明治維新の舞台となった京都。多くの歴史的事件がこの街で起きた。薩摩・長州や新撰組などが暗躍し、坂本龍馬もこの街で亡くなった。
今回は西陣周辺を回る。この辺りには薩摩藩に関わる史跡が多い。なぜ木屋町ではなく、西陣だったのかも、おいおい語っていきたい。
※「明治維新を歩く」と言っておきながら、それ以外も寄り道しまくる事、あらかじめご了承いただきたい。異界があれば寄る主義なのだ。
まずは浄福寺から歩き始める
浄福寺(その1)。慶応3年、島津久光は薩摩藩士700名を連れて京都に入った。その際、二本松藩邸だけでは収容しきれなかったので、このお寺を借り上げて駐屯所とした。
浄福寺(その2)。この大伽藍は本堂で、享保年間の建立という。京都市指定有形文化財。その巨大さには本当に圧倒される。
さて、ここに駐屯した薩摩藩士達は、浄福寺党と呼ばれた。去った後に見たら、あちこちに試し斬りの痕が残っていたらしい。
せっかくなので他の建物も見て回ろう。
浄福寺(その3)。こちらは地蔵堂で、やはり京都市指定有形文化財。小さいお堂だが風情があって良い。
そもそも、お寺自体の開創もかなり古く、奈良時代末期まで遡るという。実に、平安京造営前の話だ。
浄福寺(その4)。この鐘楼も古く、寛永5年の建立というから、江戸時代初期になる。もちろん京都市指定有形文化財。
浄福寺(その5)。三間堂の釈迦堂は、江戸時代中期の建立という。やはり京都市指定有形文化財。次々とこんな建物が現れて、本当に凄いね。
浄福寺(その6)。護法大権現を祀っている護法堂。ここだけ世界感が違うようだ。
天明の大火の際、天狗が降りてきて、火を消してくれたという。それ以来、仏法を護ってくれる守護神(護法大権現)として、ここに天狗が祀られているらしい。
浄福寺(その7)。お寺の東方を護る赤門。遠くからもひときわ目立つので、浄福寺は別名「赤門寺」とも呼ばれるらしい。
それにしても、立派な伽藍の多い見事なお寺だった。それほど有名でもないのに、こんなお寺が普通にあるなんて、京都は本当に凄い。
ではここを出て、堀川通へ向かおう。
堀川通を南下する
やがて堀川通に到着した。ここから南へ歩こう。
南へ歩くとすぐに、安倍晴明を祀る晴明神社が現れる。ここは「安倍晴明を歩く」で訪問するので、今回は鳥居のみ。それにしても五芒星が目立つね。
その南側には一条戻橋。ここも「安倍晴明を歩く」で詳しく説明するので今回は通過。
第一堀川橋
一条戻橋から南の方を見ると、見事な石橋が見えた。近づいてみると、明治6年に造られた第一堀川橋とのこと。これは本当に素晴らしい。
第一堀川橋(その2)。下まで行ってみよう。本来は全円型(半円ではなく完全な円形)なのだが、下半分が埋め立てられて、半円型アーチ橋にしか見えない。全円を見てみたかった。京都市指定有形文化財。
第一堀川橋(その3)。橋の前後は、せせらぎと遊べる親水コーナーになっている。
ところで堀川は、平安京造営時に運河として造られたものだが、戦後になって下水道の整備により涸れ川となっていた。それを近年、琵琶湖疏水の水を引き込んで、復活させたものだ。市民運動の成果もあったらしい。
堀川通からさらに東へ
第一堀川橋から東へ進むと、すぐに良い感じの町家がある。大正時代か昭和初期か分からないが、風情あふれる町家だ。京都は本当に素晴らしい。
その東側に「長宗我部はま子バレエ学園」という建物。立派なビルだし、きっと名のあるバレエ団だったのだろう(長宗我部はま子さんもきっと有名だったのだろう)。ただ残念ながらすでにやっている様子は無し。1階の居酒屋だけが営業しているようだ。
会津藩洋学所跡
この辺りは会津藩主松平容保公の勤めていた京都守護職上屋敷に近い。そのせいか会津藩の関わる史跡が出てくるようになる。
会津藩洋学所跡(その1)。元治元年(1864)、会津藩士、山本覚馬はここ長徳寺に洋学所を開設した。禁門の変(蛤御門の変)のあった年だ。
