蓮台野への道を歩く(その3)~京都の葬送地~
人権の町を歩く
千本北大路交差点の東北角地一帯は楽只地区といいます。被差別民の住むエリアで、近現代に至るまで差別に苦しんできた歴史がありました。
地政学的にみると鳥辺野ルートとの類似を感じます。鳥辺野にも弓矢町という集落がありました。(ただこちらは江戸時代に成立した町ですが)
ここには最近まで「ツラッティ千本」という人権啓発施設がありました。(現在は他所に移転して活動中)
この辺りは被差別集落だけじゃなく、在日コリアン集落もあるため、"人権の町"とも言われています。
立派な市営住宅が建ち並んでいます。住環境は改善されたようですね。
このエリアの一画に、「水平社宣言」の一節を記した石碑があります。
水平社の初代委員長、南梅吉がここに住んでいたので建てられました。
「人の世に熱あれ、人間に光りあれ」
残念ながら写真は撮り損ねました。では楽只地区を出て次へ向かいましょう。
天神川へ
北大路通りを西へ歩いていると、道路が凸型に高くなっている部分を発見。
もしかしたら御土居の痕跡でしょうか。場所柄、充分可能性はありますね。
天神川を発見しました。早速下に降りて、川沿いを歩きましょう。
それにしても物凄い激流ですよ。流量も流速も!とても都市河川とは思えません。
ちなみに平安京の頃は、いろんな川からの分流が、幾筋も街の中を流れていました。(今は暗渠になってしまいましたが)
砂防ダム内の違法占拠集落
天神川を上流へ歩いていくと、この先で、”砂防ダム内の違法占拠集落”に至ります。河川敷にある集落です。(写真の掲載は控えます)
戦後の混乱期に、貧しい人々が次々と家を建てて、そのまま現在に至っている、という集落。京都って、ある意味"おおらか"ですよね。
今ではかなり有名になってしまいました。僕も集落内を歩き回りましたが、一言だけ言うと、もの凄い民衆のパワーを感じました。
一条天皇と三条天皇の火葬塚
続いて到着したのは、一条天皇と三条天皇の火葬塚。宮内庁が管理している"天皇陵"です。
火葬塚(その2)。先ほどの違法占拠集落と目と鼻の先。そこと隣り合わせにあるというのが、京都の凄い所ですね。
旧朝鮮学校だった建物
続いて、かつて朝鮮学校だった建物に到着しました。藪の向こう側で見づらいけれど。
先に書いたように、この周辺に在日コリアン集落があったので、学校が作られました。
旧朝鮮学校(その2)。入口は封鎖されています。廃校になって久しいのでしょう。
ここから天神川を挟んで、バラックだらけの集落が見えました(写真の掲載は控えます)。空き家になった在日コリアン集落です。ここでは御土居の外側ということに注目したい。
同じ被差別集落なのに、在日コリアン集落は御土居の外側で、楽只地区は内側にあります。御土居を境にして、被差別民の間にも、わざと"上下関係"を作り出していたのでしょうか。
ここに為政者の "嫌らしさ" を感じざるを得ません。
千本北大路交差点
千本北大路交差点に戻ってきました。これで"蓮台野への道"は終わりたいと思います。
最後の方はバラック探検隊みたいになってしまいました。まぁ異界探訪なので、しょうがないかもしれませんが。
御土居を境に、内側に楽只地区、外側に在日集落という話をしました。被差別民の間にも上下関係を造り出したと。
なぜそう感じたかというと、同じ京都市内の崇仁地区も、御土居を挟んだ外側に在日地区の東九条があるからです。
※明治10年に京都駅が開業するまで、崇仁地区は京の町外れでした。京都駅ができてから急に市街地になりました。
京都の外縁部に位置する御土居を舞台に、同じ位置関係の被差別集落が2箇所もあるという事は偶然ではないはず。
過去に京都の町造りを担った為政者の"嫌らしい裏の顔"を垣間見た気がしました。異界探訪はまさに"闇巡り"です。
~ 終わり ~