京都の異界を歩く

ちょっと変わった京都の探訪記です

明治維新を歩く(その6)〜伏見編〜

明治維新の舞台となった京都。多くの歴史的事件がこの街で起きた。薩摩・長州や新撰組などが暗躍し、坂本龍馬もこの街で亡くなった。

特に伏見は独自の歴史を持っている。ただの"酒蔵と龍馬の街"というだけではない。そんな伏見の意外性も、歩きながら語っていきたい。


※「明治維新を歩く」と言っておきながら、それ以外も寄り道しまくる事を、あらかじめご了承いただきたい。異界があれば寄る主義だ。


中書島駅からスタート

伏見に行くには近鉄と京阪がある。どちらに乗っても目的地に行けるが、今回は京阪に乗って、中書島駅から北上するルートにした。

坂本龍馬寺田屋で襲われた後、北上して大手橋付近で身を隠し、さらに北上して薩摩藩邸まで逃げた。そんな龍馬に敬意を表して(笑)




という訳で、京阪の中書島駅に到着した。初めて降りる駅だ。駅舎は近代化されて、特に何かをモチーフにした様でもない。もう少し観光地らしくしたら良いのにと思うが・・・




とはいえ駅前には、やはり看板が立っている。左に日本酒、右に龍馬。やはりこの街は "日本酒と龍馬の世界" のようだ。




さらに駅前には仰々しい石碑がある。長建寺の道標らしい。後で行く予定だが、この街にとって重要なお寺である事が伝わってくる。


駅前正面の道を歩き始める

駅を降りて真正面の道を進むと寺田屋に行けるはずだ。途中いろいろ寄り道はする予定だが、とにかくその方向へ歩き出そう。




では駅前の正面の道を歩き出し・・・と思ったら、いきなり場末の飲み屋街??話には聞いていたが、これは想像以上にかぐわしい。本当に駅を出てすぐなのに・・・




すぐ右側に近代レトロ建築。有名な新地湯だ。昭和初期に建てられた銭湯で、今も現役で営業している。"古い建物"ファンには有名な建物で、実は前から見たかった(笑)




新地湯から北東方向に向かうと濠川に出る。その向かい側は、酒蔵の連なる街並み。後ほど行く予定だ。




さらに十石舟の乗り場も見える。あまり知られてないが、伏見は港町だった。淀川から上がってきた貨物船の中継基地。この街で舟を乗り換えて、京に向かった。


長建寺

先ほど言ったとおり、寺田屋へ真っ直ぐ行かず、何件か寄り道する。まずは、濠川の向かい側にある長建寺。駅前でみた巨大石碑のお寺だ。




長建寺(その1)。入口正面に、中国風の竜宮門がある。とにかく、この建物が有名で、どうしても見たかった。なるほど噂どおり独特の面構え(笑)




長建寺(その2)。竜宮門を裏から。この建物もお寺創建時と同じ、元禄年間の建立だろう。




長建寺(その3)。門を入ってすぐ左側にある鐘楼。これも何やら独特の形をしている。一体どういうお寺だろう(笑)




長建寺(その4)。こちらが本堂。先にも言ったとおり元禄年間の建立らしい。外壁や屋根は手直しされているが。




長建寺(その5)。そしてこちらも有名な閼伽水。伏見七名水の一つとして知られている。元々伏見は"名水の里"で、だからこそ日本酒の里になった。その伏見を代表する名水の一つという訳だ。


中書島遊廓跡

長建寺の北西側に広がる街並みは、かつて遊廓だった。中書島遊廓という。江戸時代から明治にかけて繁栄し、1970年まで続いたらしい。異界巡りを旨としているので寄らない訳にはいかない。




中書島遊廓跡(その1)。とはいえ祇園先斗町などと違って、それらしい建物はほとんど残されていない。これなどは玄関横の窓が怪しいし、建物全体のボリュームもそれっぽいのだが、どうなのだろう。(外壁はモルタルを塗られてしまったようだが)




中書島遊廓跡(その2)。この建物も怪しいがどうだろう。2階の手すりが何とも・・・




中書島遊廓跡(その3)。こちらは遊廓とは関係ないが、昔ながらの昭和の長屋街。特に京都には多いような気がする・・・。




中書島遊廓跡(その4)。「りょう馬」という名前のスナックもあった。龍馬ファンのオーナーがやってるのだろう。この町は、どこまでも龍馬らしい。




中書島遊廓跡(その5)。こちらは有名な建物。「ふじわら」という小料理屋さんだ。玄関横の窓がそれらしいし、2階の手すりもそれっぽい。元遊廓の建物とみて間違いないだろう。