山本は会津藩士のみならず、京都にいる多くの諸藩士に洋学を教えて、京都に洋学の新風を巻き起こした、と言われている。
会津藩洋学所跡(その2)。山本覚馬は、NHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロイン新島八重の兄だ。彼はここで、英語と蘭学を教えていたらしい。
明治に入ると、山本は新島襄と協力して、同志社大学の創設に力を尽くした。さらに京都府議会の初代議長にも就任して、京都の近代化に貢献したという。
新町通を南へ
新町通は、かつて京の南北を結ぶメインストリート。平安時代から江戸時代まで、商業の中心として栄え、祇園祭の山鉾が幾つも並ぶ山鉾町だった。
明治時代に京都駅が出来てから、メインストリートは烏丸通に移った。ただ、今も京都府庁や警察本部など、政治拠点が並ぶのは、その名残だろう。
まずは京都ブライトンホテル。平安時代の頃は安倍晴明の屋敷があった所と言われている。「安倍晴明を歩く」で詳しく紹介するので、ここは眺めるのみにとどめる。
ブライトンホテルから南へ歩くと、すぐにこんな建物が現れる。立派な蔵造りの建物が何棟も連なっているようだ。一体何だろう。
南へ回り込むと判明。お醤油屋さんだった。もろみとか澤井本店とか書いてある。後で調べると、明治12年創業の澤井醤油本店というらしい。
雰囲気は素晴らしい。それにしても、京都は江戸時代の創業が余りにも多いので、明治12年だと何だか新しく感じる(笑)
そのまま南へ歩くと京都府警察本部。この左側は京都地方検察庁だ。この奥の京都府庁や右側の近畿農政局も含めると、まさに京都の政治拠点という事が分かる。
さて何か説明看板があるので見てみよう。
平安京左京一条三坊二町跡とある。平安京時代の遺跡らしい。さらにここには室町時代の上京惣構でもあったというから、重要な場所だった訳だ。
では南側の京都府庁へ向かおう。
京都守護職上屋敷跡
京都府庁の敷地内に入った。府庁舎自体も近代建築だが、それは後で見るとして、まずは会津藩主松平容保公が勤めた京都守護職上屋敷跡の碑から見てみよう。
京都守護職上屋敷跡の石碑。今さら言うまでもないが、京の治安維持のために幕府から任命された会津藩主松平容保公の勤めた場所。現在の京都府庁全体の敷地がそうだったらしい。相当広かった。
その奥の方で工事中なのは、旧京都府警察本部だった建物。ここに文化庁が移転してくるので、耐震工事をしているという。
京都府庁旧本館
せっかくここまで来たら入らない訳にはいかない。明治37年に建てられた京都府庁旧本館だ。国指定重要文化財。
京都府庁旧本館(その2)。外観はルネッサンス様式の威風堂々とした建物。これを設計したのは、明治建築界の巨匠、辰野金吾の弟子である松室重光という。
京都府庁旧本館(その3)。本館は移ったものの、現在も現役の府庁舎として、執務し続けられている、というのは凄い。府によると、現役の官公庁建物としては日本最古のものらしい。
京都府庁旧本館(その4)。柱間の優雅な曲線(アール)が美しい。そして真正面には階段。僕は他のところでも言ったが、洋館の一番の見どころは、階段だと思っている。
京都府庁旧本館(その5)。階段の勾配は、緩やかであればあるほど、優美さが感じられる。その階段をゆっくりゆっくり降りてくる貴婦人や貴公子の姿を想像したら良い。
京都府庁旧本館(その6)。廊下も厳かだ。左側に見える"上下上げ下げ窓" も良い感じ。そこから漏れてくる陽光は美しい。
ではここを通って、旧議場の方へ向かおう。
京都府庁旧本館(その7)。旧議場も美しい。まるで中世ヨーロッパにいるかのようだ。明治の日本が古典主義に憧れていた、という事が伝わってくるだろう。
京都府庁旧本館(その8)。旧議場はイベント会場としても使えるらしい。京都の伝統産業の発信や普及などに限定されるらしいが、大いに使い倒してもらいたいものだ。
京都府庁旧本館(その9)。それにしても京都は近代建築が多い。ここはその頂点ではないか。
