京都の異界を歩く

ちょっと変わった京都の探訪記です

明治維新を歩く(その2)〜清水寺編〜

明治維新の舞台となった京都。多くの歴史的事件がこの街で起きた。薩摩・長州や新撰組などが暗躍し、坂本龍馬もこの街で亡くなった。

しかし尊王派の僧侶も活躍していた事は、あまり知られていない。しかも有名な清水寺西本願寺など、意外と大きなお寺にいたという。

今回は八阪神社から、霊山護国神社を経て、清水寺に向かう。その中で、多くの人たちが、絡み合って動いていた事も分かるに違いない。



※「明治維新を歩く」と言っておきながら、それ以外も寄り道しまくる事、あらかじめご容赦いただきたい。異界があれば寄る主義なのだ。


八阪神社から歩き始める

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八阪神社(その1)。四条通の突き当たりにそびえたつ西楼門。桃山断層の階段の上に建っているので、遠くからでも目立つ。今回はここから歩き始めよう。



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八阪神社(その2)。まずは本殿にお参り。京の街は過去に何度も疫病が流行った。ここは疫病退散を目的に建てられたのだ。商売繁盛は後から加えられたに過ぎない。



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八阪神社の裏には、円山公園が広がっている。有名な“しだれ桜”もあって、花見のシーズンは大勢の人が来るらしい。



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八阪神社からスタートしたのは、ここに来たかったから。有名な坂本龍馬中岡慎太郎の像。二人が並んでいるのは共に倒れたからだろう。


長楽館

円山公園の脇の道を西へ進むと、立派な洋館が見えてくる。長楽館だ。



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長楽館(その1)。明治42年築の京都市指定有形文化財。"煙草王"と呼ばれた村井吉兵衛が、京都の別邸として建てた。



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長楽館(その2)。伊藤博文大隈重信山縣有朋など、多くの明治元勲が来たらしい。さすが室内も見応えがある。



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長楽館(その3)。意匠は細部に至るまで手が込んでいる。現在はホテル&レストランとして営業中。


長楽館から南へ

長楽館を出て南へ歩いていこう。ここから先は芭蕉堂や祇園閣など見どころが多い。



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すぐ左側に大谷祖廟への参道が現れる。親鸞上人の御廟だ。菊溪川探索のとき訪れたので、今回はお参りせず通過する。



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続いて円山公園野外音楽堂。70年代の「フォークキャンプ」や80年代以降の「宵々山コンサート」など、京都の有名コンサートは、ほとんどここで行われた。



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今度は右側に大雲院。織田信長の子、信忠の菩提を弔うために建てられた。元々は別の場所にあったのを戦後移築されたらしい。この門は江戸時代の築。



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突き当たりの正面に芭蕉堂。西行法師が庵を結び、そして終焉の地でもあった。この奥に庵がある。



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突き当たり右側に祇園閣。昭和2年築の国登録有形文化財大倉財閥の創業者、大倉喜八郎が京都別邸として建てた。その奇抜なデザインを設計したのは伊東忠太


ねねの道

豊臣秀吉正室ねねが余生を送ったので名付けられた道。圓徳院や高台寺など雅な庭を持つお寺が多い。南へ歩いていこう。



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この道は菊溪川探索のとき何度も歩いた。かつては名前も付いてなかったような気がする。今や電線地中化や石畳み化も完成して、とても見栄え良くなった。観光客も多いので、本当に喜ばしい事だろう。



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歩いていくと左側に、野茂英雄ポートランド コーヒーロースターズ(真ん中の小屋)。今日は定休日のようだ。

ここは野茂がメジャーリーグ在籍中に、ポートランドコーヒーの美味さに感動して、引退後に日本で始めたお店。

菊溪川探索のとき訪れたが、その時は大勢のお客さんがいた。かなりの人気店らしい。


月真院

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さらに南側に月真院というお寺。臨済宗建仁寺派の寺院で、高台寺塔頭らしい。ここは明治維新に関わるお寺だ。門前に石碑と駒札(駒形の説明看板)があるので見てみよう。



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月真院(その2)。「御陵衛士屯所跡」とある。新選組を脱退した伊東甲子太郎らが作った「御陵衛士」の屯所跡だった。別名「高台寺党」とも呼ばれたという。

京都といえば新撰組。あらためて「新撰組を歩く」というのをやってみたいと思っている。



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月真院(その3)。境内には織田信長の子、有楽斎が植えたと言われる椿があるという。ただ公開時期しか拝観できない。


