京都の異界を歩く

ちょっと変わった京都の探訪記です

明治維新を歩く(その1)〜木屋町編~

明治維新の舞台となった京都。多くの歴史的事件がこの街で起きた。新撰組や薩摩・長州などが暗躍し、坂本龍馬もこの街で亡くなった。

今はほとんど石碑しかないが、それをたどるだけでも思いを巡らすことはできる。京都の重層性の一端を知る手掛かりになる事だろう。

その石碑は高瀬川に面した木屋町に非常に多い。なぜそこに明治維新の足跡が集中しているのかについては、おいおい語っていきたい。


木戸孝允別邸跡

木屋町に多いと言ったが、特に二条から四条までの間は桁違いに多い。しかし、木戸孝允別邸跡だけは少し離れた所にある。維新後に新たに購入したからだろう。まずはそこから歩き始めたい。



f:id:wazze2001:20220331192648j:plain
木戸孝允別邸跡(その1)。木屋町通の北側の丸太町通二条通の中間あたりにある。周りは「お宿いしちょう」や「石長松菊園」「市職員厚生会館かもがわ」など旅館が多い。すべて木戸邸の跡地に建っている。

江戸時代まで、ここには近衛家の邸宅があった。明治維新後、近衛家が東京に移ったので、その跡地を木戸が購入した、という流れらしい。



f:id:wazze2001:20220326095231j:plain
木戸孝允別邸跡(その2)。明治天皇行幸の碑が建っている。木戸は、京都の別邸として買ったのが、最期はここで病死した。その直前、明治天皇がお見舞いに来られたという。その行幸碑。

「市職員厚生会館かもがわ」の敷地内には、当時の建物の一部が保存されている。


旧銅駝小学校

そのまま南へ歩くと旧銅駝小学校がある。



f:id:wazze2001:20220331193145j:plain
銅駝小学校(その1)。昭和初期の築という近代レトロ建築。京都は本当に学校建築が素晴らしい。



f:id:wazze2001:20220326095329j:plain
旧銅駝小学校(その2)。舎密局だったこともあるという。舎密局とは明治政府が作った科学技術の研究、教育、勧業機関。この辺りは工業が盛んだったので、それと関係してるのだろう。



f:id:wazze2001:20220331193235j:plain
旧銅駝小学校(その3)。今は銅駝美術工芸高校になっている。"ものづくり京都"の起点である事に変わりはない。


久坂玄瑞吉田稔麿等寓居跡

河原町通に出て南へ歩くと、久坂玄瑞吉田稔麿等寓居跡がある。



f:id:wazze2001:20220326095406j:plain
久坂玄瑞吉田稔麿等寓居跡(その1)。ここにある法雲寺というお寺で、二人は蟄居させられていた。その石碑。



f:id:wazze2001:20220326095409j:plain
久坂玄瑞吉田稔麿等寓居跡(その2)。結局、久坂は禁門の変で死に、吉田は池田屋事件で死んだ。二人とも20代だった。この二人に高杉晋作を入れて、"松蔭門下の三秀"と言う。(高杉も20代で死んだ)


近代産業揺籃の地

明治に入ると、この辺りは近代工業が盛んになった。琵琶湖疏水による発電が役に立ったらしい。その中で世界的企業なども生まれていった。



f:id:wazze2001:20220326095459j:plain
南へ歩くと明治天皇行幸所織工場跡。明治に入って、京都は繊維産業の近代化も図った。明治天皇行幸したのも分かる気がする。

ところで明治の京都は本当に面白いのだが、なかなか表舞台に出ない。もっと近代の歴史にスポットが当たってほしい。



f:id:wazze2001:20220326095526j:plain
斜め向かいには島津製作所旧本社ビルがある。1927年築で、設計は武田五一。まさに京都の近代工業を象徴する建物だ。(壁に変な光が見えるのは向かいのホテルオークラの窓の反射)