そんな思いで、京都府庁旧本館を後にした。ここからは西へ歩いて、御所の方に向かおう。
京都平安女学院と聖アグネス教会
西へ歩くとすぐに平安女学院が現れる。そこに建つのは昭和館と聖アグネス教会という二つの近代建築。どちらも素晴らしい。
まず目に飛び込んできたのは昭和館。昭和4年築という歴史的建造物だ。校舎として今も現役で使われているらしい。国登録有形文化財。
昭和館(その2)。設計したのはアメリカ人建築家のJ.V.Wバーガミニー。そして構造設計は、あの内藤多仲だという。東京タワーや通天閣の設計で有名な建築家だ。
続いて物凄い建物が現れた。明治31年に建てられたという聖アグネス教会だ。設計はアメリカ人建設家ジェームズ・ガーディナー。
聖アグネス教会(その2)。建築当時は「聖三一大聖堂」と呼ばれていたが、大正12年から聖アグネス教会と呼ばれるようになったという。京都市指定有形文化財。
聖アグネス教会(その3)。その重厚なレンガに圧倒される。ちなみに敷地内にも明治館という名のレンガ建築があるらしい。そちらは国登録有形文化財。
聖アグネス教会(その4)。教会建築というと窓に注目したい。ここも縦長窓やバラ窓などどれも凝っている。御所の向かいという立地も絶妙で、ある意味京都らしい。
烏丸通を北上する
ここから御所に沿って「烏丸通」を北上しよう。目指すは蛤御門。だが途中で色々面白いものが現れてしまう。
有栖川宮旧邸(その1)。まず現れた立派な門は、有栖川宮旧邸の青天門。大正期に作られたもので、国登録有形文化財になっている。現在は平安女学院の所有らしい。
有栖川宮旧邸(その2)。有栖川宮といえば、明治維新で2回ほど名前が出てくる。一つ目は、皇女和宮の婚約者としてだ。徳川家に無理矢理降家されせられた和宮は有名だが、元々は有栖川宮と婚約していた。
二つ目は、戊辰戦争における新政府軍の総大将としてだ。新政府軍といえば西郷隆盛が有名だが、実は総大将は有栖川宮だった。西郷が江戸に入って、無血開城の交渉をした際も、有栖川宮は駿府に待機していた。
続いて護王神社が現れる。和気清麻呂を神として祀る神社だ。和気清麻呂といえば、平安京の造営を任されたり、道鏡事件で皇統を守ったりと、八面六臂の大活躍をした官僚のトップ。
それより猪神社の呼び名の方が有名だろう。狛犬の代わりに猪を置いてあるところから、そう呼ばれるようになったらしい。今では境内各所に猪にまつわるものが置かれている。
蛤御門
ついに蛤御門に到着した。禁門の変(蛤御門の変)が余りにも有名だ。
長州藩士が決起して御所を来襲したのだが、対する会津藩や薩摩藩が守りきった事件をいう。いや事件というより内戦だが・・・。
御所の周囲で市街戦となったが、一番激しい戦闘だったのが蛤御門。以後、長州藩は朝敵となり、長州征伐へと進んでいく事になる。
蛤御門(その2)。例によって石碑が建っている。今の蛤御門は、明治10年頃に移設されたもので、それ以前は今よりも30mほど東側に建っていたという。ちなみに正式名称は新在家御門で、蛤御門というのは通称らしい。
蛤御門(その3)。当時の弾痕が今も残っている。しかも何ヵ所もあった。この市街戦で戦火が飛び火し、京都市街の大半が焼けてしまうという被害にあった。約3万戸が焼失したという。
中立売御門と乾御門
蛤御門を出て、そのまま御所に沿って北上しよう。
北へ歩いていくと中立売御門が現れる。ここも禁門の変の舞台だ。
元々筑前藩が守っていたのだが、長州藩はそれを突破して御所内へ侵入。しかし乾門を守っていた薩摩藩が駆けつけると形勢逆転。長州藩は敗退してしまった。
この戦いで結局、久坂玄瑞や真木保臣といった、名のある志士まで死んでしまった。
次に見えてきたのは、あの有名な「とらや」。室町時代の創業という "超" 老舗の和菓子屋さんだ。
今は東京に本店があるが、元々はここが創業の地だった。室町時代より、天皇の要望に応じて御所に納めていたというが、御所の隣というこの場所なら近いので便利だ。