圓徳院

月真院に続いて、高台寺へ上がる坂道があったのだが、菊溪川探索のとき訪問したので今回は通過した。そのまま圓徳院へ進もう。



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圓徳院(その1)。この道は何度も通ったが、ここは一度も入った事がないので、今回入ってみよう。



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圓徳院(その2)。ここも高台寺塔頭で、"ねね"の作ったお寺だ。晩年の"ねね"は自分だけの理想郷を作りたかったらしい。美しい舞を舞う若い女性たちを集めて、周辺に住まわせたという。



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圓徳院(その3)。この大広間から見られる庭が特に有名らしい。かつて秀吉と住んだ伏見城の庭を、そのまま移築したという。



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圓徳院(その4)。かつて周囲の山には菊溪菊の黄色い花が咲き乱れていた。竹林には幽玄な茶室があった。そこに美しい舞を舞う若い女性たちと、伏見城から移築した枯山水。まさに"ねね"にとってパラダイスだったに違いない。



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圓徳院(その5)。ここがそうなのだが、思ったより小さかった。その形状から、雨が降ったら水がたまるのか、とボランティアガイドに聞いたら、それは無いという。すべて浸透するようだ。


三面大黒天

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圓徳院を出ると、三面大黒天の境内だった。せっかくなのでお参りしておこう。



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三面大黒天(その2)。ここもかなり人気らしい。大勢の参拝客がいた。(写真はなるべく人が写らないように撮っている)


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三面大黒天(その3)。豊臣秀吉の出世守り本尊だという。大黒天と毘沙門天、弁財天の三面を併せ持っているのでその名が付いた。もちろん御開帳日じゃないと見られない。


石塀小路と春光院

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三面大黒天から歩いていくと、石塀小路の入口が現れる。かつては富裕層向けの高級貸家街で、一般人が入るには敷居の高い所だった。今は有名になってしまったので、観光客が闊歩している。

菊溪川探索のとき歩いたので、今回は入り口を眺めるのみで通過。



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さらに右側には春光院。立派な茅葺き門が見事だ。ここも明治維新とゆかりがある。

尊王攘夷派の僧侶として活躍した月照は、ここにも住職として居住していた時期があった。そしてここで、西郷隆盛有村俊斎など薩摩藩の志士達と、討幕に向けての密儀を重ねたという。西郷は相当目立ったろうから、"密儀"だったのかは怪しいが(笑)


維新の道


やがて維新の道に突き当たる。明治100年にあたる昭和43年に「維新の道」と名付けられた。勤王の志士を祀る霊山護国神社やその墓地、さらに霊山歴史館などがある。明治維新ファンは避けて通れないだろう。



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ここから維新の道は始まる。看板が並んで、何だか仰々しい。維新の道と名付けたのは霊山顕彰会。その初代会長はパナソニック創業者の松下幸之助だ。

左側には見えないが並行して高台寺への表参道もある。とにかく上がっていこう。



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霊山護国神社の鳥居に到着した。ここから神域か。手前右側には道があり、二寧坂から降りてきた道らしい。右側は京大和という老舗料亭だったが、一部を残して、大半がパークハイアット京都というホテルになった。


翠紅館跡地

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さらに進むと、京大和という料亭に到着。大半はパークハイアットに引き渡したが、ここだけは京大和のままだ。

実は明治維新にとっても重要な場所。右側に、石碑と駒札があるので見てみよう。



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翠紅館跡とある。幕末に開かれた翠紅館会議で有名な場所だ。

明治10年に京大和ができる前は、西本願寺の別邸があった。その美しさから翠紅館と名付けられたという。当時の本願寺宗主・広如は、勤王の旗印を鮮明にし、尊王攘夷の志士達に、部屋を自由に使わせていた。

その部屋を使って、志士達は何度も会議を重ねたという。その会議を翠紅館会議といった。



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翠紅館跡の左側には石碑が幾つも建っている。どれも明治維新に関係しているようだ。

翠紅館に集まったのは、例えば土佐藩武市半平太長州藩井上聞多久坂玄瑞桂小五郎久留米藩真木保臣など。錚々たるメンバーだった。

そんな尊王攘夷運動だが、八月十八日の政変で事態は一変する。京は新撰組の暗躍する世界となり、政局は混迷を深めていく。


霊山護国神社

さらに坂を上がると霊山護国神社に到着する。明治に新しくできた神社だ。



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霊山護国神社(その1)。出発点は招魂社だ。明治維新で亡くなった志士を祀るために造られた。その後、東京に政府が移ると、都内にも造るべし、という機運が高まり、東京招魂社が造られた(今の靖國神社)。つまり靖國神社より古いのだ。



