清水音羽川を歩く(その2)〜京都の廃河川〜
"清水焼の郷"に寄り道
五条坂交差点に戻ってきました。せっかく"清水焼の郷" に来たので、ここからしばらく音羽川探索から離れて、寄り道しましょう。
この辺りは、かつて清水焼の拠点でした。その理由を調べると、必ず「この辺りで良い粘土が取れたから」などと書かれています。本当でしょうか。
この辺りは、音羽川の扇状地なので砂礫地帯なのではないか。もっと鴨川近くまで行けば粘土層になるはずですが、それだと場所が合わない。
地質マニアの僕としては"粘土説"に否定的。別の理由を考えています。それは後で述べますが、とりあえず今は、周辺を散策してみましょう。
茶わん坂
まずは「茶わん坂」に行ってみましょう。大正時代に新しく造られた道路です。ちなみに明治の地図を見ると、道が作られる以前は竹藪だらけでした。
陶器屋さんが沢山できたので「茶わん坂」と呼ばれるようになったらしい。清水坂や五条坂ほど混んでないので、ゆっくり散策するのに最適ですね。
茶わん坂の店舗。この辺りは清水焼の拠点だけに、陶器関係のお店が多い。大正時代に造られた道なので、店舗もその頃造られたのでしょう。
清水坂や五条坂より入れ替わりが少なかったようで、昔のままの古い建物が数多く残されています。古民家マニアは興奮すること間違い無し。
では下に戻りましょう。
安祥院
五条坂入口まで戻ると、安祥院というお寺がありました。元々は朱雀天皇の勅願により創建されたという古刹です。山門に掲げられた大きな「日限地蔵尊」の提灯が目印。
安祥院の地蔵堂。日限地蔵という呼び名の方が有名らしい。日を限って祈願すると成就するとのこと。沢山奉納された前掛や折鶴を見ると、信仰の深さが伝わってきます。
では東大路通まで戻りましょう。
東大路通を歩く
東大路通まで戻って、北に進むと、すぐに京都陶磁器会館。窯元団体の施設らしい。こんな建物があるなんて、さすが清水焼の拠点ですね。
ところで、この辺りが清水焼の拠点になった理由の一つとして、僕が考えているのは、清水寺が江戸時代から日本有数の観光地だったこと。
当時から清水坂は土産物屋さんが軒を連ねていたらしい。そして土産物の代表的なものとして、清水焼は大変重宝されていたようです。
大消費地の近くに、生産地を構えるのは、昔も今も当然のことですよね。さらにもう一つ、大きな理由があるのですが、それはこの後で。
東大路通を渡って北へ歩くと宝福寺。元々は鳥辺野の葬送地に捨てられた死者を供養するために建てられたらしい。火葬場を包含するほどの巨刹でした。
今では考えられませんが、この辺り一帯は竹藪の多い寂れた場所だったようです。例えば北隣の東区役所のある場所は、江戸時代まで火葬場でしたから。
宝福寺をアップで。現在の本堂は2018年、長楽寺によって再建されたものです。
さて、この辺りが清水焼の拠点になった理由の二つ目は、火葬場があるほどの寂れた場所だったから。だからこそ煙の出る穴窯には都合が良かった。
つまり江戸時代に窯元が集中的に造られた理由は、「大消費地の近くに竹藪だらけの未開拓地があったから」だと、僕は考えています。いかがでしょうか。
登り窯跡地を歩く
宝福寺から六原公園の方にやって来ました。この辺りは、かつての登り窯の跡がいくつも残っています。煉瓦の煙突が良い感じですね。
ただ戦後になると、周辺住民からの"煙突から出る煙の苦情"が、後を立たなかったらしい。まさか陶芸の煙が"公害扱い"されるとは、、、
窯元たちも、思いも寄らなかったでしょう。まさに時代が変わった、という事でしょうね。
登り窯跡(その2)。煙突が高いのは、これでも周辺住民に配慮した結果なのでしょう。それでも苦情が後を立たず、結局、全員で山科の方に移転してしまいました。現在「清水焼団地」と呼ばれている所です。
登り窯跡(その3)。六原公園の周辺に広い駐車場があるのは、かつて窯元が何棟もあった名残なのではないでしょうか。移転した跡地が駐車場になってるとか?
