~ 菊渓川を歩く(その1)からの続き 〜
ねねの道を南へ
ではポートランド コーヒーの前から、"ねねの道"の南側を見てみましょう。
菊溪川はおそらく右側のマンホールに流入しているはず。今では考えられませんが、昭和40年頃まで京都市は、雨水や山水を下水道に流入させてましたから。
それどころか、小川をそのまま下水道化させてしまったケースもあります。(轟川も音羽川もそう!)この菊溪川も、ここから下水道として流れていく訳です。
では"ねねの道"を南に歩いていきましょう。
ところで菊溪川は、ここから下河原通までのルートとして、二つの説があるようです。
1つ目は、この辺りから圓徳院に入って石塀小路の北端から下河原通へ。2つ目は、現在の石塀小路を通って下河原通へ。そのうち、僕は2つ目の"現在の石塀小路説"を採っています。
理由は、現地に立ってみると分かりますが、勾配が明らかに現在の石塀小路に向かっている事と、大正11年の古地図に描かれた等高線が"昔の菊溪川のルート"を語っているからです。
昔の菊渓川?月真院へ
南に歩いていくと、すぐ左側に月真院。高台寺の塔頭(附属寺院のこと)です。
さて、古地図に描かれた等高線をよく見ると、月真院の庭から石塀小路の方向へ、緩やかな谷間があったようです。
つまり今の流路は、高台寺ができた時か、前身の雲居寺ができた時に、人工的に変えられたものではないでしょうか。
かつてはお寺建設のための流路変更はあったし、それ以前に市街地建設に伴っての流路変更も良くありましたから。
という訳で、月真院の庭も見てみる必要がありそうですね。
月真院に入る前に、門の右側を見てみると、「御陵衛士屯所跡」の石碑と看板。
新選組を脱退した伊東甲子太郎らが作った「御陵衛士」の屯所跡だったらしい。別名「高台寺党」とも呼ばれたとのこと。さすが京都は幕末も舞台になったので、様々な歴史が重層化してますね。
では中に入ってみましょう。立派な入母屋造の伽藍が見えます。
他のブログを読むと、「衝立があって中に入れない」などと書かれていますが、この時は何も無かったので、そのまま入れました。
一番奥に広い庭池がありました。古地図に描かれた等高線の谷間、つまり昔の菊溪川の流れと、ほぼ同じ位置にあります。これは確かに、昔の菊溪川の痕跡かもしれませんね。
余談ですが、土木学会の共同論文「京都神社参道に見る景域構造の変化に関する研究」にも、菊溪川の位置として、この庭池経由の流路が図示されています。考えは同じですね。
三面大黒天に寄り道
ねねの道に戻ると、向かい側に高台寺の塔頭、圓徳院の三面大黒天がありました。ちょっと寄ってみましょう。
三面大黒天とは「大黒天、毘沙門天、弁財天」の3つの顔を持つ仏様。豊臣秀吉が念じ続けた秘仏らしい。
年一度の御開帳日しか拝められない秘宝とのこと。大人気で、ご覧のように行列ができています。
高台寺墓地へ
また、ねねの道に戻ると、今度は高台寺の入口に到着しました。例の高台寺墓地のあるお寺ですね。
ちなみに、この坂道は台所坂と呼ばれているらしい。お寺の庫裏(台所)に繋がるからです。本来の正門はもっと南側にありました。(でも絶好の撮影スポットなので、こちらの方が人気はあるようです)
では高台寺墓地を目指して上がっていきましょう。
高台寺に到着。このお寺は、豊臣秀吉の正室"ねね"が住んでいたお寺です。後々徳川家康により、様々な伽藍や方丈などが建てられました。
高台寺通が「ねねの道」と呼ばれるようになったのも、ねねが住んでいた事に由来します。
ところで高台寺ができる前は、雲居寺というお寺がありました。自然居士が舞を舞う事で有名だったお寺です。応仁の乱で無くなりました。
それはまた後で説明するとして、とりあえず、ここは高台寺の奥へ進んでいきましょう。
高台寺の中を歩いていくと、伊東忠太の設計した祇園閣がよく見えます。やはり祇園のランドマークらしいですね。
やがて墓地入口に到着しました。入っていきましょう。
すぐに広大な高台寺墓地が広がりました。
といっても、遠くの斜面の墓地は、先ほど歩いた東大谷墓地です。では坂道を降りていきましょう。
あの石材屋さん!
