝鮮学校だった建物に到着しました。藪の向こう側で見づらいけれど。
先に書いたように、この周辺に在日コリアン集落があったので、学校が作られました。
旧朝鮮学校(その2)。入口は封鎖されています。廃校になって久しいのでしょう。
ここから天神川を挟んで、バラックだらけの集落が見えました(写真の掲載は控えます)。空き家になった在日コリアン集落です。ここでは御土居の外側ということに注目したい。
同じ被差別集落なのに、在日コリアン集落は御土居の外側で、楽只地区は内側にあります。御土居を境にして、被差別民の間にも、わざと"上下関係"を作り出していたのでしょうか。
ここに為政者の "嫌らしさ" を感じざるを得ません。
千本北大路交差点
千本北大路交差点に戻ってきました。これで"蓮台野への道"は終わりたいと思います。
最後の方はバラック探検隊みたいになってしまいました。まぁ異界探訪なので、しょうがないかもしれませんが。
御土居を境に、内側に楽只地区、外側に在日集落という話をしました。被差別民の間にも上下関係を造り出したと。
なぜそう感じたかというと、同じ京都市内の崇仁地区も、御土居を挟んだ外側に在日地区の東九条があるからです。
※明治10年に京都駅が開業するまで、崇仁地区は京の町外れでした。京都駅ができてから急に市街地になりました。
京都の外縁部に位置する御土居を舞台に、同じ位置関係の被差別集落が2箇所もあるという事は偶然ではないはず。
過去に京都の町造りを担った為政者の"嫌らしい裏の顔"を垣間見た気がしました。異界探訪はまさに"闇巡り"です。
~ 終わり ~
蓮台野への道を歩く(その2)~京都の葬送地~
釘抜き地蔵
まずは「釘抜き地蔵」へ。苦を抜いてくれる地蔵尊、という事で、様々な苦しみをもった人が訪れます。
釘抜き地蔵(その2)。僕が行ったときも、実際に「御百度参り」をしている人が何人もいました。
しかも若い人ばかり!信仰の厚さが感じられました。
続いて瑞雲院。千本えんま堂に行く途中のお寺です。
今度は称福寺。次から次へとお寺が現れるのも楽しい。
千本えんま堂
千本えんま堂に到着!えんま大王を祀るお寺です。ここも六堂の辻と言われています。
千本えんま堂(その2)。ちょうど鳥辺野ルートでいうところの六道珍皇寺に相当するお寺でしょう。
確かにどちらも、えんま大王を祀っています。さらに夏には六道参りが行われる、というのも同じ。
千本えんま堂(その3)。本堂の裏には"賽の河原"までありました。
千本えんま堂(その4)。なんと言っても小野篁の像があるのも六道珍皇寺と同じです(中央の像)
小野篁とは、現世と冥界を行き来して、えんま大王を補佐した冥官です。
上品蓮台寺
北へ歩くと、やがて上品蓮台寺。鳥辺野ルートでいうところの清水寺に相当する寺です。
重要寺院ですが、それほど大きくはないし、「非人を管理した」というような話も聞きません。
上品蓮台寺(その2)。清水寺のような観光寺院でもないので、観光客は一切来ていません。静かに落ち着いてお参りできます。
上品蓮台寺(その3)。裏手に墓地が広がり、唯一 "葬送地" らしい雰囲気を残しています。
昔は付近一帯がこんな光景だったのでしょうね。今はほとんど残っていませんが・・・。
上品蓮台寺(その4)。懐かしい仁丹の看板もありました。なぜか京都ではよく見かけますね。
では上品蓮台寺を出て、次へ向かいましょう。
千本北大路交差点に到着
千本北大路交差点に到着しました。一応ここが葬送ロードの終点といえます。
ただ周辺には、船岡山や天神川などの異界スポットが散りばめられています。
ここで終わる訳にはいきません。葬送地"蓮台野"を巡り歩く事にしましょう。
船岡山を巡る
まずは船岡山へ。朱雀大路の真北に位置する標高111mの小山です。平安京四神のうちの玄武との説もあります。
保元の乱の際は処刑場になった場所であり、応仁の乱の際は合戦場になったという、まさに血生臭い場所です。
船岡山(その2)。上っていくとすぐに、昭和5年築のラジオ電波塔。近代建築遺産ですね。いきなりこんなものがあるのも面白い。
船岡山(その3)。三等三角点とサイレン塔。後ろの円塔は太平洋戦争の際、空襲警報を鳴らした施設らしい。やはり近代建築遺産。
船岡山(その4)。ここからの眺望は素晴らしい。天王山や男山、そして生駒山までくっきり見える!