登り窯跡(その4)。京都市内に現存する最大級の登り窯跡(元藤平陶芸敷地)。これは貴重な歴史遺産・文化遺産として、京都市が購入し、保存しています。
登り窯跡(その5)。残念ですが、元藤平陶芸敷地は現在、非公開。研究対象になってるので入れないらしい。
では五条交差点へ戻りましょう。
若宮八幡宮に寄り道
さらに西へ歩くと、すぐに若宮八幡宮。陶器の神様を祀っています。
若宮八幡宮(その2)。陶器の神様を祀ってるなんて、さすが清水焼の拠点らしいですね。
ではまた五条通を西へ進みましょう。
再び五条通を西へ
五条通の北側を歩くと、次々と古い町家が現れます。やはり高級陶磁器屋さんが多い。しかもこの建物は登録有形文化財。
ちなみに五条通の南側は、太平洋戦争末期に空襲対策で、古い町家は壊されてしまいました。なので新しいビルばかり。
さらに西へ歩くと、京都陶磁器卸商業協同組合という建物もありました。本当に陶器関係の建物ばかり!
ではまた五条交差点に戻りましょう。
五条交差点を南へ
五条交差点に戻ってきました。そのまま南側へ渡りましょう。ここから再び音羽川探索が始まります。
五条交差点の西南角地。大正時代の地図を見ると、音羽川は、ここからさらに西南へ向かっていたようです。でも今は新しいビルが建っていて痕跡はありません。
ところで今、大正時代の地図と言いましたが、ネットに「京都オーバーレイマップ」というサイトがあって、明治から昭和までの古地図が見られます。とても便利!
という訳で、ここからは大正時代の地図とスミトンに頼りながら、下水道と化した音羽川を探っていく事にします。それでは五条通の南側を西へ進んでみましょう。
五条通の南側を西へ
五条交差点から西へ80m、金光院というお寺の西側に駐車場がありました。奥まで進んでみましょう。
駐車場の一番奥から、東側を見てみましょう。ありました!空き地が帯状に延びていますね。
ここがかつての音羽川!大正時代の地図を見ても、音羽川の記載があるので間違いありません。
今度は西側を見てみましょう。こちらも左側の緑色のフェンスとの間が少し空いていますね。
この下が下水道と化した音羽川!スミトンを見ても、やはり記載があるので、間違いないですね。
ではまた五条通を西へ進みましょう。
河井寛次郎記念館へ行く道を南へ
西へ10m進むと、南側に道があるので入りましょう(写真は入ってから振り返った所)。
ちょうど河井寛次郎記念館へ向かう道です。すぐ左右に音羽川!(写真の白いフェンス)
まずは東側から音羽川を見てみましょう。白いフェンスの下が音羽川のようです。大正時代の地図にも記載があるので間違いありません。写真右側の駐車場から覗いてみましょう。
右側の駐車場から身を乗り出して覗いてみました。やはり細長いエリアが続いています。スミトンにも記載があるので間違いありません。
今度は道路を挟んだ西側。この駐車スペースがそうなのでしょう。古地図やスミトンに記載があるので間違いありません。奥まで行ってみましょう。
西側を望む。綺麗に形が残ってますね。でも考えれば、下水道が整備された昭和30年代頃までは川があったはずなので、当然かもしれません。(今はこの下を下水道となって流れてる!)
ではまた南へ進みましょう。
慈芳院に寄り道
ここから、またちょっと寄り道です。
先ほどの所から南へ30m進んで、さらに東へ60m進むと、慈芳院というお寺が現れました。
慈芳院(その2)。慈芳院庵町という町名の由来になってるほど由緒あるお寺らしい。並んで鎮座している薬師如来と不動明王が良い感じです。
慈芳院を出て、道路を挟んだ向かい側に小祠がありました。お地蔵さんかと思ったら大日如来!(提灯でようやく分かりました。京都はなかなか難しい!)
