化野への道を歩く(その2)~京都の葬送地~
嵯峨野の里山風景を歩く
嵯峨釈迦堂を離れて、また元の"化野ルート"に戻ってきました。
この辺りは “のどかな嵯峨野の里山風景” が広がります。気持ち良いですね。のんびり歩くのに最高です。
嵯峨野には茅葺き古民家もありました。心が落ち着く風景ですね。いつまでも見ていたい。
さて、ここを一人で歩いている時、突然、横から出てきた女性に声をかけられました。
「寂庵はどこか、ご存知でしょうか?」
残念ながら知りません、と答えたところ、寂しそうに去っていきました。40代くらいの女性一人旅のようでした。
その時は知りませでしたが、最近(このブログを書いている数日前)、ニュースで知りました。瀬戸内寂聴さんのお寺だったのですね。
伝統的建造物群保存地区に入る
そのまま歩いていくと、古い石碑と案内看板。ここから伝統的建造物群保存地区に入ります。
古い町家が昔の姿のまま保存されている地域。今回の最大の楽しみでもあります。
伝統的建造物群保存地区に入りました。
ほとんど明治の築のようですが、素晴らしい建物が並んでいます。
まさに今回のハイライト。濃密な空間には恐れ入ります。住んでいる方々の苦労も大変な事でしょう。
さりげなく崖に石仏があったりするのも素晴らしいところ。
化野念仏寺
化野念仏寺へ到着しました。鳥辺野でいうところの清水寺に相当するお寺です。
また葬送地として、死体が捨てられていた場所でもあります。上がっていきましょう。
化野念仏寺(その2)。上がると一瞬、極楽浄土のような場所が出迎えてくれます。でもその先は、、、
化野念仏寺(その3)。"西院(さい)の河原" に到着!
空海が、この付近に野ざらしになっていた死体を埋葬して千体の石仏を埋めたという場所です。
ただ実際は、石仏は八千体もあり、作られたのも平安時代から江戸時代までに及ぶとのこと。
きっと、彷徨っていた無縁仏も救済されたことでしょう。
化野念仏寺(その4)。水子地蔵尊もあります。生誕しなかった赤子の魂を救済してくれる場所。よほど有名なのか訪問者は絶えないようです。
化野念仏寺(その5)。嵯峨野らしい竹林の小径もありました。入っていきましょう。
化野念仏寺(その6)。こんなところに角倉素庵の墓を発見!そういえば嵯峨野で隠居したのでしたね。
角倉了以と親子二代で高瀬川を開鑿した豪商です。京都の歴史を語るとき欠かせません。
化野念仏寺(その7)。延命地蔵尊もありました。病に倒れた人々を救済してくれる場所。
どうやら化野念仏寺も清水寺同様、様々な苦しみを持った衆生を救済してくれる役割だったようです。
ここで化野念仏寺は終了します。
でもこの先にまだまだ強力な異界が続きます。迷わず進みましょう。
~ 化野への道を歩く(その3)へ続く ~
化野への道を歩く(その1)~京都の葬送地~
かつて京の人々は、死者が出ると、周縁の山すそに死体を捨てていました。
そこは葬送地と呼ばれ、特に大規模だった3箇所は三大葬送地と呼ばれました。
清水寺のある"鳥辺野"と、船岡山の西側の"蓮台野"、嵯峨野の先の"化野"です。
今回はそのうち、「化野へ死体を葬送した道」を歩いてみたいと思います。
スタートは帷子ノ辻。そこから嵯峨野を通って、ゴールは化野念仏寺です!
帷子ノ辻からスタート!
「帷子ノ辻」交差点からスタートしましょう。
「かたびらのつじ」という名前は、檀林皇后の遺言にまつわる伝説から生まれました。
「自分が死んだら死体は埋葬せず、辻に捨ててほしい」
その遺言に従って、皇后の死体は辻に捨てられ、やがて腐り始め、カラスに食われ、白骨となって朽ち果てました。
人はその姿を見て世の無常を悟ったとのこと。何とも気味悪い話ですが、その舞台がここ「帷子ノ辻」でした。
実際に死体が捨てられた場所は、「帷子ノ辻」交差点の東側踏切を渡った先にあるお地蔵様の所らしい。
葬送地すなわち死体を捨てる場所だった化野への出発地に相応しい伝説ですね。では歩き始めましょう。
嵐山電鉄を渡って古い道へ
すぐに踏切を渡ります。正面は嵐山電鉄「帷子の辻」駅。
すぐに古い道標が現れます。文政7年に建てられたものらしい。
続いて宝樹寺。由緒は分かりませんが昔ながらのお寺のようです。
宝樹寺(その2)。門前のお地蔵さんが良い感じでした。
またまた古い道標。古い街道らしく、由緒ありげなものが次々と現れます。
今度は石仏。由緒はよく分かりません。
油掛け地蔵
油掛け地蔵に到着!油をかけてお参りするらしい。強烈なインパクトがあります。見た目も匂いも!
