京都の異界を歩く

ちょっと変わった京都の探訪記です

轟川を歩く(その3)〜京都の廃河川〜

~ 轟川を歩く(その2)からの続き 〜

物吉村ルート


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ここから物吉村ルートのスタートです。



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西へ歩くと、すぐ右側(北側)に建仁寺の勅使門。天皇陛下やその使いの者が来た時のみ開けられる "建仁寺の正門"です。



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さらに歩くと禅居庵。鎌倉時代に創建された建仁寺塔頭です。摩利支天を祀るので有名ですね。



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禅居庵の摩利支天堂内部。東京の人なら摩利支天というと上野のアメ横を連想するかな。


大和大路を越える


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摩利支天を出ると、すぐ大和大路通に突き当たります(正面は工事中の新道小学校跡地)。



この道は、左へ行くと奈良街道にも繋がるので(すなわち大和国にも行けるので) 、大和大路通と言われるようになったらしい。



ここを左へ曲がりましょう。

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写真は左に折れた所。轟川はこの先をすぐ右に折れます。(つまりクランクする形で西へ)



なお下水道はすぐ右に折れずに、松原通まで出てから右折します。



僕らは轟川を追って右折しましょう。

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という訳で、右折して西へ入っていく道です。もちろん轟川の物吉村ルートもこの道へ。(右側は工事中の新道小学校跡地)



なぜ昔の轟川の流路が分かるかというと、奈良大学の下坂守教授の論文「中近世の坂の領域と風景」に書かれているからです。

それによると、轟川はこの道を入っていき、この先の物吉村で左折する、との事。享保年間の絵図に、そう描かれているらしい。

では入っていきましょう。


旧物吉村を歩く


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入るとすぐ左側(南側)に拾番小路という狭い路地。京都はこんな路地の多い所が嬉しい。



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ここで右を見ると、新道小学校跡地活用計画の看板。この地域一帯が、いろいろな施設になるらしい。



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新道小学校は宿泊施設になるようですね。このレンガのように、レトロな雰囲気を残してくれたら良いのですが・・・。



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そのまま西へ歩くと、右側に北上する道。

右側の旧新道小学校だけじゃなく、左側の旧宮川歌舞練場も一緒に工事するようです。



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そのまま反対側(南側)を見ると駐車場。実はこの辺りが近世の物吉村です。



それも、下坂守教授の「中近世の坂の領域と風景」という論文で知りました。
そしてここに癩者救済施設の長棟堂があった事も、はっきり書かれています。


安倍晴明を祀る社を訪ねる


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旧物吉村には、今でも安倍晴明を祀る社「セイメイさん」があります(写真一番奥)。
ちょうど駐車場のオーナーさんがいたので、承諾を得て入らせていただきました。



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「セイメイさん」に近づきました。ここが安倍晴明を祀る社(やしろ)であることは、あまり知られてないと思います。



それについては、西川照子「京都異界紀行」で知りました。ただ看板も出てないし、まるで"秘密の社"のようです。

もちろん丁寧に拝ませていただきました。では引き続き西へ向かいましょう。


物吉村から松原通


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西へ向かうとすぐに突き当たるので、左折しましょう。



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左折すると急に道が狭くなります。そして右側(西側)に宮川茶屋街への道が現れます。



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右側の宮川茶屋街へ抜ける道です。既にここも宮川茶屋街の一部のようですね。



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僕らは宮川茶屋街へ行かず、そのまま南へ進みます(もちろん轟川も一緒!)。



ちょうど左側が、清水参詣曼荼羅に描かれていた"癩者物乞小屋"のあった所。
それも、例の下坂論文で知りました。かつて一帯は癩者集住地だったのです。



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そのまま南へ進むと、松原通に突き当たります。これで物吉村ルートは一旦終わり。

もう一つのルートをたどるために、再びホテルセレスティンまで戻りましょう。


愛宕念仏寺ルート


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ホテルセレスティンに戻ってきました。



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ホテルの西隣に路地があります(写真正面)。愛宕念仏寺ルートはここからスタート!では入っていきましょう。



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狭い路地をクランクしながらどんどん進んでいきます(左側はホテルセレスティン)。ここをかつての轟川が流れていました。



ところで、下坂論文では"松原通を轟川が流れていた"という記載はありますが、そこに至るまでの轟川のルートは書かれてない。

ではなぜ僕はルートを想定できたか、というと、下水道の一部がここを通っている事。それともう一つ、大きな理由が!(下記)



