五条通から南へ
五条通から南へ入っていく道です。でも入る前にアスファルト舗装をよく見ると・・・
折れていく道のアスファルト舗装や、その右側の側溝をよく見ると、なだらかにカーブしている!これはあきらかに音羽川の名残りじゃないですか。ここまではっきり残ってるなんて凄い!
それではどんどん南側へ進んでいきましょう。ここで右に折れ・・・
今度は左に折れ・・・
くねくね曲がりながら進んでいきます。さすが"元"河川だけあって、簡単に直進とはいきませんね。
さて、この先に渋谷街道が見えてきました(黄色い車止めの所です)。また少し、寄り道してみましょう。
渋谷街道で寄り道
渋谷街道を西へ曲がると、すぐにお地蔵さんがありました。丁寧に拝んで、引き続き西へ進むと・・・
本町通に到着。ここはかつての伏見街道であり、奈良街道でもあり、渋谷街道の合流道でもあります。つまり京都トップクラスの重要街道でした。
道沿いには古い町家が建ち並んでいて、いかにも旧街道らしい趣きが感じられます。
浄雲寺
近所に浄雲寺というお寺があったので寄りました。渋谷街道の終点に位置してるので、何か由縁がありそうですが、このお寺の由緒はよく分かっていません。
浄雲寺(その2)。弁財天はもの凄く趣きがありました。
浄雲寺(その3)。境内の全景です。本町通や五条通に近いのに、まったく騒音は聞こえず、静かで心和む空間でした。
渋谷街道から別の水系が合流?
また音羽川まで戻ってきました(ここは渋谷街道との交差点です)
そしてここから、再び下水道が合流するのです。ただ渋谷街道を流れてきた下水道なので、音羽川の支流のようなものが(昔は)あったのではないか、と僕は推測しています。
さらに言うと、音羽川の本流とは先ほど別れたので、ここから流れるのは、渋谷街道周辺の下水や雨水を集めてきた"別の水"。いわば下水道の"入れ替わり"とも言えますね。
いずれにしろ、下水道が復活するので、ここからは再び古地図やスミトンを確認しながら進んでいくことにしましょう。
道はどんどん狭くなりますね。しかも砂利道!この下を下水道が通っているなんて信じられません。
さらに進んでいきます。昭和30年代くらいまでは音羽川が流れていたはずですが、こんなに狭かったとは驚きです。
おそらく、家の裏側を流れる"どぶ川"といった趣きだったのでしょうね。
本町公園に到着
ついに本町公園が見えました。下水道はここを斜めに横断していきますが、音羽川は直角に曲がっていったようです。僕らは音羽川に沿って直角に進みましょう。
"元"音羽川の道は、本町公園を右に見て進んでいきます。
やがて、ここで直角に西へ折れます。
ここからは西へ進みます。と思ったら、「通り抜け出来ません」の貼り紙?何でしょうか?
公園内を歩いていくと、音羽川の上に建物が建っている!だから「通り抜け禁止」だったのですね。
それにしても、ちゃんとしたブロック積みで、倉庫のようにも見えます。いったい何でしょうか?
反対側から見てみると・・・、音羽川の上を占拠している建物は、消防団の倉庫でした。
他の川でも、消防団の倉庫が建っている事があったので、よくある事なのでしょう。
ここで本町公園とはお別れです。
ちなみに「本町」とは、本町通に沿った"両側町"で、1丁目から22丁目まである南北に細長い町です。北は五条通から、南は伏見まで!本当に長い!