大日如来の左側を見ると、またまた清水焼の窯元の家。まだここも"清水焼の郷"でしたね。
では西へ戻りましょう。
河井寛次郎記念館
西へ戻って、突き当たりを南へ曲がると、河井寛次郎記念館へ向かう道。ここも古い町家が沢山残されていて良い感じです。
ちなみに、どの建物も2階建てなので、大正時代か昭和初期の築と思われます。(江戸時代は2階建てが禁止されてましたから)
「鐘鋳町」の文字が見えます。さすが"焼き物の郷"らしい町名ですね。
河井寛次郎記念館。大正から昭和にかけて活躍した清水焼の大家、河井寛次郎の記念館です。彼はここに住みながら作陶したそうで、当時のたたずまいがそのまま残されているらしい。もちろん2階建てなので昭和初期の築。
河井寛次郎記念館の道を進みましょう。古い町家が本当に沢山残されています。京都らしい風情がいっぱい。
ちなみに、先ほど2階建ては明治以降と言いましたが、さすがに明治の築は少なく、大正か昭和初期がほとんど。
見分け方としては、江戸時代の町家は「平家+小屋裏」という構造なので、1階の上に低い格子窓が付いています。
渋谷街道
そのまま南へ進むと、渋谷街道と交差します。その交差点の角に、古い町家を改装したカフェがありました。
市川屋珈琲。入るつもりでしたが、当日は定休日でした。残念!京都は本当にこんなカフェが増えましたね。
その渋谷街道の街並み。緩やかなカーブが、いかにも旧道らしい。
ちなみに渋谷街道とは京都から山科へ抜ける旧街道。近世に三条大橋が東海道入口になるまでは、渋谷街道が東国からの玄関口でした。そんな重要街道だったのです。
ではまた音羽川の方向へ戻りましょう。
再び河井寛次郎記念館の道を北へ
河井寛次郎記念館の前を通ってしばらく歩くと、音羽川の手前左側に駐車場があるので入りました(写真は駐車場の一番奥まで行って北を見た所)。
フェンスと倉庫の間が空いてるようです。近づいてみましょう。
フェンスまで行って、東側を見ましょう。川跡がはっきり見えています。古地図もスミトンもここなので、間違いありませんね。
続いて西側。やはり川跡がはっきり見えています。
ちなみに、太平洋戦争末期の建物疎開で壊されたのは、ちょうど音羽川まで(写真右側の新しいビルが建っているエリア)。昭和21年の米軍空撮写真にはっきり写っています。
余談ですが、米軍の空撮写真はネット上に公開されていて、大変面白い。廃河川探索に大いに役立ちますよ!
それではまた五条通に戻りましょう。
再び五条通を西へ
五条通を西へ折れると、六兵衛窯という清水焼の窯元が現れました。後で調べたら、清水六兵衛という有名な窯元らしい。
ここで注目したいのは見事な石蔵です。大正時代か昭和初期の築でしょうか。青みがかった色合いは凝灰岩でしょうか。
気になりますが、とり急ぎ西へ進みましょう。
西へ歩くと、すぐ南側に階段が現れました。どうやら音羽川も見えるようです。降りていきましょう。
音羽川に到着。まずは東側から見ましょう。きちんと川の形をしています。古地図もスミトンもここで間違いありません。
続いて西側。トタン板に塞がれていたので、隙間から撮りました。ところで左側は駐車場のようです。そこに行けばよく見えるかもしれません。行ってみましょう。
駐車場に上がって東側を見てみました。トタン板に塞がれた裏側がよく見えますね。川らしくないけれど、音羽川で間違いありません。
今度は西側。何やら物置が置かれてるようですが、やはり古地図もスミトンも、ここなので間違いありません。
ではまた五条通に戻りましょう。
五条通を西へ歩くと、キャメルという喫茶店に到着。あの塀の向こう側ですが覗けませんね。
引き続き西へ進みましょう。
次々と現れる音羽川の痕跡
西へ歩くと、すぐに工事フェンスの建ってる所が現れました。このフェンスの奥が音羽川のようです。見てみましょう。
フェンスから手を伸ばして、東側を撮ってみました。喫茶店キャメルの裏側ですね。
続いて西側ですが、空き地のようなので、そこまで行って見ることにしましょう。
空き地の奥まで行って、トタン板の上から手を伸ばして撮ってみました。西側は、何やら路地になっているようです。ここがかつての音羽川とは驚きですが、古地図やスミトンを見ても間違いありません。
それではまた五条通を西へ進みましょう。
西へ歩くと、こんな扉が現れました。どうやら先ほどの路地はここに出るようです。もちろん古地図やスミトンを見ても間違いありません。ここが音羽川の出口!
五条通の歩道の下を進む
歩道のこのマンホールも音羽川の可能性が高い!ここからはマンホールを追いかける旅になりそうです。
という訳で、歩道のマンホールをどんどん追いかけていきます。
ところで先ほどから五条通と言ってましたが、京都では"通り"のことを"通"と書きます。なので五条通り→五条通。
ややこしいのは、呼び方は普通に"とおり"ということ。五条通と書いて"ごじょうどおり"。いやホントややこしい。
さらに西へ進むと、黄色い点字ブロックの"謎の屈曲"を発見(写真では分かりづらいけど)。それが大正時代の音羽川と完全に一致している!なぜ?
よく見ると建設省(今の国交省)の境界プレートがあり、点字ブロックは国有地側らしい。まさかとは思うけど、国の境界に沿って設置したのか?
つまり音羽川(今は京都市の下水道)は市有地だから、国は設置できなかったとか?まさかね!もはや僕は、歩道をじろじろ眺める不審人物でした(笑)