明治維新で天皇が東京に行ってしまうと、とらやもお供して東京に行った、というのは有名な話だ。
二本松薩摩藩邸
ついに二本松薩摩藩邸に到着した。その広大な敷地は今、同志社大学になっている。近所に薩摩藩士墓所があるなど、まさに薩摩藩の"縄張り"みたいな場所だ。
烏丸今出川交差点の右側に、唯一の名残りとも言える門が残されている。周囲はレンガ造の近代建築が多いのに、ここだけ異質だ。まぁそれも京都らしいと言えるが。
烏丸今出川交差点の角に地下鉄今出川駅。要するに烏丸通と今出川通の交差する交通の要衝という訳だ。そして、この交差点の南側は天皇のおられた御所。北側は薩摩藩邸。今出川通を挟むだけで、非常に近い。
これで、薩摩藩がなぜここに藩邸を築いたかが分かるだろう。御所の守り役になりたかったに違いない。土佐藩や長州藩等とは、考え方が違ったのだ。幕末における薩摩藩の立ち位置が突出していたのも頷ける。
烏丸今出川交差点の北側に同志社大学の西門。その脇に二本松薩摩藩邸跡を示す石碑と駒札がある。それを読むとかつては相国寺だったらしい。
さて、明治時代になると、一旦国有地になるが、払い下げで、元会津藩士の山本覚馬が買い取った。先ほど名前の出た会津藩洋学所の山本覚馬だ。
その後、山本は新島襄と出会い、思いを共有すると、自分の敷地を新島に譲る。また同志社の名前も彼が考えたらしい。そんな経緯で同志社はできた。
石碑の向こう側は同志社大学。今も言ったように新島襄が明治に作った大学だ。この中は驚くほどの近代建築の宝庫で、重要文化財が目白押し。本当は何時間もかけて見てまわりたい。ただ今回は明治維新が主題なので、残念だが中は回らない。次回を期したい。
西門の向かい側を見ると、いかにも学生街という感じ。昔ながらの喫茶店や、古本屋さんなどが、軒を連ねている。何だか早稲田通りを見ているようだ。
相国寺へ
続いて相国寺の入り口が現れる。室町時代を築いた足利幕府にとって、無くてはならない寺だ。御所の北に作った、というのが特に重要らしい。天皇よりも上に位置する、という立地になるからだ。
また、その敷地の半分以上を薩摩藩に貸し与えた、というのも重要だろう。勤王派だったのだろうか。そして薩摩藩墓地もすぐ近所にある。この一帯は薩摩にとって、極めて重要な場所だと言える。
相国寺(その2)。早速相国寺の建物を見て回ろう。これは経蔵。安政7年の築という。京都五山を代表するお寺というが、なるほど禅宗様式だ。
相国寺(その3)。こちらは本堂。慶長10年に建てられたという。もちろん国指定重要文化財。京都五山というのは、鎌倉五山にならって作られた、足利時代の文化だ。
相国寺(その4)。この鐘楼も美しい。天保14年の築という。京都は公家文化と思われがちだが、こうしてみると武家文化も濃い、というのが伝わってこないだろうか。
薩摩藩士墓所
相国寺を東へ進むと薩摩藩士墓所に到着する。戊辰戦争で亡くなった藩士のお墓だ。
薩摩藩士墓所(その1)。せっかく来たというのに、鉄扉があって中に入れない。何故だろう?仕方ないので外からお参りする。
それにしても、霊山墓地にある長州藩士のお墓や土佐藩士のお墓は、誰でもお参りできる。なぜ薩摩藩だけお参りできないのか?
かつて鹿児島に住んでいた頃に言われていた「鹿児島県民は身内に甘いがヨソモノに冷たい」という言葉が浮かんだ。まさかね。
ここでさらなる疑問がある。なぜ薩摩藩だけ霊山墓地にないのだろうか。他藩のお墓は、ほとんど霊山墓地にあるというのに。
西南戦争で朝敵になったからだろうか。いや違う。霊山墓地は明治元年に勅命で整備されたもの。西南戦争よりもっと前だ。
もちろん近所に薩摩藩邸があった事もあるだろう。だがそれなら他藩だって藩邸近くにあったはず。実際はほぼ霊山墓地だ。
僕が考える理由は、"我が道を行く薩摩" という強烈な自意識がそうさせたのではないか。他とは違う、という意識。どうだろう?