現在はフォーチュンガーデン京都というブライダル施設になっている。



f:id:wazze2001:20220326123706j:plain
南へ歩くと、すぐに京都市役所。こちらも1927年築で設計は武田五一という近代建築。

京都は本当に、こういった近代建築が多い。いかに明治の京都人が慧眼だったかが分かる。


長州藩邸跡

京都市役所の向かいは長州藩邸跡。そこは高瀬川の物流拠点であり、東海道の起点の三条大橋にも近く、京都最高の場所を押さえていた、と言えるだろう。



f:id:wazze2001:20220326123759j:plain
長州藩邸跡(その1)。現在はホテルオークラ京都が建っている。

オークラグループが経営支援に乗り出す前は、京都ホテルという老舗ホテルだった。その始まりは明治21年創業の常盤ホテルまで遡る。またその建設には渋沢栄一も関わっていた。



f:id:wazze2001:20220326123810j:plain
長州藩邸跡(その2)。ホテルオークラ敷地内には桂小五郎像もある。

長州藩邸が廃された後、一旦官業場になり、その後官有地払い下げで常盤ホテルが購入した。その際、伊藤博文の力が大きく働いたらしい。やはり長州だからか。



f:id:wazze2001:20220326123828j:plain
長州藩邸跡(その3)。長州屋敷跡の碑も建っている。ホテルオークラから高瀬川まで含む一帯と考えると相当広い。



f:id:wazze2001:20220326123846j:plain
長州藩邸跡(その4)。明治になると長州藩邸跡地に官業場ができた。そこに明治天皇行幸したという碑。

殖産興業は明治の日本にとって生命線だった。日本各地に官業場ができ、明治天皇もよく行幸された。



f:id:wazze2001:20220326123850j:plain
長州藩邸跡(その5)。ホテルオークラ京都の前身である京都ホテルは、明治より皇族方の御用達ホテルになっていた。長州にとっても申し分なかっただろう。


木屋町通を北上する

ホテルオークラから東に行き、再び木屋町通を北上しよう。



f:id:wazze2001:20220326123956j:plain
まずは高瀬川を渡る。角倉了以が開削した人工河川で、ここが京都の物流ルートだった。



f:id:wazze2001:20220326124003j:plain
続いて木屋町通が現れる。ここを北上しよう。

ところで京都では"通り"のことを"通"と書く。京都独特の書き方だ。しかし呼び方は普通に"とおり"と言う。京都は本当にややこしい。


山縣有朋別邸跡にして角倉了以邸跡

やがて木屋町通は突き当たる。高瀬川もここから始まるのだ。



f:id:wazze2001:20220328191415j:plain
突き当たりの右側は山縣有朋の別邸「無鄰菴」跡地。今は食事処「がんこ高瀬川二条苑」になっている。江戸時代は高瀬川を開削した角倉了以邸だった。



f:id:wazze2001:20220328172353j:plain
山縣有朋別邸(その2)。それを示す看板もあった。京都はたいてい看板があって助かる。



f:id:wazze2001:20220328172358j:plain
その向かい側は島津創業記念館。世界に誇る島津製作所はここから生まれた。もちろん高瀬川水運と関係あるという。建物も明治後期の築で国登録有形文化財


今度は木屋町通を南下する

f:id:wazze2001:20220328172420j:plain
高瀬川もここから始まる。鴨川から旧山縣有朋邸の庭園を経てここに来ている。



f:id:wazze2001:20220328172423j:plain
高瀬川には高瀬舟(模造船)が置かれていた。これで様々な物資を運んでいたらしい。


一之舟入

f:id:wazze2001:20220328172433j:plain
高瀬川の一番北側にある一之舟入。京都最大の内港だった。



f:id:wazze2001:20220328172431j:plain
一の舟入(その2)。この高瀬川の物流を使って、京都の工業は発達した。


佐久間象山大村益次郎遭難の碑

f:id:wazze2001:20220326124012j:plain
一之舟入の南側に、佐久間象山大村益次郎遭難の碑。二人ともこの辺りで暗殺されたらしい。



f:id:wazze2001:20220326124009j:plain
佐久間象山大村益次郎遭難の碑(その2)。詳しい駒札(説明看板)もあった。明治維新の志士で、まともに生き延びた人は少ない。


二之舟入

南側にはすぐ二之舟入がある。



f:id:wazze2001:20220326130023j:plain
二之舟入。ここには長州藩邸があったので、高瀬舟は直接長州藩邸に出入りできた事になる。誰にも見られず秘密に出入りする事も可能だった。そう考えると長州藩邸は最高の場所にあったと言うほかない。



f:id:wazze2001:20220326130035j:plain
御池通を横断する。


次々と現れる石碑

f:id:wazze2001:20220326130041j:plain
御池橋に加賀藩邸跡の碑。ここから多くの藩邸跡地が続出する。藩邸が多いのは、高瀬川の水運と、東海道の陸運という、二つの物流拠点だったからに他ならない。人も物も情報も集積する。



f:id:wazze2001:20220326130045j:plain
木屋町通の御池〜五条間は、明治時代に市電建設のため埋め立てたので、道は広くなっている。歩道もあって歩きやすい。

