京都の異界を歩く

ちょっと変わった京都の探訪記です

明治維新を歩く(その4)〜二条城編〜

明治維新の舞台となった京都。多くの歴史的事件がこの街で起きた。薩摩・長州や新撰組などが暗躍し、坂本龍馬もこの街で亡くなった。


今回は二条城を巡る。大政奉還の場として、あまりにも有名だ。だがその周辺には、それだけじゃない "異形の歴史" も秘められていた。


※「明治維新を歩く」と言っておきながら、それ以外も寄り道しまくる事、あらかじめご了承いただきたい。異界があれば寄る主義なのだ。


六角獄舎から歩き始める

二条城の近くにある最大の "異界" は六角獄舎。幕末には、数多くの尊王攘夷派の志士達が、ここで処刑された。まずはここから歩き始めよう。




六角獄舎(その1)。「盟親」と書かれた門を入ると、すぐに石碑や祠、駒札などが建ち並んでいる。ここが敷地の一画らしい。

ここで平野国臣や古高俊太郎が処刑された。平野は「我が胸の燃ゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山」を詠んだ人物だ。

では近づいてみよう。




六角獄舎(その2)。右側の駒札(説明看板のこと)に、禁門の変の際におきた悲惨な事件が書いてある。

戦火が延焼し、京都市中に大規模火災が発生、それが六角獄舎にも迫ってきた。幕府側は、判決前にも関わらず、33名の志士を斬首してしまう。だが結局、六角獄舎に火は来なかった。何という事か・・・。その中に平野も古高もいたのだ。

なお、斬首に使われた刀を洗う「首洗井」が、埋め立てられてはいるが、敷地内に現存しているらしい。




六角獄舎(その3)。日本近代医学発祥という石碑もあった。

ここは宝暦4年、山脇東洋が、日本で初めて人体解剖を行った場所だという。解剖には死刑囚が用いられたとの事。これは初めて知った。ここはもう徹底的に異界のようだ。




六角獄舎(その4)。入り口から奥を見ると、左右はマンションだが、遠くに白壁の建物が見える。盟親という名前の厚生施設だ。

明治中頃に牢獄は移転していき、跡地にできた施設が盟親。"刑務所を出たものの身寄りが無い" という人の保護・更生施設だ。

かつて書いた「鳥辺野への道を歩く」で考察したが、江戸時代に幾つかあった火葬場跡は、現在すべて公共施設になっている。東山区役所や新道小学校、京都市公設西院老人デイサービスセンターなどだ。

今回の牢獄・処刑場跡も、保護更生施設になったという事なので、ざっくり考えると、同じ傾向にあると言えるのではないか。


武信稲荷

六角獄舎の隣に行くと武信稲荷という神社がある。ここには坂本龍馬にまつわる伝説があるという。どんな伝説なのだろうか。




武信稲荷(その1)。平安時代初期に、この辺りに延命院という治療院と、勧学院という学問所ができた。武信稲荷は、それらの守護神として祀られたものだという。




武信稲荷(その2)。延命院と勧学院は、右大臣を務めた公家の藤原良相によって創られたという。とにかく古い時代だ。その治療院や学問所が牢獄刑場になった、というのは摩訶不思議な運命という他ない。




武信稲荷(その3)。敷地内に樹齢約850年の御神木である榎(えのき)がある。平成25年、一部の枝が折れ落下してしまった。それをチェーンソーアート世界チャンピオンの城所ケイジ氏に依頼して、龍の姿に生まれ変わらせたという。




武信稲荷(その4)。御神木の榎は、坂本龍馬とも繋がりがあるという。説明看板によるとこうだ。

隣の六角獄舎には龍馬の妻お龍の父親も、勤王派の医師だったため、捕らえられていた。龍馬とお龍は何度か面会に訪れるが叶わない。そのため御神木の榎に登って、中の様子を窺ったという。

その後、龍馬は身を隠し、お龍は一人心配な日々を送っていた。ある時、武信稲荷を訪れると、榎に"龍"の文字を発見。龍馬からの無事を知らせる伝言だった。その後2人は再会できたという。

もちろん伝説であって、真実かどうかは分からない。ただ京都という街は、本当に各地に坂本龍馬伝説があるものだ、と感心させられる。


三条通へ向かう

武信稲荷を出て三条通へ向かおう。ただ、ここでも色々なものに出会ってしまう。




すぐ隣にお地蔵さんを発見。京都は本当にお地蔵さんが多い。




また、その隣に近代建築の中西医院。昭和初期だろうか。外壁は直されているようだが・・・。本当に京都は近代建築の宝庫だ。




向かい側には三条台若中会所。昭和2年築の古い民家だ。祇園祭の神輿渡御に奉仕している団体の施設らしい。三条台若中という団体は、元禄時代から世襲で続いている、というから凄い。