再び烏丸通を北上する
ここでまた烏丸通に戻る。すると藤井右門宅跡という石碑と駒札があった。
藤井右門というのは江戸中期の尊王思想家。皇学所教授として公家に尊王論を説いた。だが幕府に捕らえられ処刑されたという。
幕末になると、その旧宅は、近所に薩摩藩邸があった関係から、勤王志士達の会議・連絡所として、大いに活用されたという。
やはり薩摩藩が関係する会議だけは、木屋町近辺ではなく、飛び離れた場所で行われたのだ。長州藩や土佐藩などの会議は、大抵木屋町近辺だったというのに。本当に薩摩の"独立独歩"の精神は徹底されてるな、と感心する。
今度は寺之内通を西へ
やがて寺之内通が現れるので左折する。妙蓮寺を目指すのだが、また途中で色々なものに出会ってしまう。
まずは泉妙院。妙顕寺の塔頭で、尾形光琳や尾形乾山の菩提寺だという。
泉妙院(その2)。ここが尾形光琳、尾形乾山兄弟の墓所らしい。全然知らずに来たので、こんな有名人の墓所があったことに驚く。
続いて妙顕寺。鎌倉時代創建という古刹で、京都初の法華道場らしい。山門にも「門下唯一の勅願寺」と書かれている。天皇の発願により建てられたお寺という意味だ。
妙顕寺(その2)。こちらは本堂。天保年間の建立という歴史的建造物で、京都府指定有形文化財に指定されている。豊臣秀吉は、本能寺の変の後、しばらくこのお寺を拠点にしていたという。
お茶の町
そのまま寺之内通を西へ歩いていくと、急に茶道具の店が増えてくる。何かと思ったら、ここは"お茶の町"だった。
右側に、中を窺い知れない邸宅が現れる。表札を見ると「千」とある。まさに千さんの家だ。この奥には、重要文化財の裏千家 茶室「今日庵」や表千家 茶室「不審庵」がある。
さらに周囲には、表千家茶道会館や裏千家茶道専門学校、茶道総合資料館など、お茶にまつわる建物が数多く建っている。本来ならじっくり見て回るべきだが、今回は割愛する。
街全体の雰囲気も素晴らしいので、いつか必ず再訪したい。
今度は宝鏡寺というお寺。立派な山門に驚くが、聞くと鎌倉時代創建の古刹という。しかも皇女が入寺する尼門跡寺院だった。なおこの門は寛政年間の建立で、京都市指定有形文化財。
宝鏡寺(その2)。こちらの本堂も寛政年間の建立で、やはり京都市指定有形文化財。
ところで、このお寺は皇女が入寺するたびに、御所より人形が贈られたという。そのため貴重な人形を数多く所蔵しており、上の山門の写真に「春の人形展」とあるのは、その公開行事のこと。
また人形供養が行われたり、境内に人形塚があったりすることから、通称 "人形の寺" とも呼ばれているらしい。
妙蓮寺
さらに西へ歩くと、ようやく妙蓮寺に到着した。ここは薩摩藩にかかわるお寺だ。
妙蓮寺は鎌倉時代の創建という古刹。この山門も寛政年間の建立という歴史的建造物だ。
さて、薩摩藩は禁門の変以後、ここを "野戦病院" として使っていたという。薩摩藩邸から近かったからだろう。
妙蓮寺(その2)。この美しい建物は鐘楼。やはり寛政年間の建立という。
禁門の変では、追われた長州藩士がここに駆け込み、居合わせた薩摩藩士との間で、一戦交えたという。その時の刀傷が、このお寺の柱に残っているらしい。
妙蓮寺(その3)。この本堂も寛政年間の建立という歴史的建造物。
元々妙蓮寺は別の場所にあったのだが、豊臣秀吉が現在地に移転させたという。秀吉はお寺の再編に力を入れたので、その一環だったのだろう。
妙蓮寺(その4)。この庫裡もやはり寛政年間の建立。
寺之内通には由緒ある古刹が軒を連ねている。どれも巨刹ばかりなのだが、あまり知られていないようだ。もったいない。
烏丸通を北上する
また烏丸通に戻って、さらに北上を続けよう。目指すは最後の目的地、小松帯刀寓居跡だ。