どんどん南へ進んでいこう。



f:id:wazze2001:20220326142310j:plain
水の堰き止めの石が見える。



f:id:wazze2001:20220326142316j:plain
三之舟入



f:id:wazze2001:20220326142323j:plain
四之舟入


武市瑞山寓居跡と吉村寅太郎寓居跡

この辺りから徐々に土佐藩ゆかりの史跡が増えてくる。この先に土佐藩邸があったからだ。



f:id:wazze2001:20220326142433j:plain
武市瑞山寓居跡の碑と、ちりめん洋服発祥の地の碑。武市瑞山は、幕末に活躍した武市半平太のこと。

ちりめん洋服発祥の地については始めて知った。



f:id:wazze2001:20220326142437j:plain
武市瑞山は、料亭「四国屋丹虎」の一室を間借りしていたらしい。この路地の奥にあったという。



f:id:wazze2001:20220326142427j:plain
隣には吉村寅太郎寓居跡。同じ土佐藩士で、土佐勤王党天誅組にも参加した烈士。



f:id:wazze2001:20220326142443j:plain
詳しい駒札まである。吉村寅太郎は、坂本龍馬中岡慎太郎武市瑞山と並んで、"土佐四天王"と呼ばれていた。



f:id:wazze2001:20220326142422j:plain
こちらは、ちりめん洋服発祥の地の説明碑。


桂小五郎寓居跡から三条通

さらに木屋町通を南へ進む。



f:id:wazze2001:20220326195058j:plain
桂小五郎寓居跡。ここは元々、対馬宗氏の屋敷跡で、桂はそこを間借りしていた。池田屋事件のとき桂が逃げ込んだのもここらしい。



f:id:wazze2001:20220326142449j:plain
さきぞう発祥の地というのまである。これはよく分からない。



f:id:wazze2001:20220326142458j:plain
佐久間象山大村益次郎遭難の碑への道標。紛らわしいが、あくまでも道標に過ぎない。実際は先ほどの所。


三条通

東海道は、江戸日本橋から京都三条大橋までを結ぶ日本の大動脈だった。その延長である三条通は京都経済の中心地として栄えた。



f:id:wazze2001:20220326195404j:plain
三条小橋に到着。



f:id:wazze2001:20220326195447j:plain
三条通に着いたので、ここから三条大橋の方へ行こう。


三条大橋

東海道の起点である三条大橋は、言ってみれば、今の京都駅と同じ役割り。なので、その周囲は数多くの旅館が建ち並んだ。(今の京都駅の周囲にホテルが多いのと同じ)

そんな旅館の2階は、志士達の格好の密儀の場となった。この界隈に史跡が多いのは、そんな理由もあった。



f:id:wazze2001:20220326195506j:plain
三条大橋に到着。東海道の起点にして終点。人も物も、そして情報も、全てここに集まった。



f:id:wazze2001:20220326195517j:plain
河畔には、旧三条大橋の石柱と高札の駒札がある。



f:id:wazze2001:20220326195525j:plain
道路をはさんだ向かい側には、弥次さん喜多さんの像。東海道中膝栗毛だからね。



f:id:wazze2001:20220326195539j:plain
橋を渡り始めよう。



f:id:wazze2001:20220326195543j:plain
欄干の擬宝珠に池田屋事件の刀傷。この近くに池田屋があった。後で訪問する。



f:id:wazze2001:20220326195558j:plain
河原の風景。中洲をはさんで右側は「みそそぎ川」という。夏はこの上に納涼床ができる。


鴨川東岸エリア

f:id:wazze2001:20220326210929j:plain
対岸に到着。川端通が通っている。昔はここに京阪電車の地上駅があったが、80年代頃に地下鉄になってしまった。



f:id:wazze2001:20220326211009j:plain
ここでちょっと地下の京阪三条駅に降りてみよう。

新撰組の中には、生き延びて、長生きした人物もいる。永倉新八大正4年まで生きていたし、池田七三郎に至っては昭和13年まで生きていた。

日本最初の地下鉄は昭和2年に開業した銀座線だが、工事自体は大正時代から始まっていた。もしかしたら彼らも目にした可能性はある。少なくとも話は伝え聞いたに違いない。

新撰組の生き残り達は、もし目にしていたら、どんな思いで、地下鉄を眺めたのだろうか。



f:id:wazze2001:20220326211018j:plain
地上に出て、真ん中の狭い道を南へ向かう。この道は大和大路通といって、伏見街道や奈良街道へ続いている。大和の国に行けるので大和大路通というらしい。