船岡山(その5)。さらに京都タワーや京都駅も!晴れたら東寺や伏見城も見えるそうです。
船岡山(その6)。平安時代に、清少納言が枕草子の中で「岡は船岡」と言ったというのも、この景色があったからなのでしょうね。
船岡山(その7)。ここには織田信長を祀る武勲神社もあります。明治天皇の命により作られた比較的新しい神社です。なぜここにあるのか、明治の日本を考えると面白い。
船岡山(その8)。やはり異界でしたね、船岡山は。平安京遺跡から近代建築遺産まで、特異な歴史が詰まっていました。
では船岡山を出て、また千本北大路交差点の方へ向かいましょう。
蓮台野への道を歩く(その1)〜京都の葬送地~
かつて京の人々は、死人が出ると、周縁の山すそに死体を捨てていました。
そこは葬送地と呼ばれ、特に大規模だった3箇所を三大葬送地と言いました。
清水寺のある"鳥辺野"と、船岡山の西側の"蓮台野"、嵯峨野の先の"化野"です。
今回はそのうち「蓮台野へ死体を葬送した道」を歩いてみたいと思います。
スタートは千本今出川交差点。そこはかつて平安京の内と外の境い目でした。
そこから"千本の卒塔婆"が並んでいたという千本通りを通って北大路交差点へ。
ではスタート!と言いたいところですが、近所に強力な魔界があるので、
まずはそちらに寄り道していきましょう。
北野天満宮へ寄り道
という訳で、北野天満宮からスタートします。怨霊、菅原道真を祀る神社です。
北野天満宮(その1)。楼門。北野天満宮はどの建物も凄いけれど、これは本当に巨大で圧倒されます。
北野天満宮(その2)。絵馬所。元禄年間に建てられました。ちなみに北野天満宮は全国にある天満宮の総本宮です。
北野天満宮(その3)。社殿。安土桃山時代に建てられた桃山様式の建物です。国宝。
ところで北野天満宮は、菅原道真の怨霊が祟りとなって、京の人々を苦しめたため、その鎮魂にと建てられました。
怨霊には怨霊をもって鎮めよ!今でも怨霊に苦しめられてる人は、ぜひここにお参りして怨霊鎮魂をしましょう。
御土居とは豊臣秀吉が造った"京を守る防御壁"。京都を一周する土塁の事です。
北野天満宮(その5)。御土居は大部分が壊されているのですが、このエリアだけはかろうじて残されています。
北野天満宮(その6)。北野天満宮境内には梅林と日本庭園があります。行ってみましょう。
北野天満宮(その7)。小川の流れが美しい。ここで色々な行事が行われるらしい。
上七軒へ寄り道
上七軒。こんな強力な "異界" がある以上、寄らない訳にはいきません(笑)京都を代表する五花街の一つです。
上七軒(その2)。昔は"精進落とし"という風習があったので、大きな神社仏閣の隣には大抵、花街がありました。
花街つまり"芸妓や娼妓と遊ぶ場所"ですから、これはもう非日常的な場所。すなわち"異界"と言って良いでしょう。
上七軒(その3)。桃山時代にできた"京都で一番古い"花街です。昔ながらの趣ある建物が数多く残されています。
祇園や先斗町より観光客も少ないので、静かにゆったり回れるのも良いですね。路地歩きも楽しいですよ。
上七軒(その4)。歌舞練場。祇園や先斗町の歌舞練場と同じように近代モダン建築です。夏はビアガーデンをやるらしい。
上七軒(その5)。郵便局も凄い。町家造りです。
ようやく上七軒を出ました。今度こそ千本今出川交差点へ!と言いたいところですが、まだ隣に千本釈迦堂という 強力な"異界" があった!
千本釈迦堂へ寄り道
という訳で、千本釈迦堂に向かって歩き始めたのですが、すぐにこんな建物のラーメン屋さんを発見。
古い町家をリノベーションしたようです。さすが京都!こんな建物が至るところにありますね。
続いてこんなお店も発見。染み落とし店だそうです。よく考えたら、ここは西陣の外れに位置しています。なので染織関係のお店があるのも当然かもしれせん。
これは凄い! "機織り機を作る専門のお店" !こんなのがあるとは驚きました。さすが西陣!