油掛け地蔵(その2)。お地蔵さんは油で真っ黒!今まで色々なお地蔵さんを見てきましたが、こちらが一番凄まじい!必見です。
油掛け地蔵(その3)。お地蔵さんの前には道標もありました。
有栖川を横に見て歩く
しばらく有栖川を横に見て歩きます。それにしても流量が多い。山が近いからでしょうね。
ついに「大覚寺門前」交差点に到着!立派な大覚寺の門柱が出迎えてくれます。
愛宕大神の石柱もありました。
六道の辻
「大覚寺門前」交差点は「六道の辻」でもあります。立派な石柱が造られています。
六道の辻は、鳥辺野ルートでも蓮台野ルートでもありましたよね。
六道の辻(その2)。ここには色々なものが散りばめられています。まずは "生の六道延命地蔵"。
六道の辻(その3)。続いて "三途の川"。さすが六道の辻らしい!
そう、「六道の辻」といえば小野篁ですね。鳥辺野ルートでも六道珍皇寺に祀られてたし、蓮台野ルートでも千本えんま堂に祀られてましたね。
実はここにも祀られていたのです。嵯峨釈迦堂というお寺が嵯峨野にあるのですが、その境内の薬師寺にあるらしい。早速行ってみましょう。
嵯峨釈迦堂
「六道の辻」から少し道をはずれて、嵯峨釈迦堂へやって来ました。小野篁の旧跡があるからです。
嵯峨釈迦堂(その2)。小野篁のことしか知らずにやって来たのですが、ここは凄い!
立派な伽藍に圧倒されました。見応えたっぷりのお寺です。
嵯峨釈迦堂(その3)。嵯峨釈迦堂には「豊臣秀頼の首塚」がありました。何故でしょうか?
嵯峨釈迦堂(その4)。そして本題の薬師寺へ。ここに小野篁像があるはずです。
(京都で三体あるうちの一つ。既に僕は二体を拝観済み!)
でも住職いわく「拝観寺ではないので一般公開してない」とのこと。残念です。
(公開日のみ拝めるという事らしい)
嵯峨釈迦堂(その5)。でも社殿前に「生の六道〜小野篁旧跡」の石碑があったので、良しとしましょう。
嵯峨釈迦堂(その6)。ついでに、お庭が美しかった!まさに浄土への道といった感じでした。
これで嵯峨釈迦堂を出ましょう。
蓮台野への道を歩く(その3)~京都の葬送地~
人権の町を歩く
千本北大路交差点の東北角地一帯は楽只地区といいます。被差別民の住むエリアで、近現代に至るまで差別に苦しんできた歴史がありました。
地政学的にみると鳥辺野ルートとの類似を感じます。鳥辺野にも弓矢町という集落がありました。(ただこちらは江戸時代に成立した町ですが)
ここには最近まで「ツラッティ千本」という人権啓発施設がありました。(現在は他所に移転して活動中)
この辺りは被差別集落だけじゃなく、在日コリアン集落もあるため、"人権の町"とも言われています。
立派な市営住宅が建ち並んでいます。住環境は改善されたようですね。
このエリアの一画に、「水平社宣言」の一節を記した石碑があります。
水平社の初代委員長、南梅吉がここに住んでいたので建てられました。
「人の世に熱あれ、人間に光りあれ」
残念ながら写真は撮り損ねました。では楽只地区を出て次へ向かいましょう。
天神川へ
北大路通りを西へ歩いていると、道路が凸型に高くなっている部分を発見。
もしかしたら御土居の痕跡でしょうか。場所柄、充分可能性はありますね。
天神川を発見しました。早速下に降りて、川沿いを歩きましょう。
それにしても物凄い激流ですよ。流量も流速も!とても都市河川とは思えません。
ちなみに平安京の頃は、いろんな川からの分流が、幾筋も街の中を流れていました。(今は暗渠になってしまいましたが)
砂防ダム内の違法占拠集落
天神川を上流へ歩いていくと、この先で、”砂防ダム内の違法占拠集落”に至ります。河川敷にある集落です。(写真の掲載は控えます)
戦後の混乱期に、貧しい人々が次々と家を建てて、そのまま現在に至っている、という集落。京都って、ある意味"おおらか"ですよね。
今ではかなり有名になってしまいました。僕も集落内を歩き回りましたが、一言だけ言うと、もの凄い民衆のパワーを感じました。
一条天皇と三条天皇の火葬塚