f:id:wazze2001:20220326211048j:plain
南へ行って、すぐ右側に小川亭跡。かつて「小川亭」という旅館があった。女将さんは"勤王ばあさん"として知られ、勤王の志士達の面倒をよく見たらしい。



f:id:wazze2001:20220326211051j:plain
小川亭跡(その2)。ここの座敷で、志士達は何度も討幕の密儀をしていたらしい。



f:id:wazze2001:20220326211054j:plain
東へ歩くとすぐに旧有済小学校。既に廃校になっているが、明治時代に作られた望楼は、遠くからも目立つ。国登録有形文化財


池田屋事件

f:id:wazze2001:20220326221335j:plain
また三条大橋を渡って、三条通を西へ進もう。



f:id:wazze2001:20220326221346j:plain
「昭和初期の三条小橋」と「高瀬川生洲」の駒札。昔は高瀬川から水を引き込んで、川魚を食べさせる生簀料理の店が多かったらしい。



f:id:wazze2001:20220326221413j:plain
池田屋事件の碑(その1)。今さら言うまでもない有名な事件。新撰組の名を一躍有名にした。あとは蒲田行進曲でも有名になった?



f:id:wazze2001:20220326221416j:plain
池田屋事件の碑(その2)。今は「池田屋 はなの舞」という居酒屋になっている。後ろの駒札(説明看板)も居酒屋が立てたものだろう。


瑞泉寺

また木屋町通に戻って南へ進もう。



f:id:wazze2001:20220326222128j:plain
瑞泉寺(その1)。豊臣秀吉の跡継ぎとされた豊臣秀次のお墓がある。

秀次は、後継者にも関わらず、豊臣秀吉から謀反を疑われ、切腹させられた。さらには、子供から奥さんまで家族39名すべて処刑されてしまった。

その後、江戸時代に角倉了以は、彼らの菩提を弔うために、このお寺を建てたという。



f:id:wazze2001:20220326222125j:plain
瑞泉寺(その2)。門前に「橋下左内訪問之地」の石碑がある。

左内は、秀次のお墓参りに来たのではなく、ここを定宿にしていた開明幕臣岩瀬忠震の意見を聞くために訪ねたという。

二人は、一橋慶喜の擁立で意見が一致し、その後は共に"一橋派"として活動していく事になる。


坂本龍馬の拠点「酢屋」

さらに南へ歩くと、「龍馬通」の標識が現れる。



f:id:wazze2001:20220326222132j:plain
龍馬通の標識。この先に坂本龍馬の拠点があったからだ。入っていこう。



f:id:wazze2001:20220326222406j:plain
坂本龍馬寓居跡(その1)。ここは代々続く材木商で、屋号は「酢屋」。この2階を坂本龍馬は拠点にしていた。



f:id:wazze2001:20220326222412j:plain
坂本龍馬寓居跡(その2)。2階に海援隊京都本部を置き、龍馬も2階の表通りに面した部屋を使っていたらしい。



f:id:wazze2001:20220326222409j:plain
坂本龍馬寓居跡(その3)。後で述べる壺屋や近江屋もそうだが、この辺りは商家が多かった。

東海道の陸運や高瀬川の水運など、物流拠点だった事も関係していただろう。いずれにしろ、商家が多かったおかげで、志士達の拠点も多かった。商家の屋敷を間借りしているケースが多かったからだ。



f:id:wazze2001:20220326222415j:plain
坂本龍馬寓居跡(その4)。今は1階が店舗、2階が龍馬関係のギャラリーとして一般公開されている。当時も今も、そのまま酢屋が営業を続けているとは、いかにも京都らしい。



f:id:wazze2001:20220326224248j:plain
すぐ近くには、後藤象二郎寓居跡もある。

同じ土佐藩士で、龍馬とも親交があった。後藤は、ここにあった醤油商「壺屋」を、京都での拠点にしていた。

今はホテルリソル京都が建っていて、ホテル内には後藤象二郎ギャラリーもあるらしい。


再び木屋町通

木屋町通に戻って、材木橋から南下しよう。



f:id:wazze2001:20220326224950j:plain
高瀬川にかかる材木橋。この辺りは高瀬川水運を利用した材木商が多かった。そのため材木町や材木橋などの名前が生まれた。