するとどうでしょう。見覚えのある赤い鉄骨!あの石材屋さんの下に到着しました。
見事に繋がりましたね。この上は、あの石材屋さん。そして、この下が菊溪川です。
そして下流側を見ると・・・、左側に菊乃井本店が見えます。さらに遠くに、小さくシートの掛かった車も見えているのが分かりますか?
ではもっと近づきましょう。
菊溪川が暗渠となって地下に入っていく!バッチリ見えていますね。やはりあの鉄板の下を通って向こうへ抜けているようです。ここまで来た甲斐がありました。
高台寺を歩く
墓地入口に戻ってきました。さて、ここまで来たら、高台寺も見ないとね(笑)
という訳で、本来の順路を進みましょう。
遺芳庵。江戸時代に建てられた茶室です。明治期に現地に移築されたものらしい。前面の枯山水庭園とともに見応えがあります。夜もきっと美しいに違いない。
観月台と開山堂。桃山時代に建てられた美しい回廊です。国指定重要文化財。ここから月を眺めると、本当に美しいでしょうね。
傘亭。こちらも桃山時代に建てられた茶室です。国指定重要文化財。天井板の無い素朴な造りは、"侘び寂び" の極地かもしれませんね。
時雨亭。やはり桃山時代に建てられた茶室です。国指定重要文化財。珍しい2層式の茶室で、1階が水屋と待合、2階が茶席らしい。
それにしても高台寺庭園にある建物は、本当にどれも素晴らしいですね。古い建物好きにはたまりません。
敷地内には美しい竹林も残されています。これも京都らしく良い感じですね。
ところで"ねね"は、美しい舞を舞う若い女性を集めて、このお寺の周辺に住まわせました。老後を優雅に過ごすための、"自分だけの理想郷"を作りたかったようです。
山には菊溪菊の黄色い花が咲き乱れ、竹林の中には幽玄な茶室。そして眼前には美しい舞を舞う若い女性達。ここはまさに、竜宮城のような場所だった事でしょう。
ではまた台所坂を降りて、ねねの道へ戻りましょう。
再び、ねねの道
ねねの道を南へ歩くと、すぐ右側にマンホールが現れます。
ここは明治以前の菊溪川の右折点だった可能性があります。なぜから明治の古地図を見ると、右側の建物は無く、道のような記載があるのです。
大正時代に石塀小路が造られる前は、右側一帯は竹藪だったはず。明治以前に下河原通へ抜けるには、ここから右折するのが最短ルートでした。
ただ今は痕跡も無いので、想像を巡らすだけにして、先へ進みましょう。
石塀小路入口を越えて、さらに南側へ進むと、立派な茅葺き門がありました。
高台寺の塔頭、春光院です。見事な茅葺き門は見応え十分!名前も良いですね。
では石塀小路の入り口へ戻りましょう。
石塀小路
石塀小路の入口。下水道となった菊溪川もここから入っていきます。
ところで、なぜ下水道のルートが分かるかというと、京都市下水道局は、ネットに下水道マップを公開しているからです。「スミトン」という名前で、廃河川探索には無くてはならないツール!
今回もスミトンに頼りながら進んでいきます。
早速入っていきましょう。写真の通り、石塀小路はクネクネ曲がっていて、とても不自然な道です。
(例えば花見小路周辺も、明治時代に竹藪を切り開いて造られたのですが、縦横の綺麗な街並みです)
なぜここは不自然なのか。それは自然地形、つまり菊溪川の流路に沿って造られたからではないか。
そう思うのですが、はたしてどうでしょう?