ようやく三条商店街に到着した。この辺りはアーケードがあって賑わっているようだ。

ここがあの三条通から続いている道とは思えないが、堀川通から西側は別世界。地元密着の店と、町家を改造したカフェなどが仲良く並んで、活気に溢れている。ちなみに長さ800mのアーケードは西日本最大級だそうだ。いつかゆっくり歩いてみたい。


大宮通を北上する

三条通から北は、大宮通を北上する。二条城目指して一直線。だがまた色々なものが登場してしまう。




ここが大宮通平安京創設以来あるという由緒ある道だ。大宮というのは御所の事で、内裏に接していたため名付けられたらしい。

ちなみに右側に写っている白壁も立派な土蔵で、何か由緒ある屋敷のようだ。静かな住宅街こそ隠れた旧跡があるに違いない。




すると、すぐ右側に立派な和風御殿が現れた。表札を見ると二尊円導教会というらしい。後で調べたら高野山真言宗のお寺だった。向拝の屋根の唐破風が見事すぎる。しかも銅板葺きだ。こんな建物がひっそりと建ってるなんて、やはり京都は凄いね。




続いて現れたのは二条陣屋。この門の奥に素晴らしい建物が建っているらしい。しかも国指定重要文化財とのこと。入ってみよう。




二条陣屋(その2)。入り口に駒札があった。見てみよう。

それによると、江戸後期に豪商の屋敷として、趣向を凝らして建てられたという。大名の泊まる宿も兼ねていたため、陣屋と呼ばれたらしい。早くも昭和19年に、国指定重要文化財に指定されたというから、その凄さが分かるだろう。




二条陣屋(その3)。建物入り口部分の全景。奥に行けば行くほど大きくなる、という特異な造りなので、本当は、ここから見たって全景は伝わらない。

しかも建物の中に、"からくり屋敷"のような仕掛けが沢山あるというから、普通の町家とは全然違った造りだ。さすが大名も泊まった元陣屋らしい。




二条陣屋(その4)。そもそも、現在この建物を所有している小川家自体も、元をたどれば、伊予今治城小川祐忠の末裔という。

本来は建物内や庭園なども、じっくり見るべきなのだが、残念ながら時間が無い。今回は駆け足旅だ。再訪を念じて後にする。


大手門前広場に到着する

ようやく二条城の大手門前広場に到着する。ここは、江戸城大手門前広場(つまり宮城前広場)ほど広くはないが、堀川通の空間まで入れると、かなり広い。




ここがその大手門前広場。左側には二条城の大手門が見える。また右側には堀川通が通っており、その右側にホテル・ザ・ミツイが見える。

ところで、二条城には面白い話があって、京都の南北の碁盤の目と少しズレているという。

平安京北極星を目印に、当時の最先端の測量技術を使って造られた。それに対して、二条城は磁石を使った測量技術で造られたから、東へ3度傾いているという。磁北と真北は違うのだ。どちらかが間違った訳ではない。




そのまま歩くと大手門が見えてきた。余談だが、朝ドラで話題の東映太秦映画村の大手門は、ここをモデルに造られたらしい。

ところで先ほどの話だが、二条城の築城当時は、北極星を使った測量技術も、磁石を使った測量技術も、両方知っていたはずだ。それなのに、なぜわざわざ変えたのか。

おそらく徳川家康は、旧来の権威を破壊したかったのではないか。だからワザと変えた。そもそも平安京の内裏を破壊して二条城を造ったのも同じ理由だろう。


ホテル・ザ・ミツイに寄る

二条城に入る前に、まだ寄る所がある。堀川通を挟んだ向かい側に建っているホテル・ザ・ミツイだ。その地は江戸時代まで福井藩邸があった。徳川家康の次男、秀康が興し、代々松平家が藩政を司った親藩だ。行ってみよう。