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霊山護国神社(その2)。日本全国に招魂社は造られたが、昭和に入って、すべて護国神社と改称させられた。ここは全国の護国神社靖國神社の起点になった神社といえる。



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霊山護国神社(その3)。その後、全国の護国神社と同じように、明治以降の日清戦争日露戦争、さらには太平洋戦争などの戦死者も祀られるようになった。


坂本龍馬墓地

ここに来た最大の理由は、坂本龍馬達のお墓にお参りするためだ。上がってみよう。



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何やら電車のゲートのような感じになっている。ここが坂本龍馬中岡慎太郎などの墓地への入り口だ。お金を払って、入っていこう。



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坂道を上がると、すぐに墓地の地図がある。これを見ると、坂本龍馬中岡慎太郎以外にも、多くの志士が眠っている。しかも有名な志士が多い。

時間があれば全部回りたいところだが、さすがに今回は時間が無い。次回を期して、今回は坂本・中岡のみの参拝としよう。



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坂本龍馬墓地(その1)。坂本龍馬中岡慎太郎両氏の墓地に到着した。鳥居があるので戸惑うが、神様として祀られているので、まぁそういう事なのだろう。龍馬がこれを見たら苦笑いするかもしれない。



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坂本龍馬墓地(その2)。真正面の二つの細い石柱が、坂本龍馬中岡慎太郎のお墓だ。思ったより質素だったのでホッとした。これでこそ龍馬らしい。

新しい花が供えられてるのは、やはり人気が高いので、いつも供花が絶えないのだろう。



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坂本龍馬中岡慎太郎墓地(その3)。ここにも坂本・中岡像があった。本当に京都に多い。あまりにも偶像化しすぎじゃないか?と思うがしようがない。それよりも司馬遼太郎の影響の大きさに苦笑するべきだろう。



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墓地からの景色は素晴らしい。京都全体が見渡せる。本当に良いところに坂本は眠れたね、と言葉をかけるしかない。


霊山歴史館

墓地を降りてから、元の道に戻ると、目の前は霊山歴史館だ。



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先にも紹介した霊山顕彰会が作った歴史博物館。明治維新に絞ったのが特徴といえる。入ってみよう。



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霊山歴史館(その2)。とはいえ中は撮影禁止なので、ここから写すしかない。中身は多くの方が想像するような内容だった。ここでは二つだけ言っておきたい。

一つ目は、老中阿部正弘堀田正睦の影が薄いように見える。全体的には、薩摩長州から新撰組まで、偏る事なく取り上げているが、何となく徳川方の開明幕臣の取り上げ方が少ないような気がする。いわゆる薩長史観の影響だろうか。



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霊山歴史館(その3)。3つ目は、武士と市民の共同作業で明治維新は行われたのだが、ここには市民の姿がほとんど出てこない。具体的にいうと、近江屋や壺屋などの商人たちだ。彼ら無くして維新は成功しなかった。それなのに何故?司馬遼太郎海音寺潮五郎の影響だろうか?

という思いで、この歴史館を後にした。まぁ分かる人には分かるだろうが。


霊山から産寧坂

歴史館を出た後、産寧坂へ坂を降りていくことになる。



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歴史館を出ると、すぐ右側に龍馬坂が見える。坂本龍馬中岡慎太郎の葬列が、この坂を上って来たので名付けられたという。

それにしても、京都には龍馬通とか龍馬坂とか多くないか。いずれも龍馬にゆかりがあるのだろうが、安直過ぎないか。一人を偶像化するのは良くない。



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この辺りが頂点のようだ。左側にはホテル霊山があったが解体された。跡地にはシンガポール系の高級ホテル「バンヤンツリー ホテルズ&リゾーツ」が進出するらしい。



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産寧坂へ向けて坂を降りていこう。右側は普通にマンションが建っているのだが、この場所だけに高そうだ。



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産寧坂に到着した。これは振り返ったところ。この奥に興正寺の霊山本廟があるので、仰々しい石柱が建っている。


明保野亭跡

維新の道と産寧坂の交差点の北側に明保野亭跡がある。会津藩土佐藩の一触即発の危機となった「明保野亭事件」のあった所だ。



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明保野亭跡(その1)。今は青龍苑という庭園になっている。料亭の明保野亭が移転していった後、京都坂口という料亭になり、そこに2000年頃、今のような庭園が完成したらしい。(さらに近年、老舗を集めた現在の複合施設ができた)