ひたすらマンホールに注目しながら歩いていきます。(はためには、かなり怪しい人でしょうね。笑)
ちなみに京都市に下水道が普及したのは比較的早く、戦前からスタートし、戦後に一層拡大しました。
昭和40年頃までは雨水も流入させていたと言いましたが、今でも約40%は雨水合流式のままなのです。
それは問題も多いのですが、変えられないらしい。ともかく、突き当たりのT字路まで行きましょう。
T字路から右を見ると、また突き当たり。
そこは"明治時代の流路"、つまり石塀小路ができる前の流路と、僕が想定した場所です。
では西側へ戻りましょう。
西へ歩くと、すぐにまたT字路。今度は北へ枝分かれする道があるようです。
それにても石塀小路は、大正時代に富裕層向けの高級貸家街として作られた"奥座敷"だけあって、どこを見ても雰囲気が良いですね。
では北へ分かれる道を見てみましょう。
T字路から北側の道。ここは、ねねの道から下河原通へ抜ける"もう一つのルート"として、先に紹介した道です。
ところでよく見ると、右奥に洒落た赤煉瓦の壁が見えますね。これは圓徳院の壁。明治時代に造られたらしい。
お寺なのに当時の最先端のデザイン。"新しいもの好き"の京都人に相応しい壁と言えるのではないでしょうか。
下河原通
元に戻って、石塀小路の出口に到着。ようやく、ここで下河原通に出ました。
さて、ここから菊溪川はハッキリしています。大正時代の地図にも描かれており、疑う余地はありません。
ところで、さっきから明治の地図とか大正時代の地図とか言いましたが、実はこれもネットに公開されてます。
近代京都オーバーレイマップといって、廃河川探索に無くてはならないツール。今回も大いに役立ちました。
では進んでいきましょう。
下河原通を北から南へ望む。
菊溪川は、ここをクランクする形で西へ進んでいきます(写真では左から来て右へ)。大正時代の地図にも描かれているので間違いありません。おそらく昭和30年代までの間に下水道化されたのでしょう。
上記の"クランク"交差点の南側を見ると今井三絃店(写真中ほどに看板あり)。かつて下河原が花街だった頃の唯一の名残です。
その昔、ねねの集めた舞姫たちは、ねねの死んだ後、「山根子芸者」と呼ばれる"フリー"の芸者となって、この街に住み着きました。
やがて花街となった下河原は、江戸時代には大いに栄えたのですが、明治時代になると祇園に押されて、衰退してしまいます。
今では、この店のみが名残を残している、という次第。ちなみにこの店は、店頭で三味線の製造から販売までしているそうです。
ここでさらに寄り道して、"クランク"交差点からさらに北へ進みましょう。石塀小路の別の入口があるのです。
ここはあまり知られていないし、実は教えたくないような場所・・・。ひっそりとした雰囲気が実に素晴らしい。
入っていくとこの雰囲気。京都は路地が素晴らしい、と言いますが、この路地は別格かもしれませんね。一人静かに散策したい場所です。
下河原通から安井通へ
では"クランク"交差点に戻って、今度は西へ進みましょう。昔の菊溪川の流路を追いかけながら。
すぐにマンホールが現れます。ところで、この辺りは急に段差が激しくなるようですね。道路も急坂になりました。
左右を見てみましょう。
北側を見るとこんな感じ。奥に古い石積みが見えます。断崖だったので、石積みにしたのでしょう。
南側を見るとこんな感じ。階段の所が断崖だったと思われます。
ところで、この断崖は桃山断層ではないでしょうか。四条通の突き当たりの八阪神社前の階段の所も、桃山断層と言われています(ブラタモリでも紹介されました)。その延長がここまで続いている、と考えられないか?はたしてどうでしょう。
ではまた西へ進みましょう。すると道は、正面のT字路に突き当たります。
菊渓川と下水道が分かれる
T字路にやってきました。正面には茶色い板塀が・・・。
大正時代の古地図を見ると、菊溪川はこの茶色い板塀の所を通り抜けているようです(そのまま一直線に建仁寺へ)。
しかしスミトンを見ると、下水道は突き当たりを右に折れて、安井通に入り、そこから一直線に建仁寺へ向かいます。
どうやらここからは、菊溪川を下水道化するより、安井通の下に造った方が、最適だったと判断されたのでしょう。
僕らは過去の菊溪川を追いつつ、オマケで下水道(現在の菊溪川?)も追っていく、という両面作戦でいく事にします。
茶色い板塀の下をアップしました。ここが過去の菊溪川の痕跡とは驚きですよね。
とはいえ、下水道が整備された頃(昭和20〜30年代?)までは、川があったはずなので、古老に聞けば思い出されるかもしれませんね。
では下水道に沿って右側に進みましょう。
安井通から東大路通へ
すぐに安井通に出ました。このマンホールの下が、現在の菊溪川です。(下水道だけど。笑)
ところで先ほどから、高台寺通や四条通など、"通り"のことを"通"と書いてきました。これは京都独特の書き方で、この安井通りも"安井通"と書きます。
ややこしいのは、"通"と書いておきながら、読み方は"とおり"のまま。なので安井通と書いて、"やすいとおり"と読みます。京都は本当にややこしい。
などと言いながら、安井通を西へ向かいましょう。
すぐに東大路通に到着。さてここからは?
〜 菊渓川を歩く(その3)へ続く 〜