f:id:wazze2001:20220326224324j:plain
木橋の反対側を見ると、道路の突き当たりに先斗町歌舞練場。

先斗町京都五花街の一つで、幕末には多くの志士が闊歩した。その歌舞練場は昭和2年築の近代レトロ建築。



f:id:wazze2001:20220326224320j:plain
南へ歩くと彦根藩邸跡。安政の大獄を主導した井伊直弼のイメージが強い彦根藩だが、桜田門外之変で直弼が討たれた後、藩論は勤王に転じた。ここは勤王の志士達の溜まり場になった事だろう。



f:id:wazze2001:20220326224954j:plain
近くに良い感じの町家があった。大正か昭和初期の築だろうか。今は居酒屋になってるようだ。京都は本当に凄い。



f:id:wazze2001:20220326224958j:plain
六之舟入跡。



f:id:wazze2001:20220326225001j:plain
七之舟入跡。


土佐藩邸跡

ついに広大な面積を誇った土佐藩邸跡に着いた。立誠小学校のあった所のほとんどが敷地だったらしい。



f:id:wazze2001:20220326225238j:plain
土佐藩邸跡の石碑と駒札。ここは一番東北角で、敷地はここから始まった。



f:id:wazze2001:20220326231318j:plain
土佐藩邸跡には立誠小学校が建っていた。昭和2年築のレトロな校舎で、近代建築としても価値がある。

近年廃校になり、今はホテルや店舗、ホールなどの複合施設になっている。一番良い形かもしれない。



f:id:wazze2001:20220326231324j:plain
土佐藩邸跡には日本映画発祥地の駒札もあった。明治30年に稲畑勝太郎が、日本で最初に映画を試写した場所らしい。



f:id:wazze2001:20220326225313j:plain
立誠小学校の北側に土佐稲荷がある。本来は岬神社というのだが、土佐藩邸の敷地内にあり、土佐藩士の崇敬か篤かったので"土佐稲荷" と呼ばれるようになったらしい。



f:id:wazze2001:20220326225310j:plain
土佐稲荷(その2)。元々は土佐藩邸内にあったのだが、色々あって今の敷地に移ったらしい。



f:id:wazze2001:20220326225320j:plain
土佐稲荷(その3)。坂本龍馬土佐藩邸内に七日間の蟄居を命じられた時も、この神社を崇めていた、と伝えられている。



f:id:wazze2001:20220326225316j:plain
土佐稲荷(その4)。境内に坂本龍馬像もあった。京都には何体あるのだろう。


坂本龍馬終焉の地

河原町通に出ると、すぐ南西側に坂本龍馬終焉の地がある



f:id:wazze2001:20220326225328j:plain
坂本龍馬中岡慎太郎遭難之地(その1)。ここで坂本龍馬は襲われた。いまだに犯人は分かってないが、大方の予想通り、見廻組だろうと僕も思っている。

それにしても河原町通の人通りの多いところで、周りは買い物客でいっぱい。この写真を撮るのも苦労した。石碑と駒札があるだけなんて、寂し過ぎないか。



f:id:wazze2001:20220326225331j:plain
坂本龍馬中岡慎太郎遭難之地(その2)。ここには近江屋という醤油屋があった。寺田屋事件の後、龍馬は密かに酢屋から近江屋に移っていた。

もちろん近江屋も志士達を支援した商家だった。忘れてならないのは、志士達を支援した数多くの商人がいたから、明治維新は達成されたのだ。



・・・・・・・・・



よくヨーロッパの市民革命との比較で、欧州は市民だが、日本は武士がやったという人がいる。司馬遼太郎の小説や大河ドラマなどの影響で、あたかも武士だけの出来事のように思われてしまった。

しかし実態は、武士と商人がタッグを組んで行った革命といえる。(さらには月照のような勤王僧侶もいたし、新撰組のような農家出身の志士もいた)


河原町通から木屋町通

ここから再び木屋町通に戻ろう



f:id:wazze2001:20220326235420j:plain
木屋町通に戻る途中に、関西電力河原町変電所がある。ここはかつて京都電燈の発電所があった所だ。