続いて到着したのは、一条天皇と三条天皇の火葬塚。宮内庁が管理している"天皇陵"です。
火葬塚(その2)。先ほどの違法占拠集落と目と鼻の先。そこと隣り合わせにあるというのが、京都の凄い所ですね。
旧朝鮮学校だった建物
続いて、かつて朝鮮学校だった建物に到着しました。藪の向こう側で見づらいけれど。
先に書いたように、この周辺に在日コリアン集落があったので、学校が作られました。
旧朝鮮学校(その2)。入口は封鎖されています。廃校になって久しいのでしょう。
ここから天神川を挟んで、バラックだらけの集落が見えました(写真の掲載は控えます)。空き家になった在日コリアン集落です。ここでは御土居の外側ということに注目したい。
同じ被差別集落なのに、在日コリアン集落は御土居の外側で、楽只地区は内側にあります。御土居を境にして、被差別民の間にも、わざと"上下関係"を作り出していたのでしょうか。
ここに為政者の "嫌らしさ" を感じざるを得ません。
千本北大路交差点
千本北大路交差点に戻ってきました。これで"蓮台野への道"は終わりたいと思います。
最後の方はバラック探検隊みたいになってしまいました。まぁ異界探訪なので、しょうがないかもしれませんが。
御土居を境に、内側に楽只地区、外側に在日集落という話をしました。被差別民の間にも上下関係を造り出したと。
なぜそう感じたかというと、同じ京都市内の崇仁地区も、御土居を挟んだ外側に在日地区の東九条があるからです。
※明治10年に京都駅が開業するまで、崇仁地区は京の町外れでした。京都駅ができてから急に市街地になりました。
京都の外縁部に位置する御土居を舞台に、同じ位置関係の被差別集落が2箇所もあるという事は偶然ではないはず。
過去に京都の町造りを担った為政者の"嫌らしい裏の顔"を垣間見た気がしました。異界探訪はまさに"闇巡り"です。
~ 終わり ~
蓮台野への道を歩く(その2)~京都の葬送地~
釘抜き地蔵
まずは「釘抜き地蔵」へ。苦を抜いてくれる地蔵尊、という事で、様々な苦しみをもった人が訪れます。
釘抜き地蔵(その2)。僕が行ったときも、実際に「御百度参り」をしている人が何人もいました。
しかも若い人ばかり!信仰の厚さが感じられました。
続いて瑞雲院。千本えんま堂に行く途中のお寺です。
今度は称福寺。次から次へとお寺が現れるのも楽しい。
千本えんま堂
千本えんま堂に到着!えんま大王を祀るお寺です。ここも六堂の辻と言われています。
千本えんま堂(その2)。ちょうど鳥辺野ルートでいうところの六道珍皇寺に相当するお寺でしょう。
確かにどちらも、えんま大王を祀っています。さらに夏には六道参りが行われる、というのも同じ。
千本えんま堂(その3)。本堂の裏には"賽の河原"までありました。
千本えんま堂(その4)。なんと言っても小野篁の像があるのも六道珍皇寺と同じです(中央の像)
小野篁とは、現世と冥界を行き来して、えんま大王を補佐した冥官です。
上品蓮台寺
北へ歩くと、やがて上品蓮台寺。鳥辺野ルートでいうところの清水寺に相当する寺です。
重要寺院ですが、それほど大きくはないし、「非人を管理した」というような話も聞きません。
上品蓮台寺(その2)。清水寺のような観光寺院でもないので、観光客は一切来ていません。静かに落ち着いてお参りできます。
上品蓮台寺(その3)。裏手に墓地が広がり、唯一 "葬送地" らしい雰囲気を残しています。
昔は付近一帯がこんな光景だったのでしょうね。今はほとんど残っていませんが・・・。
上品蓮台寺(その4)。懐かしい仁丹の看板もありました。なぜか京都ではよく見かけますね。
では上品蓮台寺を出て、次へ向かいましょう。
千本北大路交差点に到着
千本北大路交差点に到着しました。一応ここが葬送ロードの終点といえます。
ただ周辺には、船岡山や天神川などの異界スポットが散りばめられています。
ここで終わる訳にはいきません。葬送地"蓮台野"を巡り歩く事にしましょう。
船岡山を巡る