という訳で烏丸通を北上する。この先に小松帯刀寓居跡がある。今さら説明するまでもないが、小松帯刀は薩摩藩家老にして、最高実力者だ。
世間的には西郷隆盛の方が有名だが、藩内の実力では圧倒的に小松の方が上だった。しかも坂本龍馬とも親しく、小松無くして坂本も無かった。
つまり薩摩藩の命運を握っていたのは小松であり、もっと言うなら、日本の命運を握っていたのも、小松と言える。その屋敷で行われたのは・・・
鞍馬口に到着した。左折して、この道を進むと石碑がある。だが実をいうと、ここも既に小松帯刀寓居跡なのだ。とても広かった。
元々、この辺り一帯には近衛家の別邸があり、その美しさから「御花畑屋敷」と呼ばれていたという。そこには水の流れる美しい庭園や、水路にかかる水車まであったらしい。総面積は約1800坪という広さだ。
その広大な近衛別邸を薩摩藩が借り上げたが、小松帯刀は自分の別邸のように使っていた。その辺りの詳しいことは、歴史研究家、原田良子氏の近衛家別邸「御花畑」発見の経緯に書かれているので参照されたい。
小松帯刀寓居跡
実は、ここが "発見" されたのは2016年。まだ最近のことだ。発見したのは、上記の原田良子氏。その経緯はすべてネット上にあげられていて、誰でも見られる。
交差点に到着すると、その角に「小松帯刀寓居跡」と書かれた小さな石碑があった。建物の壁にも説明看板のようなものが見える。建物は町家を改造したカフェのようだ。では石碑を見てみよう。
小松帯刀寓居跡(その2)。石碑をアップしてみた。まだ発見されたばかりなので新しい。実はここが発見されるまで、別のところが候補地だった。一条堀川東入で、石碑もあった(撤去済み)。
注意してほしいのは、ガイドブックなどには、まだ古い情報が載っている可能性があること。実際に僕が今年買った本もそうだった(「京都歴史ウォーキング」水曜社)。これだから歴史ものは最新のじゃないといけない、という実例だ。
小松帯刀寓居跡(その3)。石碑をよく見ると「薩長同盟所縁之地」と書いてある。実はここが有名な "薩長同盟" 締結地だった。小松邸に集まったのは、薩摩側が小松帯刀と西郷隆盛、長州側が木戸孝允。そして仲介者の坂本龍馬。
内容は軍事同盟か否かで議論が分かれるようだが、軍事的に支援する件も入っているので、軍事同盟とみて良いのではないか。明治維新のターニングポイントの "一つ" だった事は間違いない。まさにここが、その場所だった。
小松帯刀寓居跡(その4)。建物の横にある説明看板も見ておこう。これは京都歴史地理同考会理事長の中村武生氏が書いたもののようだ。相変わらず氏の文章は固い(笑)。
さて、ここが明治維新の重要地点になったのは、薩摩藩がここを近衛家から借り上げていたからだ。この西陣一帯は薩摩藩にとって、拠点の集まる中枢地帯だった。
近所には、妙蓮寺から借り上げた野戦病院があったし、相国寺から借り上げた京都藩邸もあった。それに薩摩藩士墓所もあった。この西陣こそ薩摩藩の中枢だった。
・・・・・・・・・
さて、そろそろ今回の旅を終わる。この西陣一帯は、薩摩藩の"縄張り"みたいなものだ、と言った意味が分かっただろうか。わずかに会津藩が出てきたが、ほとんど薩摩藩の拠点ばかりだった。
何度も言ったが、長州藩や土佐藩などの他藩は、ほぼ木屋町界隈に集中していた。なぜ薩摩藩だけ飛び離れていたのか。御所に近いから、というのは言った。でもそれだけではない、と思っている。
鹿児島に住んでいた頃よく言われた。「鹿児島の人間は、仲間の絆は大事にするが、ヨソモノには冷たい」 それが関係してないだろうか。だから他藩とは常に距離を置いていたのではないか。
実際に明治維新において、薩摩は常に、我が道を進んでいた。独立独歩の精神。それが京都の街の中にも現れていたのではないか。ぶらぶらと京都の街を歩きながら、そんな事を考えていた。
〜 終わり 〜