ようやく千本釈迦堂に到着。ここは京都最古の建物がある、という由緒あるお寺です。
千本釈迦堂(その2)。本堂。京都の歴史に関する古典的名著の「京都千年の歴史」(岩波新書)という本にも、冒頭でわざわざ「屋根の曲線美が美しい」と紹介されています。
千本釈迦堂(その3)。不動明王も祀られていたのでお参りしておきましょう。
千本釈迦堂(その4)。ついでに境内にいた可愛いネコも撮影!お見送りでしょうか。
鳥辺野への道を歩く(その3)〜京都の葬送地~
清水坂を上る
観光客用の巨大駐車場のある辺りから、道の名前も「清水坂」に変わるようです。
観光客も俄然増えてきます。有名なので仕方ない。では上がっていきましょう。
五条坂から上ってくる道との三叉路に到着しました。路線バスで清水寺に来る観光客は、この道を上ってきます。
ここからまた一段と混むようになりました。修学旅行生もめちゃくちゃ多いぞ。
産寧坂に寄り道
ここでまた産寧坂へ寄り道します。三年坂とも言いますが正しくは産寧坂。
またまた轟川を発見。左側に橋の欄干のようなものも見えますね。
轟川の上流方向。ここはブラタモリで取り上げられたらしい。
轟川の下流方向。案内板までありました。
ちなみに一寸法師がお椀に載って上がってきたのは轟川という説もあります。
また清水坂を東へ
清水坂に戻りました。もはや満員電車なみです。
歩いていくと、すぐ左側に真福寺大日堂。
真福寺大日堂には、東日本大震災の際に流れ着いた陸前高田の松の流木を使って掘られた大日如来坐像が祀られています。
今度は寶徳寺。この道にも次々と古刹が現れますが、誰も見向きもせず上がっていきます。
清水寺に到着
ようやく清水寺が見えてきました。バスガイド、修学旅行生、レンタル着物の観光客・・・
入口手前の右側に、子安塔跡を示す石柱が建っています。移転前の子安塔はここにありました。
子安塔跡石柱をアップ。
江戸時代に書かれた子安観音縁起によると、子安塔の浴室を訪れた癩者の身体を、光明皇后が洗ってあげたところ、仏の姿に変身した、との伝説があります。
この先の「音羽の滝の水によって癩病が治癒する」との伝承まで含めて考えると、まさにここは"癩者(すなわち弱者)を救済するための道"と言えそうです。
では清水寺へ
お参りにいきましょう。清水寺へ。
まずは地蔵院善光寺堂から。
続いて清水寺の舞台。あまりにも有名ですね。
舞台奥にいらっしゃる観音様も拝みました。
この観音様こそ、弱者を救済してくださる方ですね。
清水寺の奥の院
清水の舞台を奥の院から。この風景こそ京都で一番有名ですね。
山をぐるっと回って「音羽の滝」に着きました。音羽川の水源地でもあります。
先に書いたように「この滝の水によって癩病が治癒する」との伝承があります。
まさに弱者救済の到達点でしょうか。でも本当の到達点はまだ先にあります。
という訳で、舞台下を通って、お寺の入り口へ戻っていきましょう。
最終到達地点の大谷墓地へ
あまり知られてませんが、清水寺境内から直接墓地へ抜ける出入口があるのです。
ではこの門扉を通って、広大な墓地へ行きましょう。そここそ実は到達点でした。
本当に驚くほど広大な墓地が広がります。清水寺のすぐ隣がこうなってるなんて、ほとんどの観光客は知らないと思います。
鳥辺野の葬送地
この鳥辺野で葬送にまつわる仕事をしていたのは清水坂非人と呼ばれた人たち。彼らは忌み嫌われる仕事をしていました。
実は、その仕事をさせていたのは清水寺です。
でも逆にいうと、清水寺によって、彼らは安定的な収入を得ることができた、とも言えるわけです。
それどころか清水寺は、葬送に関する仕事の一切の独占権を彼らに与えていたのです。
清水寺は、非人という社会的弱者の生活の保証までしていた事になります。
広大な鳥辺野の葬送地。ここが最終到達地点です。
火葬が一般化するまでは、ただ死体を捨てて、鳥に任せるのみでした。(民族学用語で鳥葬と言います)
やがて、ここに捨てられた死体は、"聖なる鳥"が極楽浄土へ連れてってくれると信じられていました。
音羽川を下る
鳥辺野の墓地の下に、音羽川が流れているので寄りました。
他の人の遡行記を見ると、砂防ダムが幾つもあるらしい。という事は頻繁に土石流が発生していたはず。
という事は下流で扇状地も形成していたはず。しかし今の地図や空撮を見ても扇状地はよく分かりません。
とにかく今後の調査が楽しみです。続いて墓地の隣のお寺に行ってみます。
大谷本廟
大谷本廟です。まったく別世界に入ってきたよう。
大谷本廟(その2)。親鸞上人の墓所のある "浄土真宗の聖地" です。
大谷本廟(その3)。敷地内に親鸞聖人由縁の石窟がありました。
大谷本廟(その4)。では石畳の道を歩いて、下界へ戻りましょう。
寄り道しまくった "鳥辺野への道" も、これで終了になります。
鴨川松原橋から清水寺まで通常30分のところ、寄り道しまくったので4時間もかかってしまいました。
最後にもう一度言っておきたいのは清水寺のこと。観光客であふれ、誰もが一度は行った事もあると思います。
しかし、この有名寺院が、実は "弱者救済の寺" だったという事は、ほとんど知られていないと思います。
それも、癩者や非人など歴史上黙殺されてきたような社会的弱者。彼らを救済するのが清水寺の役割でした。
かつて、ただの観光地として行った人も、ぜひそういった視点で、もう一度、清水寺を訪ねてみませんか。
〜 終わり 〜
鳥辺野への道を歩く(その2)〜京都の葬送地~
松原通を東へ
また松原通に戻ると、すぐに不思議茶屋バラライカの看板。これは何でしょうか。謎です。
