京都の異界を歩く

ちょっと変わった京都の探訪記です

明治維新を歩く(その5)〜天竜寺編〜

明治維新の舞台となった京都。多くの歴史的事件がこの街で起きた。薩摩・長州や新撰組などが暗躍し、坂本龍馬もこの街で亡くなった。

嵯峨の天竜寺は、禁門の変において、長州藩の本陣が置かれたために、戦火に巻き込まれた。今回は、その悲劇の歴史を辿ってみたい。


※「明治維新を歩く」と言っておきながら、それ以外も寄り道しまくる事、あらかじめご了承いただきたい。異界があれば寄る主義なのだ。


天竜寺総門から入る

では巨刹、天竜寺に入ろう。その敷地はとても広く、かつては嵐山や渡月橋から帷子ノ辻に至るまで、すべて天竜寺だったという。




まずは総門から入る。京都の他の巨刹と比べると、少し小さい。実は別に勅使門があるからだ。

勅使門とは天皇をお迎えする正門のこと。ここは通用門のようなものだ。だが勅使門は誰も通れないようになっており、我々一般人はここを通るしかない。気にせず入ろう。




続いて中門が現れる。この右側は塔頭(附属寺院のこと)が建ち並び、左側は勅使門や中池、駐車場だ。

言うまでもないが、天竜寺は足利尊氏が建立した古刹。吉野で死んだ後醍醐天皇の怨霊を恐れ、菩提を弔うために、夢窓疎石を開山に迎え入れて創建されたという。そういうことなら"異界"と言って良いだろう。




境内に入る。明治に入って狭くなったと言われているが、それでも十分広い。

さすが京都五山の一位と言われている寺だけある。ちなみに京都五山とは、足利幕府が定めた京都の寺の格式。他は相国寺建仁寺東福寺万寿寺と、超有名な名刹ばかりだ。


弘源寺へ


やがて右側に弘源寺が現れる。天竜寺の塔頭だ。何といっても、ここは長州藩士が付けた刀傷がある事で知られている。




弘源寺の門の右側に「春の特別拝観」の看板がある。たまたま公開日だった。これはラッキー。普段は見られない刀傷や庭が見られる。早速入っていこう。




正面に本堂が現れる。寛永年間の建立という歴史的建造物。天竜寺一帯は火事で何度も焼け、ほとんど明治の再建というから、この建物は貴重だろう。




玄関から右に進むと、広い縁側がある。この左側に美しい襖絵などが飾られていて、眼を奪われる。だが残念ながら撮影禁止だった。撮影可能なのは右側の庭方向のみだ。




これが「虎嘯の庭」と呼ばれる枯山水庭園。禅の悟りの境涯を表しているらしい。春の新緑の頃や、秋の紅葉の頃は、もっと綺麗だろう。




その縁側の柱に長州藩士の付けた刀傷がある。まさにこれを見るために天竜寺まで来たようなものだ。

禁門の変(蛤御門の変)の際、ここを本陣にした長州藩士たち。はやる血気を抑えられず、柱に刀を打ち込んだのだろう。その心意気や如何に。


天竜寺の方丈へ

ここからようやく天竜寺の方丈などに向かう。先ほども言ったが、ここから先の建物は明治に再建されたものばかりだ。




天竜寺の庫裡が現れる。ここで受付を済ませて方丈へ向かおう。

ところで、なぜ明治の建物ばかりかと言うと、禁門の変で焼かれてしまったからだ。長州藩は、ここと伏見長州藩邸に本陣をおいて、御所に攻め入った。特にここには "歴戦のツワモノ"来島又兵衛が率いる来島隊がいたから、主戦部隊だったのだろう。




方丈から庭を眺める。ここも火にかかって焼けたとは信じ難い。

さて結局、長州藩は敗北し、来島は自害した(別の場所で久坂玄瑞も自害して果てた)。

残された長州藩士はバラバラになって長州へ敗走。これで京都の街に平安が戻った、と言いたいところだが、そう簡単には終わらなかった。何せ敵は、あの薩摩藩だ。




方丈内部。静かで心安らぐ空間だ。ここで戦があったとは思えない。

さて上記の続きだが、空っぽになったと思われた天竜寺に薩摩藩兵がやって来た。残党狩りだ。しかも薩摩藩兵を率いるのも"歴戦のツワモノ" 村田新八。容赦無かった。彼らは、あろうことか天竜寺を焼き払ってしまったのだ。




方丈全景。もちろんこの建物も明治の再建だ。

それにしても、焼き払う必要は無かっただろう。"容赦無い" というよりも、もはや "残虐非道" と言いたくなる。しかもこの火は延焼して、京都の大半が焼ける事態になってしまった。




ここが有名な曹源池庭園。約700年前の夢窓国師作庭当時の面影を留めているという。嵐山を借景に紅葉の頃は特に美しいはず。日本初の史跡・特別名勝指定。


苔庭を眺めながら多宝殿へ

せっかくここまで来たので、他の建物も見て回ろう。苔の美しい庭や多宝殿などかあるという。




多宝殿へ向かう渡り廊下から、美しい苔庭が見えた。ここは本当に素晴らしい。まるで箱庭の世界のようだった。特にせせらぎは感動的でさえある。




一番はずれの多宝殿までやって来た。後醍醐天皇の像を祀っているらしい。ただ建物自体は昭和9年の建立という比較的新しい建物。




多宝殿から前庭を望む。手前の桜はまだ咲いてなかった。とはいえ、どこも庭は本当に美しい。

では法堂のところまで歩いて戻ろう。


最後は法堂へ

法堂とは説法する場所という意味。正しくは、"はっとう" と読む。




入り口近くの法堂まで戻ってきた。これも明治時代に再建されたものという。

さて天竜寺には、まだまだ伽藍が沢山あるのだが、これで、主なところは一通り見終わったはずだ。駆け足だったが。


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という訳で、これで「明治維新を歩く(その5)〜天竜寺編〜」を終わる。今回は、長州藩が本陣を構えた天竜寺一ヶ所のみだった。なので歩き始める前は、きっと長州藩への思いが溢れ出すだろう、と思っていた。だが違った。

終わってみると、長州藩の事より、容赦なかった冷徹な薩摩藩の事が頭から離れない。重要文化財クラスの古刹をいとも簡単に焼き払ってしまう。こんなに美しい庭園や由緒ある建物が沢山あったのに・・・。薩摩は壊した。

そういえば江戸市中に火を放って混乱に陥れたのも薩摩藩の仕業だった。戊辰戦争を誘発するためだ。正しい事をしていると思ったのだろうが、焼き出された江戸庶民の事など頭に無かったに違いない。天竜寺の檀家達の事も。

かつて鹿児島に住んでいた頃、よく県民性として「一本木」「猪突猛進」「熱くなりやすい」などと聞いたが、まさにその通り。それは明治維新の原動力にもなった。だがそれが災いして西南戦争へも連なっていく。悲しい歴史だ。


〜  終わり  〜