まずは船岡山へ。朱雀大路の真北に位置する標高111mの小山です。平安京四神のうちの玄武との説もあります。
保元の乱の際は処刑場になった場所であり、応仁の乱の際は合戦場になったという、まさに血生臭い場所です。
船岡山(その2)。上っていくとすぐに、昭和5年築のラジオ電波塔。近代建築遺産ですね。いきなりこんなものがあるのも面白い。
船岡山(その3)。三等三角点とサイレン塔。後ろの円塔は太平洋戦争の際、空襲警報を鳴らした施設らしい。やはり近代建築遺産。
船岡山(その4)。ここからの眺望は素晴らしい。天王山や男山、そして生駒山までくっきり見える!
船岡山(その5)。さらに京都タワーや京都駅も!晴れたら東寺や伏見城も見えるそうです。
船岡山(その6)。平安時代に、清少納言が枕草子の中で「岡は船岡」と言ったというのも、この景色があったからなのでしょうね。
船岡山(その7)。ここには織田信長を祀る武勲神社もあります。明治天皇の命により作られた比較的新しい神社です。なぜここにあるのか、明治の日本を考えると面白い。
船岡山(その8)。やはり異界でしたね、船岡山は。平安京遺跡から近代建築遺産まで、特異な歴史が詰まっていました。
では船岡山を出て、また千本北大路交差点の方へ向かいましょう。
蓮台野への道を歩く(その1)〜京都の葬送地~
かつて京の人々は、死人が出ると、周縁の山すそに死体を捨てていました。
そこは葬送地と呼ばれ、特に大規模だった3箇所を三大葬送地と言いました。
清水寺のある"鳥辺野"と、船岡山の西側の"蓮台野"、嵯峨野の先の"化野"です。
今回はそのうち「蓮台野へ死体を葬送した道」を歩いてみたいと思います。
スタートは千本今出川交差点。そこはかつて平安京の内と外の境い目でした。
そこから"千本の卒塔婆"が並んでいたという千本通りを通って北大路交差点へ。
ではスタート!と言いたいところですが、近所に強力な魔界があるので、
まずはそちらに寄り道していきましょう。
北野天満宮へ寄り道
という訳で、北野天満宮からスタートします。怨霊、菅原道真を祀る神社です。
北野天満宮(その1)。楼門。北野天満宮はどの建物も凄いけれど、これは本当に巨大で圧倒されます。
北野天満宮(その2)。絵馬所。元禄年間に建てられました。ちなみに北野天満宮は全国にある天満宮の総本宮です。
北野天満宮(その3)。社殿。安土桃山時代に建てられた桃山様式の建物です。国宝。
ところで北野天満宮は、菅原道真の怨霊が祟りとなって、京の人々を苦しめたため、その鎮魂にと建てられました。
怨霊には怨霊をもって鎮めよ!今でも怨霊に苦しめられてる人は、ぜひここにお参りして怨霊鎮魂をしましょう。
御土居とは豊臣秀吉が造った"京を守る防御壁"。京都を一周する土塁の事です。
北野天満宮(その5)。御土居は大部分が壊されているのですが、このエリアだけはかろうじて残されています。
北野天満宮(その6)。北野天満宮境内には梅林と日本庭園があります。行ってみましょう。
北野天満宮(その7)。小川の流れが美しい。ここで色々な行事が行われるらしい。
上七軒へ寄り道
上七軒。こんな強力な "異界" がある以上、寄らない訳にはいきません(笑)京都を代表する五花街の一つです。
上七軒(その2)。昔は"精進落とし"という風習があったので、大きな神社仏閣の隣には大抵、花街がありました。
花街つまり"芸妓や娼妓と遊ぶ場所"ですから、これはもう非日常的な場所。すなわち"異界"と言って良いでしょう。
上七軒(その3)。桃山時代にできた"京都で一番古い"花街です。昔ながらの趣ある建物が数多く残されています。
祇園や先斗町より観光客も少ないので、静かにゆったり回れるのも良いですね。路地歩きも楽しいですよ。
上七軒(その4)。歌舞練場。祇園や先斗町の歌舞練場と同じように近代モダン建築です。夏はビアガーデンをやるらしい。
上七軒(その5)。郵便局も凄い。町家造りです。
ようやく上七軒を出ました。今度こそ千本今出川交差点へ!と言いたいところですが、まだ隣に千本釈迦堂という 強力な"異界" があった!