不思議茶屋バラライカ(その2)。正式名称は北向地蔵路地です。入ってみると、一番奥に北を向いたお地蔵さんが鎮座していました。
不思議茶屋バラライカ(その3)。ここにも弓矢町と書かれた看板がありました。
なお、弓矢町と名付けられる前は、坂町という名前だったことが分かっています。
"坂の者"と呼ばれた非人の集住地だったからです。町ではなく"坂"に住む者たち。
町と山の境界に位置する坂はまさに異界。常民の住む場所ではありませんでした。
六道の辻
さらに西へ歩くと「六道の辻」の石柱。実はここから六道珍皇寺にかけてが「六道の辻」でした。
この世とあの世の境い目で、地獄道や餓鬼道などの六道のどこに行くかが、ここで選別されます。
では西福寺にお参りしましょう。
西福寺(その2)。空海の創建と伝わる由緒ある古刹です。
六波羅蜜寺へ寄り道
西福寺の隣には六波羅蜜寺。平清盛像が安置されてます。有名なお寺で観光客も多い。
六波羅蜜寺(その2)。この地に、平安時代は平家の屋敷があり、また鎌倉時代は六波羅探題がありました。
何度も何度も戦乱に襲われた場所で、血生臭い歴史を秘めた"魔界"と言えるでしょう。六道の辻に相応しい。
六波羅蜜寺(その3)。ここには空也上人像が安置されています。口から六体の阿弥陀仏を吐き出している姿は有名ですよね。
パッと見ると何とも不気味な姿です。でも実は有難いお姿と言えます。
幽霊子育て飴
六道の辻には、有名な「幽霊子育て飴」のお店があります。
幽霊子育て飴(その2)。幽霊が赤子に飴を与えるために、夜な夜な買いに来た、という伝説。そんな話が生まれるほど、この地は幽霊と繋がり深いと言えます。
次々と現れる路地
また松原通に戻って東へ進みましょう。
西轆轤町と書かれた箱?を発見しました。この辺りは轆轤(ろくろ)町と呼ばれています。
昔は髑髏(どくろ)町だったのですが、江戸時代に轆轤町(ろくろ)に改名されたらしい。
"葬送地"鳥辺野へ死体を運ぶルートで、既にこの地にも髑髏がゴロゴロ散乱していたから、との事。
次々と路地が現れます。京都は必ず標識を出すのでしょうか。ここは松月小路。何とも風雅な路地名ですね。
笑い路地。ここは何なのでしょう?
ハッピー六原。もちろん六波羅から取ったのでしょう。六つの波羅蜜という意味。
ろくろ小路。やはり轆轤町ですね。
小野篁と閻魔大王を祀る六道珍皇寺
六道珍皇寺に到着。延暦年間創建と伝わる古刹です。
ここにも「六道の辻」の大きな石碑がありました。
中に入ってみましょう。
六道珍皇寺(その2)。入るとすぐ右側に閻魔堂。ここに小野篁と閻魔大王が祀られています。
六道珍皇寺(その3)。まずは小野篁(おののたかむら)。現世と冥界を行き来して、閻魔大王を補佐した冥官です。
ところで小野篁像は、僕の知る限り京都では三体あり、これはそのうちの一つ。
(他は、蓮台野の千本閻魔堂と、嵯峨野の薬師寺。どれも葬送ルートに該当します)
六道珍皇寺(その4)。こちらは閻魔大王。言わずと知れた冥界の支配者です。
六道珍皇寺(その5)。本堂です。ここは京都のお盆の風物詩の「六道参り」で有名。
先祖の精霊を迎えに行く行事で、祇園祭と大文字の間は、ここに列が続くらしい。
六道珍皇寺(その6)。最近発見された「黄泉がえりの井戸」。真ん中奥に蓋だけ見えています。小野篁がここから"黄泉の国"に通っていたらしい。
東大路通を越える
東大路通に到着。昔は東山通と言ってましたけどね。
さすがかつて市電が走っていただけあって幅が広い。
そのまま横断して、松原通を進んでいきましょう。
すぐにお地蔵さん。
そして石柱。おそらく道標だと思われます。
この辺りから先が清水4丁目で、神護寺がどこかにあったらしい。
今はもう無くなりましたが、神護寺も癩者の救済施設だったようです。
この先の子安塔跡も含めて、まさに松原通は"癩者救済の道"でした。
左側に日體寺。江戸中期創建という日蓮宗のお寺です。
日體寺(その2)。中は入れなかったので門前から撮影。
八坂塔へ寄り道
少し寄り道をして八坂塔の方へ行ってみましょう。
道の上に橋が掛かっています。大正11年に造られたという古い鉄筋コンクリート橋らしい。
そこに大漸寺というお寺がありました。やはり江戸時代の創建という古刹です。
轟川に到着しました。右側の錆びた門扉のある所を、右から左へ横断しています。
轟川(その2)。右側を望む。マンホールからかなりの水音が聞こえたので、相当な流量なのでしょう。
轟川(その3)。今度は左側。いつか"轟川を歩く"を実行してみたい。
八坂の塔に到着。この辺りが一番京都らしいかもしれませんね。
「五重の塔」と「石畳の道」といえば、高石友也の「街」という歌を思い出します。70年代の京都の学生生活を歌った名曲です。
すぐ左側に、八坂庚申堂。今やインスタでブームになってしまいました。
その向かい側に、下河原通。この道沿いに、轟川と菊渓川の河原があったから名付けられたらしい。菊溪川の河原には菊達菊が咲き乱れていた、とのこと。
ところで、この道を北上すると八坂神社の楼門に着きます。一般的には四条通の突き当たりの楼門が有名ですが、実はこちらの楼門こそ正面玄関でした。
鳥辺野への道を歩く(その1)〜京都の葬送地~
かつて京の人々は、死者が出ると、周縁の山すそに死体を捨てていました。
そこは葬送地と呼ばれ、特に大規模だった3ヵ所は三大葬送地と呼ばれました。
清水寺のある"鳥辺野"と、船岡山の西側の"蓮台野"、嵯峨野の先の"化野"です。
今回はそのうち、「鳥辺野へ死体を葬送した道」を歩いてみたいと思います。
スタートは鴨川にかかる松原橋。そこから松原通を通って、ゴールは清水寺!