庭園だけは無料で入ることができる。行ってみよう。



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明保野亭跡(その2)。その美しい庭は、京都を代表する庭師、七代目小川治兵衛(植治)の造ったものを、さらに2000年に再構築したという。

さて、明保野亭事件とは次のようなものだ。元々尊王攘夷の志士達の密儀の場となっていた明保野亭だが、ある時、討幕に向けて長州藩士が集まっている、という情報が新撰組にもたらされた。会津藩士と新撰組は現地に急行する(続く)



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明保野亭跡(その3)。美しい茅葺きの茶室が並んでいる。これらは名園にあったものを移築したり再現したものらしい。

(続き)明保野亭を急襲した会津藩士は、現地にいた武士を斬ったのだが、そもそも誤情報で、斬られたのは無関係の土佐藩士だった。彼は一命を取り止めたものの、背中に傷を受けたのは恥じとし、切腹してしまった。それを伝え聞いた土佐藩士達はいきりたった。会津藩と一戦交えるべしと。また会津藩士達もそれなら受けて立つと意気軒昂(続く)



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明保野亭跡(その4)。どこを切り取っても絵になる。こんな見事な庭園が無料で見られるとは、なんて素晴らしいことか。東山に行ったらぜひ散策してほしい。できれば一人静かに。

(続き)困ったのは会津藩主、松平容保公だ。幕府から京の治安を任されていたのに、その膝下で会津藩土佐藩が一戦交えようとしている。もはや止められない。その藩主の苦悩を知った柴司(斬った方の会津藩士)は、くい止めるために切腹して果てた。それを知り土佐藩士も会津藩士も鉾を納めた。戦争は回避された。この一件を明保野亭事件という。


産寧坂から清水坂

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では再び産寧坂を南へ進もう。



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轟川に到着した。「一寸法師がお椀に乗って川を上がった」という伝説は、この川だという説がある。その説明看板(駒札)まであった。



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その反対側の道。かつて「轟川を歩くと」のとき歩いた。この道を上がると清水寺に向かう。



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引き続き産寧坂を上がろう。観光客も多い。この左上に、移転後の明保野亭がある。小さく看板も見えるので近付いてみる。



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明保野亭。先ほどの所から移転して、長い間、ここで営業していた。残念ながら今はコロナで一時休業中だ。



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明保野亭の看板。坂本龍馬も通ったというこの店が、今でも営業しているというのは本当に凄い。何とかコロナが収まって早く再開してほしい。


清水坂を上る

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ついに清水坂に到着した。この坂を上がって清水寺に向かおう。



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すぐ左側に教書堂(来迎院)がある。清水寺成就院塔頭で、独特の経木を奉納したのでその名が付いたという。



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続いて右側の路地を入ると、五龍閣が建っている。大正12年築の洋館で国登録有形文化財。設計は武田五一という有名な建築家だ。夢二カフェとして営業していたが、今は一時休業中。再開が待たれる。



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今度は左側に真福寺大日堂。東日本大震災で流された陸前高田の松を、"一人ひと削り運動"で1万人以上が削って大日如来を造り、ここに奉納したという。



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また坂を上っていこう。



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左側に宝徳寺が現れる。本尊の阿弥陀如来は、飛鳥時代の608年、聖徳太子が厄除け守護仏として自刻した、という伝承があるらしい。

このように清水坂には、由緒ある古刹が次々と現れるのだが、あまり知られていないせいか、ほとんどの方は通過していく。もったいない、としか言いようがない。


子安塔伝説

子安塔跡地に到着した。子安塔といっても知らない人の方が多いだろうが、清水寺の"奥の院"にある三重塔といえば分かってくれるだろうか。実はかつて門前にあったのだ。



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まずは右側の清水寺警備室を見てみよう。ここに明治44年まで子安塔があった。その跡地を標す石碑があるので近付いてみたい。



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子安塔跡の石碑がこれだ。光明皇后が安産祈願をしたところ、無事に内親王が産まれたので、観音堂を建立した。それを子安塔という。という訳で、清水寺の創建より、もっともっと古いのだ。

また光明皇后が子安塔に浴室を作って、癩者の身体を洗った、という伝承もある。やがて癩者は仏に生まれ変わったという。この先の、音羽の滝に打たれると癩病が治る、という伝承と併せて考えると、清水寺は弱者救済のお寺だった、という性格が分かるだろう。


清水寺に到着

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ついに最後の目的地、清水寺に到着した。眼前に巨大な仁王門が聳えている。今回は成就院を目指すので、左側の成就院参道を歩こう。