まずは堀川を渡る。この川の歴史は古くて、平安京造営時に、人工的に造られた運河だった。排水だけじゃなく、物流の役割も担っていたらしい。

だが戦後、下水道が普及すると枯れてしまった。平成に入り、大規模改修工事が行われ、せせらぎは復活した。実は、琵琶湖疏水の水を引いている。




ホテル・ザ・ミツイ京都に到着した。三井グループの最高級ラグジュアリーホテルだ。

先ほど言ったように、江戸時代までここは福井藩邸だった。幕末の藩主、松平春嶽は有名だろう。公武合体を主導する一方の旗頭であり、ここはその拠点だった。

明治になると三井財閥の惣領家が買い取り、本宅が置かれた(元々三井家は東京ではなく、京都出身だった)。三井一族の統轄機関である大元方まであったという。

だが昭和の中頃に、藤田観光に売却され、京都国際ホテルができた。京都初の本格シティホテルとして賑わっていたらしい。余談だが「二十歳の原点」の高野悦子のバイト先は、このホテルのレストランだった。

それが数年前に閉館し、阪急不動産を経て、三井不動産が買い戻した、という形になった。そこに三井グループが建てたのがホテル・ザ・ミツイ。三井本宅があった頃の庭の一部も、奇跡的に残っているらしい。




ホテル・ザ・ミツイの北西角に、橋本左内寓居跡と書かれた石碑と駒札がある。あの有名な尊王攘夷派の志士、橋本左内福井藩士だったのだ。だから京都滞在中は、ここを拠点にしていたという。

今さら言うまでもないが、松平春嶽の右腕として活躍し、徳川慶喜将軍実現のために奮闘し、西郷隆盛も一目置いた人物。25歳の若さで、安政の大獄で処刑されたが、多くの志士に影響を与えた。


では二条城へ

ようやく二条城の中に入る。徳川家康が京都の拠点に造った城だが、それよりも大政奉還の行われた場所、という方が有名だろう。




二条城大手門。これぞ二条城の正門だ。江戸前期の寛文2年(1662)の築で、国指定重要文化財大政奉還の際、徳川慶喜はこの門から入った。だが出ていく際は裏門から去ったという。




続いて現れたのは唐門。二の丸御殿の正門で、これも国指定重要文化財だ。唐破風の巨大さと、金細工の豪華さに圧倒される。先ほどの質素な大手門とは大違いだ。こちらは天皇行幸のために造られたからだろう。


二条城の中を歩く

唐門を抜けると、いよいよ二の丸御殿と本丸御殿。そのうち二の丸御殿の方が、大政奉還の舞台となったので、見学の中心になる。では見てみよう。




二の丸御殿(その1)。ここは入り口で、奥に全6棟の書院造の御殿群が連なっている。建てられたのは江戸初期。国内の城郭に残る唯一の御殿として、日本建築史上重要な遺構なので、国宝に指定されている。




二の丸御殿(その2)。続いて全景。二の丸御殿は全6棟の建物が斜めに連なっている、という特別な、そして美しい型式になっている。

そのうち、写真左側に見える大屋根の建物が、大政奉還の行われた場所だ。残念ながら、室内は撮影禁止なので、外からしか写せない。

明治維新のクライマックスの一つと言えるだろう。その大広間には人形が並んでいて、大政奉還が再現されているのは、どうかと思うが。




今度は本丸御殿。ただ保存工事中のため見学不可だった。まぁこちらはオマケみたいなものだから構わないが。

ここにある本丸御殿は、桂宮家が御所内に建てたものを、明治27年に、明治天皇の意向により移築したものらしい。

実は明治になってから、二条城は天皇家離宮として利用されていた。実際、大正天皇は約10回滞在されている。

そのため、二条城は正式名称を「元離宮二条城」という。


最後は西門へ


最後は、裏側にある西門にやって来た。遠くの石垣のところにチラッと見えている。裏門と言ってしまうと城郭ファンに怒られそうだ。正しくは搦手門(からめてもん)という。

ここは明治維新の寂しい舞台になった所だ。大政奉還を表明した徳川慶喜は、二条城を退去する際、ここを通って、西門から去っていったという。なぜそうしたのか、分からない。


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これで「明治維新を歩く〜二条城編〜」を終わる。今回は、二条城といい福井藩邸といい、さらには六角獄舎といい、徳川幕府に関連する史跡が多かった。

また今回は紹介しなかったが、徳川幕府により任命された京都守護職上屋敷も、実は近い。(「明治維新を歩く〜西陣編〜」で紹介したので参照されたい)

徳川幕府関連史跡が多いのは、やはり二条城があるからだろう。その中でも主人公と言えるのは徳川慶喜だ。最後は裏門から寂しく去っていったという。

それは彼の矜持だったのだろうか。今となってはよく分からない。一つだけ言えるのは、徳川の世が始まったのも、終わったのも、京都だったという事だ。


~  終わり  ~