松原橋からスタート!
では松原橋からスタートしましょう。本来はここが清水寺の参詣の出発地点なのです。
今は痕跡もありませんが、江戸時代の「清水寺参詣曼荼羅」もここから始まっています。
松原橋を渡り始めましょう。この納涼床の下を流れる川に名前が付いている事を知らない人も多いと思います。
「みそそぎ川」。昭和10年の大水害の後に作られた人工河川です。今は中央河川敷の"等間隔の法則"が有名ですね。
振り返ると、登録有形文化財の鮒鶴が見えます。
大正14年に建てられた楼閣建築の料理旅館です。
鴨川全景。右側遠くに比叡山も見えます。京都らしい風景ですね。
江戸時代(寛文年間)までは、この倍くらいの川幅があったようです。
川端通に到着
川端通に到着。かつて京阪電車が地上を走っていました。(今は地下鉄になっています)
ちなみに“鴨川沿い”という超一等地を京阪電車が通れたのは、渋沢栄一の功績らしい。
では川端通を渡りましょう。
清水寺参詣曼荼羅によると、昔の鴨川は流れが二筋に分かれ、その真ん中に島があったようです。
そこに安倍晴明の建てた法城寺というお寺があって、鴨川氾濫を鎮める役割を担ってたとのこと。
その島は川端通から松原橋公園にかけての一帯にあったと思われます。かなり大きかったはず。
すぐに琵琶湖疏水が現れます。
この辺りは暗渠ではないようです。地表に出てますね。
宮川町
琵琶湖疏水を渡ると、すぐ右手に松原橋公園。その周りは飲食店が多い。
先に言ったように、ここも島の跡で法城寺というお寺があったと思われます。
松原通を進みましょう。すぐに宮川通が交差します。
ところで京都では“通り”のことを“通”と書きます。だから宮川通。独特ですよね。
ややこしいのは“通”と書いても、読むのは“とおり”。本当に京都はややこしい!
宮川通。京都五花街の一つで、お茶屋さんが並んでいます。
先に書いたように、ここも江戸時代(寛文年間)まで川の中でした。
京を直轄していた幕府の命で川を埋め立てて、新たに造られた花街です。
宮川町の路地(その1)「京都は路地が面白い」と言いますが、ここも本当に面白い。
宮川町の路地(その2)一人でゆっくり散策したくなるような路地ですよね。
弓矢町の始まり
松原通に戻ります。すぐにお地蔵さん。京都は本当にお地蔵さんが多い。
清水寺参詣曼荼羅によると、かつてはこの交差点に木戸があって、そこから先が弓矢町、すなわち"非人集住地"でした。
さらに同曼荼羅に描かれていた "癩者が物乞いしている小屋" も、ちょうどこの左側になります。行ってみましょう。
先の交差点を左に曲がった路地。この先のすぐ右側が "癩者物乞い小屋" で、突当たりの手前右側が旧物吉村です。
物吉村
物吉村に到着。かつての癩者の集住地です。ここに長棟堂と呼ばれた "癩者の救済施設" がありました。
さらにここには、安倍晴明を葬る清円寺や、晴明を葬った晴明塚までありました。その名残があります。
清円寺は明治の廃仏毀釈で壊されましたが、その信仰を守るため、跡地に安倍晴明を祀る社(やしろ)が建てられました。
地元で「晴明さん」と呼ばれている社。ここがまさに物吉村にあった清円寺→晴明塚→晴明社と変遷してきた所なのです。
安倍晴明の社から北の通りを見てみましょう。右側の塀の所は新道小学校跡地。ここは江戸後期まで火葬場でした。
桃山時代に、今の東区役所の所にあった火葬場が移ってきました。どちらも“現在は”公共施設という事に注目したい。
火葬場の跡地はさすがに誰も住みたくないし、買い手もつかない。なので今でも公共施設しかなれないのでしょう。
その後、別の場所に移っていくのですが、そこも現在、京都市公設西院老人デイサービスセンター。また公共施設!