千本釈迦堂へ寄り道
という訳で、千本釈迦堂に向かって歩き始めたのですが、すぐにこんな建物のラーメン屋さんを発見。
古い町家をリノベーションしたようです。さすが京都!こんな建物が至るところにありますね。
続いてこんなお店も発見。染み落とし店だそうです。よく考えたら、ここは西陣の外れに位置しています。なので染織関係のお店があるのも当然かもしれせん。
これは凄い! "機織り機を作る専門のお店" !こんなのがあるとは驚きました。さすが西陣!
ようやく千本釈迦堂に到着。ここは京都最古の建物がある、という由緒あるお寺です。
千本釈迦堂(その2)。本堂。京都の歴史に関する古典的名著の「京都千年の歴史」(岩波新書)という本にも、冒頭でわざわざ「屋根の曲線美が美しい」と紹介されています。
千本釈迦堂(その3)。不動明王も祀られていたのでお参りしておきましょう。
千本釈迦堂(その4)。ついでに境内にいた可愛いネコも撮影!お見送りでしょうか。
鳥辺野への道を歩く(その3)〜京都の葬送地~
清水坂を上る
観光客用の巨大駐車場のある辺りから、道の名前も「清水坂」に変わるようです。
観光客も俄然増えてきます。有名なので仕方ない。では上がっていきましょう。
五条坂から上ってくる道との三叉路に到着しました。路線バスで清水寺に来る観光客は、この道を上ってきます。
ここからまた一段と混むようになりました。修学旅行生もめちゃくちゃ多いぞ。
産寧坂に寄り道
ここでまた産寧坂へ寄り道します。三年坂とも言いますが正しくは産寧坂。
またまた轟川を発見。左側に橋の欄干のようなものも見えますね。
轟川の上流方向。ここはブラタモリで取り上げられたらしい。
轟川の下流方向。案内板までありました。
ちなみに一寸法師がお椀に載って上がってきたのは轟川という説もあります。
また清水坂を東へ
清水坂に戻りました。もはや満員電車なみです。
歩いていくと、すぐ左側に真福寺大日堂。
真福寺大日堂には、東日本大震災の際に流れ着いた陸前高田の松の流木を使って掘られた大日如来坐像が祀られています。
今度は寶徳寺。この道にも次々と古刹が現れますが、誰も見向きもせず上がっていきます。
清水寺に到着
ようやく清水寺が見えてきました。バスガイド、修学旅行生、レンタル着物の観光客・・・
入口手前の右側に、子安塔跡を示す石柱が建っています。移転前の子安塔はここにありました。
子安塔跡石柱をアップ。
江戸時代に書かれた子安観音縁起によると、子安塔の浴室を訪れた癩者の身体を、光明皇后が洗ってあげたところ、仏の姿に変身した、との伝説があります。
この先の「音羽の滝の水によって癩病が治癒する」との伝承まで含めて考えると、まさにここは"癩者(すなわち弱者)を救済するための道"と言えそうです。
では清水寺へ
お参りにいきましょう。清水寺へ。
まずは地蔵院善光寺堂から。
続いて清水寺の舞台。あまりにも有名ですね。
舞台奥にいらっしゃる観音様も拝みました。
この観音様こそ、弱者を救済してくださる方ですね。
清水寺の奥の院
清水の舞台を奥の院から。この風景こそ京都で一番有名ですね。
山をぐるっと回って「音羽の滝」に着きました。音羽川の水源地でもあります。
先に書いたように「この滝の水によって癩病が治癒する」との伝承があります。
まさに弱者救済の到達点でしょうか。でも本当の到達点はまだ先にあります。
という訳で、舞台下を通って、お寺の入り口へ戻っていきましょう。
最終到達地点の大谷墓地へ
あまり知られてませんが、清水寺境内から直接墓地へ抜ける出入口があるのです。
ではこの門扉を通って、広大な墓地へ行きましょう。そここそ実は到達点でした。
本当に驚くほど広大な墓地が広がります。清水寺のすぐ隣がこうなってるなんて、ほとんどの観光客は知らないと思います。
鳥辺野の葬送地
この鳥辺野で葬送にまつわる仕事をしていたのは清水坂非人と呼ばれた人たち。彼らは忌み嫌われる仕事をしていました。
実は、その仕事をさせていたのは清水寺です。
でも逆にいうと、清水寺によって、彼らは安定的な収入を得ることができた、とも言えるわけです。
それどころか清水寺は、葬送に関する仕事の一切の独占権を彼らに与えていたのです。