同社は琵琶湖疏水による水力発電から、鉄道業まで行った(後の京都市電)。ここにあるのはその名残り。



f:id:wazze2001:20220326231128j:plain
木屋町通に着くと、すぐに八之舟入跡。



f:id:wazze2001:20220326235334j:plain
その向かい側には本間精一郎遭難之碑。そのまま南へ進もう。



f:id:wazze2001:20220326230957j:plain
九之舟入跡。


また河原町通

f:id:wazze2001:20220326235429j:plain
河原町通へ戻る途中に古高俊太郎邸跡。勤王派の志士で、新撰組に捉われた後、六角獄舎で斬首された。



f:id:wazze2001:20220326225505j:plain
河原町通に戻ってきた。人混みの中に中岡慎太郎寓居跡がある。人気のスィーツショップの前らしく、若い女性達が大勢いた。

その落差!というか場違いな雰囲気に戸惑う。確かに幕末の頃、ここには書店「菊屋」があり、中岡はその2階を間借りしていた。

ここにいる女性達も名前くらいは知っているだろう。中岡慎太郎。慶応3年の冬、坂本龍馬とともに近江屋で暗殺されたのだ。



・・・・・・・・・



これで木屋町の史跡は終わる。二条から四条の間に集中しているのが分かっただろう。理由は何度も述べた通り、藩邸と商家が集中していたからだ。

ところが薩摩藩だけは違った。


最後は薩摩藩邸へ

今まで長州や土佐などの名前は散々出たが、薩摩の名前はまったく出なかった。あれほど活躍したというのに。

理由は、薩摩藩邸が錦小路と二本松という"飛び離れた所" にあったからだ。なぜ薩摩藩邸だけ離れていたのか。

それは後で語るとして、とりあえず錦小路藩邸に行こう。二本松の方は離れ過ぎているので西陣編で訪問したい。



f:id:wazze2001:20220326235736j:plain
という訳で四条通を西へ向かおう。錦小路薩摩藩邸は大丸デパートの脇にある。



f:id:wazze2001:20220326235741j:plain
四条通は新しいビルばかりなので、錦小路を通っていく事にした。まずは新京極通を北へ上がる。



f:id:wazze2001:20220326235747j:plain
すぐ右側に松竹発祥の地がある。特に看板がある訳ではないが、結構有名な話だ。松竹兄弟がここに寄席を作ったのが始まりという。

実は、新京極は芝居や落語、映画など、演芸のメッカ。今は東京や大阪の方が盛んになったが、かつては京都こそ演芸発祥の地だった。


錦小路

錦小路に到着した。まずは東端にある錦天満宮にお参りしてから西へ行こう。



f:id:wazze2001:20220326235755j:plain
天満宮(その1)。新京極と錦小路の交差する所に錦天満宮はある。学問の神様だが、ここでは商売の神様のようだ。



f:id:wazze2001:20220326235759j:plain
天満宮(その2)。いつも人で賑わっており信仰の篤さがうかがえる。写真は撮らなかったが、ビルに食い込んだ鳥居も有名。



f:id:wazze2001:20220326235805j:plain
そのまま錦小路を西へ歩こう。"京の台所"として有名で、東京でいえば上野のアメ横みたいなもの。観光客も多い。


薩摩藩邸跡

東西に長い錦小路のうち、西の方と言って良いだろう。大丸デパートに到着した。その脇に薩摩藩邸跡はある。



f:id:wazze2001:20220326235812j:plain
錦小路薩摩藩邸(その1)。大丸デパートの脇に石碑はあった。荷物搬入口の横で、トラックが頻繁に行き来するような場所。よく探さなければ見つからない。長州藩邸跡や土佐藩邸跡と比べると、雰囲気は良くない。



f:id:wazze2001:20220326235815j:plain
錦小路薩摩藩邸(その2)。まぁ、仕方ない。幕末のころ、薩摩藩邸は二本松に移ってしまい、そちらが有名になった。

それにしてもなぜ当初、ここに建てたのだろう。二本松は御所に近く、御所の守りを考えると便利な場所と言える。それに比べて、ここは御所からも遠い。さらに人や物、情報の集積地だった木屋町からも遠い。これは本当に謎だ。



f:id:wazze2001:20220326235819j:plain
錦小路薩摩藩邸(その3)。違法駐車に邪魔されて、上手く写真も撮れない。あまりよろしくない場所、というのが分かるだろう。とりあえず薩摩藩邸は二本松の方に期待して、ここは終わる事にしたい。



・・・・・・・・・



今回の木屋町の旅は、とにかく史跡の多かった事、それに尽きる。何度も言うが、商家の多かった事が主な理由だ。

そして、支援する商人の存在が無ければ明治維新は成功しなかった、という事もよく分かったのではないだろうか。

明治維新は、市民と武士の共同作業だったのだ。



〜 終わり 〜