新道小学校跡地の向かい側は宮川歌舞練場。現在、新しい施設にするため工事中です。
大和大路通を越える
また元に戻って松原通を進むと、すぐに大和大路通が見えてきました。
ここを右に曲がると、伏見街道~奈良街道へと続いていく道になります。
かつて京都~奈良の間は、今の東京~大阪に匹敵する最重要街道でした。
大和大路通との交差点にお地蔵さんがあります。
お地蔵さんの囲いに「西弓矢町」の看板を発見。まさにここは弓矢町のど真ん中ですね。かつて弓矢を作る職人たちが住んでいました。
ところで弓矢を作るにはには革加工の技術が必要です。今と違って昔は、動物を殺して革細工を作れるのは"非人"と呼ばれた人たちだけでした。
※今では考えられませんが、日本人が牛や豚を食べるようになったのは明治以降です。それ以前は四つ足動物を殺すなんて考えられませんでした。
摩利支天に寄り道
ここで寄り道して、大和大路を北に進みましょう。
八坂通りとの角にある摩利支天に到着しました。
東京で摩利支天といえば上野のアメ横が有名ですが、全国的に摩利支天を祀るお寺は珍しいでしょう。
愛宕念仏寺跡地へ寄り道
愛宕念仏寺跡地の石柱。今は嵯峨野にある愛宕念仏寺ですが、大正時代に移転するまではここにありました。
路地を入ってみましょう。
入るとすぐに古い住宅地図があります。まだ昔のままで、ホテルセレスティンの所が中央電話局祇園分局、松原交番の隣のマンションの所が松原警察署になってますね。
ちなみに、この地図の右半分くらいのエリアが愛宕念仏寺の敷地でした。かなり広かった訳です。
かつてここにあった愛宕念仏寺は、地域住民にも深く信仰されていたため、転出後もこの地に愛宕信仰を残そうと建立されました。
ちなみに大正〜昭和初期はコンクリート構造物がブームだったため、コンクリート造になったと思われます。ある意味京都らしい。
町会所の弓箭閣。おそらく地名の弓矢町から名付けられたものでしょう。
昭和初期に建てられた町家建築で、祇園祭りの際は武具が飾られます。
清水音羽川を歩く(その3)〜京都の廃河川〜
五条通から南へ
五条通から南へ入っていく道です。でも入る前にアスファルト舗装をよく見ると・・・
折れていく道のアスファルト舗装や、その右側の側溝をよく見ると、なだらかにカーブしている!これはあきらかに音羽川の名残りじゃないですか。ここまではっきり残ってるなんて凄い!
それではどんどん南側へ進んでいきましょう。ここで右に折れ・・・
今度は左に折れ・・・
くねくね曲がりながら進んでいきます。さすが"元"河川だけあって、簡単に直進とはいきませんね。
さて、この先に渋谷街道が見えてきました(黄色い車止めの所です)。また少し、寄り道してみましょう。
渋谷街道で寄り道
渋谷街道を西へ曲がると、すぐにお地蔵さんがありました。丁寧に拝んで、引き続き西へ進むと・・・
本町通に到着。ここはかつての伏見街道であり、奈良街道でもあり、渋谷街道の合流道でもあります。つまり京都トップクラスの重要街道でした。
道沿いには古い町家が建ち並んでいて、いかにも旧街道らしい趣きが感じられます。
浄雲寺
近所に浄雲寺というお寺があったので寄りました。渋谷街道の終点に位置してるので、何か由縁がありそうですが、このお寺の由緒はよく分かっていません。
浄雲寺(その2)。弁財天はもの凄く趣きがありました。
浄雲寺(その3)。境内の全景です。本町通や五条通に近いのに、まったく騒音は聞こえず、静かで心和む空間でした。
渋谷街道から別の水系が合流?
また音羽川まで戻ってきました(ここは渋谷街道との交差点です)
そしてここから、再び下水道が合流するのです。ただ渋谷街道を流れてきた下水道なので、音羽川の支流のようなものが(昔は)あったのではないか、と僕は推測しています。
さらに言うと、音羽川の本流とは先ほど別れたので、ここから流れるのは、渋谷街道周辺の下水や雨水を集めてきた"別の水"。いわば下水道の"入れ替わり"とも言えますね。
いずれにしろ、下水道が復活するので、ここからは再び古地図やスミトンを確認しながら進んでいくことにしましょう。
道はどんどん狭くなりますね。しかも砂利道!この下を下水道が通っているなんて信じられません。
さらに進んでいきます。昭和30年代くらいまでは音羽川が流れていたはずですが、こんなに狭かったとは驚きです。
おそらく、家の裏側を流れる"どぶ川"といった趣きだったのでしょうね。
本町公園に到着
ついに本町公園が見えました。下水道はここを斜めに横断していきますが、音羽川は直角に曲がっていったようです。僕らは音羽川に沿って直角に進みましょう。
"元"音羽川の道は、本町公園を右に見て進んでいきます。
やがて、ここで直角に西へ折れます。
ここからは西へ進みます。と思ったら、「通り抜け出来ません」の貼り紙?何でしょうか?