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仁王門から左側へ進むと、おびただしい数の石仏群が現れる。これは明治初期の廃仏毀釈で市中に捨てられた石仏を、集めて祀ったものだという。なのでお地蔵さんや観音様、阿弥陀如来大日如来など様々だ。やはり清水寺は"捨てられたもの"(つまり弱者)を救済するお寺だった。



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やがて成就院の前庭の池が現れる。成就院は「月の庭」が有名だが、それはここではない。

それよりここは轟川探索の時訪れて、源流探しで散々歩き回った。想い出の池といえる。


成就院

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清水寺塔頭(附属寺院のこと)、成就院に到着した。拝観寺院ではないので、特別公開日しか室内は見られない。ただ建物は寛永年間の築なので、外からでも十分感じられるものがある。じっくり眺めてみよう。



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成就院(その2)。ここは勤王僧として活躍した月照と信海のいた寺だ。特に月照西郷隆盛の友人だったので、西郷のほか水戸藩士など多くの志士が、ここを訪れたらしい。安政の大獄までは、ここで何度も倒幕の密儀が行われた。明治維新を語る時ここは避けて通れない。



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成就院(その3)。ここは建物自体も面白い。寛永年間の築というが、この"煙抜き"も昔からあったのだろうか。興味津々だ。

さて安政の大獄の後、幕府に追われた月照は薩摩に逃れる。だが当時の薩摩の藩論は公武合体だったため、月照は受け入れられなかった。月照は全てを悟り自殺する。

また、信海も幕府に捉われ、江戸へ護送されて、牢獄で獄中死する。さぞや激しい拷問のあった事だろう。こういった勤王僧のいた事は、もっと多くの方に知ってほしい。


清水寺

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では清水の舞台へ向かおう。



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もちろん観音様へもお参りしなくてはならない。先ほどから言った通り、弱者救済の仏様はこのお方なのだ。



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舞台からの景色は素晴らしい。何度来ても感動する。江戸の昔から、多くの人を魅了してきたのも頷ける。



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清水の舞台から降りていくと、音羽の滝に到着する。例の"癩者が治癒した"という霊験あらたかな滝だ。かつて音羽川探索のさい、散々眺めた場所でもある。



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そのまま歩いていくと、清水の舞台を下から見上げる場所に出る。ものすごい迫力だ。



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そのまま出口に向かって歩いていこう。


舌切茶屋と忠僕茶屋

やがて二つの茶屋に出る。ここも明治維新と関わりのある茶屋だ。



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舌切茶屋(その1)。月照には"お付き"の武士がいた。近藤正慎という。月照が薩摩に逃れたとき、京に残っていた近藤は捕えられ、月照の逃亡先を白状するよう拷問を受けた。

近藤は無意識に口にしてしまうのを恐れ、自害を決意する。だが武士の命の刀は取り上げられ、舌を噛み切ろうにも拷問で体力が無い。最後は、牢獄の壁に頭を打ち付けて、舌を噛み切って死んだという(続く)



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舌切茶屋(その2)。その後、明治になって清水寺は、近藤正慎の遺徳を称え、彼の遺族(奥さんと子供がいたらしい)のために、清水寺境内にお茶屋を出す権利を与えた。その遺族の営んだ茶屋は、近藤の死を後世に伝えるため「舌切茶屋」と名付けられた。今も変わらず、代々遺族が営んでいるという。



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舌切茶屋から歩いていくと、忠僕茶屋が現れる。だが残念ながら閉まっていた。コロナのためだろう。

ここも月照とゆかりのある茶屋だ。大槻重助という月照の付き人がいて、薩摩逃亡にも同行していた。大槻は月照の自殺を見届けると、遺品を携えて京都に戻ってきた。しかし幕府に捕らえられ、六角獄舎に投獄されてしまう。その後、解放された後も、大槻は月照の墓を守って暮らしたという。

清水寺は彼の忠義を称え、茶屋を出す権利を与えた。その忠義の姿から、忠僕茶屋と名付けられた。今も変わらず、代々遺族が営んでいるという。



・・・・・・・・・



これで清水寺編を終わる。尊王攘夷派の僧侶が何人もいて、活躍した事が分かっただろう。清水寺月照や信海、さらには本願寺の宗主・広如もそうだ。

明治維新は決して武士の力だけで成立したのではない。前回の「木屋町編」では市民の力が大きかった事を伝えたが、今回は僧侶も活躍した事を伝えた。

明治維新は、武士や市民、僧侶など様々な人々の力が混ざり合うことによって成功できたのだ。



〜 終わり 〜