清水寺は、非人という社会的弱者の生活の保証までしていた事になります。
広大な鳥辺野の葬送地。ここが最終到達地点です。
火葬が一般化するまでは、ただ死体を捨てて、鳥に任せるのみでした。(民族学用語で鳥葬と言います)
やがて、ここに捨てられた死体は、"聖なる鳥"が極楽浄土へ連れてってくれると信じられていました。
音羽川を下る
鳥辺野の墓地の下に、音羽川が流れているので寄りました。
他の人の遡行記を見ると、砂防ダムが幾つもあるらしい。という事は頻繁に土石流が発生していたはず。
という事は下流で扇状地も形成していたはず。しかし今の地図や空撮を見ても扇状地はよく分かりません。
とにかく今後の調査が楽しみです。続いて墓地の隣のお寺に行ってみます。
大谷本廟
大谷本廟です。まったく別世界に入ってきたよう。
大谷本廟(その2)。親鸞上人の墓所のある "浄土真宗の聖地" です。
大谷本廟(その3)。敷地内に親鸞聖人由縁の石窟がありました。
大谷本廟(その4)。では石畳の道を歩いて、下界へ戻りましょう。
寄り道しまくった "鳥辺野への道" も、これで終了になります。
鴨川松原橋から清水寺まで通常30分のところ、寄り道しまくったので4時間もかかってしまいました。
最後にもう一度言っておきたいのは清水寺のこと。観光客であふれ、誰もが一度は行った事もあると思います。
しかし、この有名寺院が、実は "弱者救済の寺" だったという事は、ほとんど知られていないと思います。
それも、癩者や非人など歴史上黙殺されてきたような社会的弱者。彼らを救済するのが清水寺の役割でした。
かつて、ただの観光地として行った人も、ぜひそういった視点で、もう一度、清水寺を訪ねてみませんか。
〜 終わり 〜
鳥辺野への道を歩く(その2)〜京都の葬送地~
松原通を東へ
また松原通に戻ると、すぐに不思議茶屋バラライカの看板。これは何でしょうか。謎です。
不思議茶屋バラライカ(その2)。正式名称は北向地蔵路地です。入ってみると、一番奥に北を向いたお地蔵さんが鎮座していました。
不思議茶屋バラライカ(その3)。ここにも弓矢町と書かれた看板がありました。
なお、弓矢町と名付けられる前は、坂町という名前だったことが分かっています。
"坂の者"と呼ばれた非人の集住地だったからです。町ではなく"坂"に住む者たち。
町と山の境界に位置する坂はまさに異界。常民の住む場所ではありませんでした。
六道の辻
さらに西へ歩くと「六道の辻」の石柱。実はここから六道珍皇寺にかけてが「六道の辻」でした。
この世とあの世の境い目で、地獄道や餓鬼道などの六道のどこに行くかが、ここで選別されます。
では西福寺にお参りしましょう。
西福寺(その2)。空海の創建と伝わる由緒ある古刹です。
六波羅蜜寺へ寄り道
西福寺の隣には六波羅蜜寺。平清盛像が安置されてます。有名なお寺で観光客も多い。
六波羅蜜寺(その2)。この地に、平安時代は平家の屋敷があり、また鎌倉時代は六波羅探題がありました。
何度も何度も戦乱に襲われた場所で、血生臭い歴史を秘めた"魔界"と言えるでしょう。六道の辻に相応しい。
六波羅蜜寺(その3)。ここには空也上人像が安置されています。口から六体の阿弥陀仏を吐き出している姿は有名ですよね。
パッと見ると何とも不気味な姿です。でも実は有難いお姿と言えます。
幽霊子育て飴
六道の辻には、有名な「幽霊子育て飴」のお店があります。
幽霊子育て飴(その2)。幽霊が赤子に飴を与えるために、夜な夜な買いに来た、という伝説。そんな話が生まれるほど、この地は幽霊と繋がり深いと言えます。
次々と現れる路地
また松原通に戻って東へ進みましょう。
西轆轤町と書かれた箱?を発見しました。この辺りは轆轤(ろくろ)町と呼ばれています。
昔は髑髏(どくろ)町だったのですが、江戸時代に轆轤町(ろくろ)に改名されたらしい。
"葬送地"鳥辺野へ死体を運ぶルートで、既にこの地にも髑髏がゴロゴロ散乱していたから、との事。
次々と路地が現れます。京都は必ず標識を出すのでしょうか。ここは松月小路。何とも風雅な路地名ですね。
笑い路地。ここは何なのでしょう?