公園内を歩いていくと、音羽川の上に建物が建っている!だから「通り抜け禁止」だったのですね。
それにしても、ちゃんとしたブロック積みで、倉庫のようにも見えます。いったい何でしょうか?
反対側から見てみると・・・、音羽川の上を占拠している建物は、消防団の倉庫でした。
他の川でも、消防団の倉庫が建っている事があったので、よくある事なのでしょう。
ここで本町公園とはお別れです。
ちなみに「本町」とは、本町通に沿った"両側町"で、1丁目から22丁目まである南北に細長い町です。北は五条通から、南は伏見まで!本当に長い!
本町通から西へ
本町通を横断します。先も言ったように、京都市トップクラスの重要街道。交通量も多い。なのに狭いので危険です。
本町通を渡って、先へ進みましょう。歩道が異常に広いのは、ここが"元"音羽川だからですね。
マンホール!もちろん歩道の下に下水道も流れています。
鞘町通の分岐点
鞘町通に到着しました。ここでまた下水道の本管は左折してしまいます。(その後はひたすら南下して、鳥羽の下水処理場を目指します)
しかし別の直進ルートもあるのでややこしい。それは大雨の際、下水処理場がパンクしないように、余剰分を鴨川へ流す緊急避難ルート。
先ほどの五条通の鴨川直進ルートと同じです。何せ京都市の下水道の40%は雨水合流式なので、鴨川に何ヵ所も出口が造られました。
とはいえ僕らが目指すのは下水道ではなく音羽川!そのまま直進しましょう。古地図にも直進する音羽川がはっきり写ってますから。
川端通に到着
川端通に到着しました。この道は、京阪電車の地下化と、琵琶湖疏水の暗渠化により、新しく作られた通りです。
疏水は、たまに地表を流れてる所もありますが、この辺りは完全に暗渠化されたようで、全く見当たりませんね。
川端通の歩道まで来ました(写真は北を向いた所)。ちょうどこの下辺りを琵琶湖疏水が流れているはずです。暗渠となって。
先にも言ったように、音羽川は元々鴨川に注いでいました。しかし琵琶湖疏水ができてからは、疏水に注いでいたようです(大正時代の地図にもはっきりと描かれています)。
しかし残念ながら、暗渠のため何も見ることはできません。何やら"もやもや"しますが、音羽川探索はこれで終わりとなります。
とはいえ、ここで終わっても何だか中途半端。とりあえず河川敷までは行ってみましょう。
という訳で川端通を横断します(写真は南向き)。この下を京阪電車が通っています。しかし言うまでもありませんが、 1980年代までは地表を通っていました。
川端通を横断(その2)。今度は北向きです。
ちなみに京阪電車が鴨川沿いの市有地の上を走れたのは、渋沢栄一の力が大きかったからと言われています。しかも三条大橋という一等地に、駅を造れた訳ですからね。
明治の頃は、三条一帯が京都の中心であり玄関口でした(江戸時代までは三条大橋が東海道の終点、つまり玄関口でしたから!)。今の京都駅一帯は何も無い"場末"でした。
つまり国鉄ですら、辺鄙な"場末"にしか駅を造れなかった訳で、いかに京阪電車が凄かったかが分かりますよね。しかも鴨川沿いなんて、今では景観上、絶対造れない場所です。
ついに鴨川に到着
鴨川に到着しました。平安時代から"暴れ川"として恐れられ、何度も氾濫したそうです。最後の氾濫は昭和10年の大水害。
そのため昭和10年から改修工事が行なわれ、それまでの川底の高さ(琵琶湖疏水と同程度?)から掘削され、今の低さになりました。
また1980年代の川端通の新設工事でも、堤防の上半分が新たに作り替えられました。なので上部は昔の姿が残っていません。
鴨川(その2)。川面にカモが大量に写っているのが分かりますか。心が和みますよね。
普段は"山紫水明"と言われるほど風光明媚。しかも山が近いため、水も綺麗です。
(ただし大雨が降れば、下水の流れる"汚い川"に変わってしまうようですけどね)
堤防内の河川敷を歩いてみましょう。
河川敷は上下2段になっています。おそらくこの道より上は、1980年代の川端通新設工事で造られたのではないでしょうか。
また、この道より下は、昭和10年以降の改修工事で造られたのではないでしょうか。僕はそのように推測しているのですけどね。
雨水吐口
少し北へ歩いていくと雨水吐口を見つけました。これは何かというと、、、
昭和40年頃まで京都市は、雨水や山水をそのまま下水道に流していました。場合によっては、小川をそのまま下水道化したケースも!(菊溪川も轟川もそう!)