本町通から西へ
本町通を横断します。先も言ったように、京都市トップクラスの重要街道。交通量も多い。なのに狭いので危険です。
本町通を渡って、先へ進みましょう。歩道が異常に広いのは、ここが"元"音羽川だからですね。
マンホール!もちろん歩道の下に下水道も流れています。
鞘町通の分岐点
鞘町通に到着しました。ここでまた下水道の本管は左折してしまいます。(その後はひたすら南下して、鳥羽の下水処理場を目指します)
しかし別の直進ルートもあるのでややこしい。それは大雨の際、下水処理場がパンクしないように、余剰分を鴨川へ流す緊急避難ルート。
先ほどの五条通の鴨川直進ルートと同じです。何せ京都市の下水道の40%は雨水合流式なので、鴨川に何ヵ所も出口が造られました。
とはいえ僕らが目指すのは下水道ではなく音羽川!そのまま直進しましょう。古地図にも直進する音羽川がはっきり写ってますから。
川端通に到着
川端通に到着しました。この道は、京阪電車の地下化と、琵琶湖疏水の暗渠化により、新しく作られた通りです。
疏水は、たまに地表を流れてる所もありますが、この辺りは完全に暗渠化されたようで、全く見当たりませんね。
川端通の歩道まで来ました(写真は北を向いた所)。ちょうどこの下辺りを琵琶湖疏水が流れているはずです。暗渠となって。
先にも言ったように、音羽川は元々鴨川に注いでいました。しかし琵琶湖疏水ができてからは、疏水に注いでいたようです(大正時代の地図にもはっきりと描かれています)。
しかし残念ながら、暗渠のため何も見ることはできません。何やら"もやもや"しますが、音羽川探索はこれで終わりとなります。
とはいえ、ここで終わっても何だか中途半端。とりあえず河川敷までは行ってみましょう。
という訳で川端通を横断します(写真は南向き)。この下を京阪電車が通っています。しかし言うまでもありませんが、 1980年代までは地表を通っていました。
川端通を横断(その2)。今度は北向きです。
ちなみに京阪電車が鴨川沿いの市有地の上を走れたのは、渋沢栄一の力が大きかったからと言われています。しかも三条大橋という一等地に、駅を造れた訳ですからね。
明治の頃は、三条一帯が京都の中心であり玄関口でした(江戸時代までは三条大橋が東海道の終点、つまり玄関口でしたから!)。今の京都駅一帯は何も無い"場末"でした。
つまり国鉄ですら、辺鄙な"場末"にしか駅を造れなかった訳で、いかに京阪電車が凄かったかが分かりますよね。しかも鴨川沿いなんて、今では景観上、絶対造れない場所です。
ついに鴨川に到着
鴨川に到着しました。平安時代から"暴れ川"として恐れられ、何度も氾濫したそうです。最後の氾濫は昭和10年の大水害。
そのため昭和10年から改修工事が行なわれ、それまでの川底の高さ(琵琶湖疏水と同程度?)から掘削され、今の低さになりました。
また1980年代の川端通の新設工事でも、堤防の上半分が新たに作り替えられました。なので上部は昔の姿が残っていません。
鴨川(その2)。川面にカモが大量に写っているのが分かりますか。心が和みますよね。
普段は"山紫水明"と言われるほど風光明媚。しかも山が近いため、水も綺麗です。
(ただし大雨が降れば、下水の流れる"汚い川"に変わってしまうようですけどね)
堤防内の河川敷を歩いてみましょう。
河川敷は上下2段になっています。おそらくこの道より上は、1980年代の川端通新設工事で造られたのではないでしょうか。
また、この道より下は、昭和10年以降の改修工事で造られたのではないでしょうか。僕はそのように推測しているのですけどね。
雨水吐口
少し北へ歩いていくと雨水吐口を見つけました。これは何かというと、、、
昭和40年頃まで京都市は、雨水や山水をそのまま下水道に流していました。場合によっては、小川をそのまま下水道化したケースも!(菊溪川も轟川もそう!)
そうなると、大雨で下水処理場がパンクしてしまうので、余剰分を鴨川へ直接流す緊急避難ルートを造りました。その鴨川での出口を「雨水吐口」と言います。
雨水吐口(その2)。
名前だけ見ると、「雨水だけを吐き出している出口」のように見えますが、実は下水(つまり大小○)も吐き出していました。これはちょっと驚きですよね。
雨水吐口(その3)。
何やら汚い話になってしまいました。廃河川探索が、いつのまにか汚水探索になってしまったなんて!
でも、ある意味、"異界探索"に相応しいかもしれません。地下の下水道は、異界と言っても良いでしょう。
さて、せっかく音羽川異界巡りで、ここまで来たので、さらにちょっと寄り道をしましょう!