ハッピー六原。もちろん六波羅から取ったのでしょう。六つの波羅蜜という意味。
ろくろ小路。やはり轆轤町ですね。
小野篁と閻魔大王を祀る六道珍皇寺
六道珍皇寺に到着。延暦年間創建と伝わる古刹です。
ここにも「六道の辻」の大きな石碑がありました。
中に入ってみましょう。
六道珍皇寺(その2)。入るとすぐ右側に閻魔堂。ここに小野篁と閻魔大王が祀られています。
六道珍皇寺(その3)。まずは小野篁(おののたかむら)。現世と冥界を行き来して、閻魔大王を補佐した冥官です。
ところで小野篁像は、僕の知る限り京都では三体あり、これはそのうちの一つ。
(他は、蓮台野の千本閻魔堂と、嵯峨野の薬師寺。どれも葬送ルートに該当します)
六道珍皇寺(その4)。こちらは閻魔大王。言わずと知れた冥界の支配者です。
六道珍皇寺(その5)。本堂です。ここは京都のお盆の風物詩の「六道参り」で有名。
先祖の精霊を迎えに行く行事で、祇園祭と大文字の間は、ここに列が続くらしい。
六道珍皇寺(その6)。最近発見された「黄泉がえりの井戸」。真ん中奥に蓋だけ見えています。小野篁がここから"黄泉の国"に通っていたらしい。
東大路通を越える
東大路通に到着。昔は東山通と言ってましたけどね。
さすがかつて市電が走っていただけあって幅が広い。
そのまま横断して、松原通を進んでいきましょう。
すぐにお地蔵さん。
そして石柱。おそらく道標だと思われます。
この辺りから先が清水4丁目で、神護寺がどこかにあったらしい。
今はもう無くなりましたが、神護寺も癩者の救済施設だったようです。
この先の子安塔跡も含めて、まさに松原通は"癩者救済の道"でした。
左側に日體寺。江戸中期創建という日蓮宗のお寺です。
日體寺(その2)。中は入れなかったので門前から撮影。
八坂塔へ寄り道
少し寄り道をして八坂塔の方へ行ってみましょう。
道の上に橋が掛かっています。大正11年に造られたという古い鉄筋コンクリート橋らしい。
そこに大漸寺というお寺がありました。やはり江戸時代の創建という古刹です。
轟川に到着しました。右側の錆びた門扉のある所を、右から左へ横断しています。
轟川(その2)。右側を望む。マンホールからかなりの水音が聞こえたので、相当な流量なのでしょう。
轟川(その3)。今度は左側。いつか"轟川を歩く"を実行してみたい。
八坂の塔に到着。この辺りが一番京都らしいかもしれませんね。
「五重の塔」と「石畳の道」といえば、高石友也の「街」という歌を思い出します。70年代の京都の学生生活を歌った名曲です。
すぐ左側に、八坂庚申堂。今やインスタでブームになってしまいました。
その向かい側に、下河原通。この道沿いに、轟川と菊渓川の河原があったから名付けられたらしい。菊溪川の河原には菊達菊が咲き乱れていた、とのこと。
ところで、この道を北上すると八坂神社の楼門に着きます。一般的には四条通の突き当たりの楼門が有名ですが、実はこちらの楼門こそ正面玄関でした。