そうなると、大雨で下水処理場がパンクしてしまうので、余剰分を鴨川へ直接流す緊急避難ルートを造りました。その鴨川での出口を「雨水吐口」と言います。
雨水吐口(その2)。
名前だけ見ると、「雨水だけを吐き出している出口」のように見えますが、実は下水(つまり大小○)も吐き出していました。これはちょっと驚きですよね。
雨水吐口(その3)。
何やら汚い話になってしまいました。廃河川探索が、いつのまにか汚水探索になってしまったなんて!
でも、ある意味、"異界探索"に相応しいかもしれません。地下の下水道は、異界と言っても良いでしょう。
さて、せっかく音羽川異界巡りで、ここまで来たので、さらにちょっと寄り道をしましょう!
キリシタン殉教の碑から正面橋へ
音羽川河口から南へ70mほど歩くと、「キリシタン殉教の碑」。
江戸初期、徳川幕府による過酷なキリシタン弾圧が行われました。
京都でも、50余名のキリシタンが、生きたまま"火あぶりの刑"に処せられたらしい。
その刑場が、ここ六条河原。その史実を後世に伝えるため、この石碑は建てられました。
石碑のすぐ南側に正面橋。現在は特徴の無い小さな橋ですが、かつては大仏殿に向かう正面通に位置していたため正面橋と名付けられた格式ある橋です。
その大仏も今はありません(写真手前側にありました)。それは奈良の大仏や鎌倉の大仏を上回る巨大な大仏だったらしい。造らせたのは豊臣秀吉です。
正面通から耳塚へ
正面通。前出の正面橋から東側へ進む道です。狭いけど、これがまさにそう。
今では全く面影もありませんが、日本最大級の大仏の真正面に向かう道だったので、この道は「正面通」と名付けられました。
しかしこの道は進んでいくと、とんでもない物を目にする事になります。ある意味、日本史上最悪のモニュメント。それは・・・
耳塚。正面橋から東へ約220m。豊臣秀吉の"悪の象徴"のような場所です。
豊臣軍は朝鮮出兵の際、朝鮮人の耳や鼻を削ぎ落として、日本に持ち帰りました。
それを埋めて葬ったのがこの塚。その数、2万人とも言われています。
豊国神社
耳塚から東へ進むと正面に豊国神社。豊臣秀吉を神として祀る神社です。
創建当初は、ここより東方の阿弥陀ヶ峰山中に祀られました。徳川幕府による廃棄を経て、明治時代に現在地に再建されたものです。
豊臣秀吉末期の悪業をなぞるかのように、豊国神社も有為転変した訳ですね。今は観光客も少なく、静かに時を過ごしているようです。
豊国神社(その2)。明治天皇の勅命により建てられました。古社のような顔をしてますが、明治時代にできた比較的新しい神社と言えます。
織田信長を祀る建勲神社も明治時代に京都に建てられた訳で、明治新政府は国家支配のために、戦国武将の力も必要としたと言えそうです。
さて、明治に豊国神社ができる前は何があったのかというと、先にも言ったとおり、大仏殿跡地となっていました。今は無き巨大大仏です。
大仏殿の痕跡として唯一残っているのが、この石垣。あまりにも巨大な石積みなので驚きますよね。
その巨大さは、いかにも豊臣秀吉が造ったものらしい。大量の人数を動員した事が分かっています。
では門前に戻りましょう。
甘春堂の大仏餅
大仏殿の門前には甘春堂というお菓子司。慶応元年創業という老舗らしい。ここで甘いものでも頂いて、終わることにしましょう。
建物も素晴らしい。わざと梁を見せて、現代風に活かしていますね。お店の人に聞くと、古い町家を移築再生したものらしい。
店員さんの対応も親切で和みました。ちなみに大仏の門前らしく、大仏餅というのが名物とのこと。どうれ、頼んでみましょう。
大仏餅を頂きながら、今日の旅を振り返りました。
途中で水系が入れ替わる、などというアクロバティックな事もありましたが、水源から河口まで、ほぼ辿ることができました。
特に印象的だったのは清水焼。やはり音羽川を語るとき、切っても切れないでしょう。ど真ん中けを通り抜けてきましたから。
そういえば甘春堂の方も、美味しいお菓子には水が大事と言ってました。なるほど、この辺りは音羽川の伏流水が流れているはず。
であれば、この辺りが清水焼の拠点になった理由として、音羽川の伏流水をあげても良いのでは?焼き物には水が必要ですから。
この辺りは音羽川の扇状地なので伏流水は豊富なはず。そう考えれば、やはり音羽川と清水焼は切っても切れない関係だった!
今、頂いている大仏餅にも、音羽川の水が含まれてるかもしれません。まさに音羽川の旅を締めくくるのに相応しいですね。
〜 終わり 〜