キリシタン殉教の碑から正面橋へ
音羽川河口から南へ70mほど歩くと、「キリシタン殉教の碑」。
江戸初期、徳川幕府による過酷なキリシタン弾圧が行われました。
京都でも、50余名のキリシタンが、生きたまま"火あぶりの刑"に処せられたらしい。
その刑場が、ここ六条河原。その史実を後世に伝えるため、この石碑は建てられました。
石碑のすぐ南側に正面橋。現在は特徴の無い小さな橋ですが、かつては大仏殿に向かう正面通に位置していたため正面橋と名付けられた格式ある橋です。
その大仏も今はありません(写真手前側にありました)。それは奈良の大仏や鎌倉の大仏を上回る巨大な大仏だったらしい。造らせたのは豊臣秀吉です。
正面通から耳塚へ
正面通。前出の正面橋から東側へ進む道です。狭いけど、これがまさにそう。
今では全く面影もありませんが、日本最大級の大仏の真正面に向かう道だったので、この道は「正面通」と名付けられました。
しかしこの道は進んでいくと、とんでもない物を目にする事になります。ある意味、日本史上最悪のモニュメント。それは・・・
耳塚。正面橋から東へ約220m。豊臣秀吉の"悪の象徴"のような場所です。
豊臣軍は朝鮮出兵の際、朝鮮人の耳や鼻を削ぎ落として、日本に持ち帰りました。
それを埋めて葬ったのがこの塚。その数、2万人とも言われています。
豊国神社
耳塚から東へ進むと正面に豊国神社。豊臣秀吉を神として祀る神社です。
創建当初は、ここより東方の阿弥陀ヶ峰山中に祀られました。徳川幕府による廃棄を経て、明治時代に現在地に再建されたものです。
豊臣秀吉末期の悪業をなぞるかのように、豊国神社も有為転変した訳ですね。今は観光客も少なく、静かに時を過ごしているようです。
豊国神社(その2)。明治天皇の勅命により建てられました。古社のような顔をしてますが、明治時代にできた比較的新しい神社と言えます。
織田信長を祀る建勲神社も明治時代に京都に建てられた訳で、明治新政府は国家支配のために、戦国武将の力も必要としたと言えそうです。
さて、明治に豊国神社ができる前は何があったのかというと、先にも言ったとおり、大仏殿跡地となっていました。今は無き巨大大仏です。
大仏殿の痕跡として唯一残っているのが、この石垣。あまりにも巨大な石積みなので驚きますよね。
その巨大さは、いかにも豊臣秀吉が造ったものらしい。大量の人数を動員した事が分かっています。
では門前に戻りましょう。
甘春堂の大仏餅
大仏殿の門前には甘春堂というお菓子司。慶応元年創業という老舗らしい。ここで甘いものでも頂いて、終わることにしましょう。
建物も素晴らしい。わざと梁を見せて、現代風に活かしていますね。お店の人に聞くと、古い町家を移築再生したものらしい。
店員さんの対応も親切で和みました。ちなみに大仏の門前らしく、大仏餅というのが名物とのこと。どうれ、頼んでみましょう。
大仏餅を頂きながら、今日の旅を振り返りました。
途中で水系が入れ替わる、などというアクロバティックな事もありましたが、水源から河口まで、ほぼ辿ることができました。
特に印象的だったのは清水焼。やはり音羽川を語るとき、切っても切れないでしょう。ど真ん中けを通り抜けてきましたから。
そういえば甘春堂の方も、美味しいお菓子には水が大事と言ってました。なるほど、この辺りは音羽川の伏流水が流れているはず。
であれば、この辺りが清水焼の拠点になった理由として、音羽川の伏流水をあげても良いのでは?焼き物には水が必要ですから。
この辺りは音羽川の扇状地なので伏流水は豊富なはず。そう考えれば、やはり音羽川と清水焼は切っても切れない関係だった!
今、頂いている大仏餅にも、音羽川の水が含まれてるかもしれません。まさに音羽川の旅を締めくくるのに相応しいですね。
〜 終わり 〜