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左側はホテルセレスティン、右側は普通の住宅地。



さて大正11年まで右側(西側)には、愛宕念仏寺という大きなお寺がありました。

奈良時代の創建で、平安時代醍醐天皇勅願寺として再建された、という格式あるお寺です(大正11年、嵯峨野に移転しました)。

おそらく、平安時代に再建されたとき、轟川もお寺を迂回するように "流路変更" されたのではないか、と僕は推定しています。

菊溪川と建仁寺の関係もそうでしたね。"お寺建設のために流路を変える"というのは、昔はよくあったのではないでしょうか。


弓箭閣


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マンホールを見ながら進んでいくと、右側に路地。僕らはここを右に曲がるのですが、この道自体はまっすぐ進んで、松原通へ抜ける事ができます。



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さて、右に曲がる角地に町会所が建っています。昭和初期に建てられた"粋"な町屋。祇園祭の際は、ここに武具が展示されるらしい。



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町会所の名前は「弓箭閣」。弓矢町にあるから名付けられたようです。はるか昔、この付近一帯には弓矢を作る職人さん達が住んでいました。


愛宕観音堂


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では弓箭閣を右に折れて、進んでいきましょう。



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すると変わった建物が見えてきました。

これは愛宕観音堂。かつて愛宕念仏寺があった事は書きましたが、移転後も信仰を残すために、地元の方が建てたものです。まさに愛宕念仏寺の唯一の痕跡といえるものでしょう。



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それにしてもコンクリート造というのが面白い。おそらく大正〜昭和初期の築でしょうが、コンクリート造は当時、流行り出したばかりの最先端技術。"新しい物好き"の京都人らしいと言えますね。


松原通


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愛宕観音道の所で左に折れます。



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すぐ右側に古い町内地図が貼ってありました。ホテルセレスティンの所は「中央電話局祇園分局」などと書いてあります。



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松原通に到着しました。(写真は松原通から振り返って見たところ)

入口の右下に小さな石碑があり、「愛宕念仏寺元地」と書いてあります。
まぁ、ゴミステーションと一体化しているのは御愛嬌ということで、、、


松原通を西へ


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松原通を右へ折れましょう。



さて下坂論文では、轟川が道の北端(写真では右端)に描かれていました。大型の側溝みたいな位置付けですね。

当時の側溝は下水道の役割もあり、台所や風呂などからの排水も流れていました。さらに室町時代までは、トイレの排水まで流れていたらしい。



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さらに西へ進みます。かつて松原警察署のあった所にはマンションが建っていました。



ところでトイレの排水って、つまり大小○ですが、それを流すためには大量の流水が必要。そのため側溝の上流は河川から取水していたのです。

これは高橋昌明「京都⟨千年の都⟩の歴史」に書いてあったのですが、平安京建設の際、市内を流れる河川を幾つも分水させて、側溝を造ったらしい。


大和大路通を横断する


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大和大路通との交差点に出ました。ちなみに四条辺りでは、この道が昔の鴨川堤防でしたが、この辺りではもう少し西側になります。



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大和大路通を横断します(写真は南を見た所)。この道は伏見街道渋谷街道に抜けられる幹線道路。今でも交通量は多いですね。



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大和大路通松原通の交差点。かつて、ここの角にはお堂があったそうですが、今は何もありません。


西弓矢町のお地蔵さん


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大和大路通を横断してさらに西へ進むと右側にお地蔵さんが見えます。



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京都は本当にお地蔵さんが多い。夏の終わりごろ地蔵盆という祭りも開かれます。子どものための子どもの祭り。この地蔵盆をもって、"京都の夏は終わる"と言われています。



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お地蔵さんの"囲い"に「西弓矢町」の標識。前も言った通りこの辺りには、弓矢を作る職人さん達が住んでいました。



さて弓矢を作るには、動物の皮を剥いで"なめす"技術が必要です。かつて動物を殺す事ができたのは"非人"と呼ばれた人たちでした。

実は、ここは非人集住地だったのです。すでに平安時代には存在していたと、高橋昌明の前掲書に書かれています。


寿延寺に寄り道


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お地蔵さんと反対側の路地を入ってみましょう。



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入るとすぐ右側に寿延寺というお寺。1616年(元和2年)創建という古刹らしい。入ってみましょう。



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本堂右奥には伝教大師作という油涌大黒天。門前の大黒町通の名前の由来になっています。



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ガチャポン井戸と弁財天。京都では路地に数多く残ってますが、ここも本当に雰囲気が良いですね。


松原通で二つのルートが合流


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また松原通に戻って西へ進みましょう。この先で、轟川の物吉村ルートと愛宕念仏寺ルートが合流します。



ところで、なぜ2ルートに分かれていたか、今まで説明しませんでしたね。

先ほど「平安京建設の際、河川を幾つも分水させて側溝を造った」と言いました。轟川も同じように、下水道として理由するために分水させていた、と考えられます。



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ここが合流地点。右側から物吉村ルートがやってきて、手前からきた愛宕念仏寺ルートと合流、この先へ進みます。


昔の鴨川堤防を越える


さて清水寺参詣曼荼羅によると、この先に木戸があって、そこから先は河原、つまり鴨川の河川敷でした。一体どういう事なのでしょう。


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木戸のあったと想定される所まで来ました。



江戸時代に描かれた清水寺参詣曼荼羅は、寛文年間に鴨川が埋め立てられる前の姿だったのです。

つまりそれまでは、ここが鴨川堤防。轟川もここで鴨川に注いでいた!ここが"轟川の終点"です。



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しかし僕らは、寛文年間より後の轟川も追わないといけません。鴨川が埋め立てられて、新しく宮川町ができましたが、その後も轟川は流れていたはず。

引き続き松原通を西へ進んでいきましょう。



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すぐに宮川町通と交差(写真は北を見た所)。京都を代表する五花街の一つ、「宮川茶屋街」です。



さて"現在の轟川"とも言える下水道は、ここから南下して、鳥羽の下水処理場を目指します。

でも直進する緊急避難ルートもあるのでややこしい。京都の下水道は雨水も合流させているので、下水道処理場のパンクを防ぐために、大雨時は下水の一部を鴨川に放流させているのです。

いずれにしろ、僕らが追いかけてるのは本来の轟川。引き続き直進しましょう。


川端通に到着


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とはいえ、すぐに川端通が見えてきました!終点の鴨川ももうじきですね。



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右を見ると琵琶湖疏水。明治時代に作られた水路です。琵琶湖から延々と水が引かれてきました。



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琵琶湖疏水。暗渠になってしまった所もあるのですが、ここはまだ地上に残ってますね。



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川端通を横断。かつてこの上を京阪電車が走っていました(今は地下)。この特等地を京阪が走れたのは、渋沢栄一の力が大きかったと言われています。



今では考えられませんが、明治時代の京都駅界隈は、町外れの"場末"でした。当時の京都の中心は、三条から四条にかけてです(一番の繁華街は新京極)。

国鉄ですら場末にしか通れなかったのに、京阪は京都の一等地を走れた。その辺りの話は大変面白いのですが、また長くなるので、割愛しましょう。


ついに鴨川に到着する


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ついに鴨川に到着。早速、轟川の痕跡(例えば下水道の雨水吐口)を探してみましたが、何も残ってませんでした。



ちなみに雨水吐口とは、大雨で下水道が満杯になった際、鴨川へ吐き出す出口。京都市の下水道の約40%は雨水・山水を流入させているため、必要不可欠な施設です。鴨川に何ヶ所も造られました。



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鴨川(その2)。下流方向を望む。



この写真には写っていませんが、松原橋から南寄りの方向に、雨水吐口を見つけました。でもちょっと距離があるので轟川とは言い難い。

実際スミトンを見ても、轟川だけではなく、広く周囲の雨水を集めて、一緒に流しています。そう言った意味でも轟川とは言い難いかな。



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松原橋。これをもって終点となります。長い旅が終わりました。



ところで松原橋は、江戸時代に描かれた清水寺参詣曼荼羅によると、清水寺参詣の出発点でした。ここから松原通を通って清水寺に参詣するのが、正式な参詣ルートだったのです。



思い出して下さい。僕らの旅の始まりは清水寺だった事を。つまり僕らは、清水寺参詣曼荼羅を逆にたどるように、清水寺を出発して松原橋にやって来たのです。何とも不思議な縁を感じませんか。

まさに轟川は、清水寺と"切っても切れない縁" を持つ川だったのです。目の前の松原橋を見て、それがはっきり分かりました。轟川を探る旅は、知らず知らず清水寺に導かれていたようです。



~ 終わり ~