中書島遊廓跡(その6)。「ふじわら」の向かい側の建物。外壁は手直しされてるが、1階の格子窓といい、建物全体のボリュームといい、元遊廓の可能性が極めて高い。


濠川に沿って伏見長州藩邸へ

中書島遊廓跡を抜けると、再び濠川に出る。ここから寺田屋はすぐなのだが、まだ寄りたい所がある。濠川沿いは歴史の宝庫だ。




蓬莱橋中書島駅から真っ直ぐ北へ進むと出る橋だ。歴史の宝庫、中書島にとって最重要な橋と言って良い。だがここは渡らず、西へ進もう。




濠川に沿って西へ歩くと、小公園があり、龍馬とお龍の像が建っている。その名も「龍馬とお龍 愛の旅路像」というらしい。

何だそりゃ、という感じだが、龍馬とお龍は寺田屋で襲われた後、ここから舟で薩摩に向けて旅立った。だから"愛の旅路"?




小公園の前は、濠川が広くなっている。舟廻しの場所だという。地名も南浜といって、ここがまさに川港だった。

濠川の左側は、大正時代まで建物が無く、広場と道路を経てすぐに寺田屋だった。まさに"舟宿"だった事が分かる。




そのまま西へ歩くと、すぐに竹田街道に出る。物流拠点の伏見と、巨大都市の京都を結ぶ重要街道だ。明治に入ってからも、日本初の市電が通るなど、重要性は増すばかりだった。




竹田街道を渡ると、すぐに伏見長州藩邸跡の石碑がある。そう、ここに京都の藩邸とは別に、伏見藩邸があった。同じ京都市内なのになぜ?

実は長州藩だけじゃなく、土佐藩薩摩藩など多くの藩が伏見にも藩邸を構えていた。なぜならここは京都と別の、独立した地域だからだ。

今は京都市伏見区だが、かつては伏見"市"という別の市だった。しかも淀川水運の拠点、すなわち京都の物流の玄関口という重要な場所だ。


京橋から寺田屋

伏見長州藩邸の北側に京橋がある。そこは鳥羽伏見の戦いの戦場でもあった。それを思い浮かべながら東へ歩くと、すぐに寺田屋へ出る。




京橋の上から濠川を眺めよう。正面に蓬莱橋が見える。この一帯は、江戸時代から明治中頃まで、淀川水運の拠点として大いに栄えた。川岸には舟宿や蔵などが建ち並んでいたという。




京橋のたもとに「伏見口の戦い激戦地跡」の碑がある。伏見奉行所に陣をおいた会津藩新撰組は、薩摩藩の猛攻に敗れ、この辺り一帯に火を放ちながら淀へ敗走した。

街中が焼かれ、大きな被害を受けたという。ここは鳥羽伏見の戦いの戦場だった。その伏見奉行所にも後で行く予定だが、京都奉行所と別に奉行所があった事に留意したい。




ところで竹田街道を眺めると、素晴らしい町家がいくつも並んでいる。正面の町家は森鶴本店という肉屋さんらしいが巨大な町家だ。おそらく相当な老舗なのだろう。




この町家も古そうだ。宮本堂老舗という和菓子屋さんらしい(名前からして老舗だ)。屋根に小さな煙突が見えるが、おそらく、ガスコンロが普及する前のカマド(おくどさん)の名残りだろう。つまり相当古い。




竹田街道から寺田屋に向かって歩いていくと、すぐに観音像などが並んでいる場所にぶつかる。色々なものが雑多に並んでおり、聖地のような雰囲気だが、おそらく戦後にできたものではないか。


寺田屋に到着

上の聖地の2軒隣が寺田屋。今回の最重要ポイントだ。寺田屋といえば二つの事件がある。薩摩藩士粛清事件と坂本龍馬襲撃事件。どちらも明治維新を語るとき避けて通れない。




寺田屋外回り(その1)。寺田屋に到着した。まずは正面から見てみよう。1階の格子窓や2階の手すりなど、どれも良い感じだ。明治に再建した建物らしいが、今も現役で旅館を営業している、というのは凄い。




寺田屋外回り(その2)。続いて斜めから。寺田屋自体は「表側が焼けただけで、裏の一部は焼け残った」と主張している。(見学時にはっきりそう言っていた)

まぁ、素晴らしい明治建築物なので、そこは拘らなくても良いと思う。坂本龍馬にまつわるテーマパークみたいなものだから。雰囲気さえ掴められれば良い。




寺田屋外回り(その3)。寺田屋の右隣は、石碑が並ぶ小公園になっている。まず目に入るのは「伏見寺田屋殉難九烈士之碑」。

薩摩藩士が、同士討ちにより、9名戦死した事件の石碑だ。討った藩士も、討たれた藩士も、同じ国を想う尊王派志士だった。

ここで有馬新七など将来有望な若者が死んでいったのは残念すぎる。なお右側の駒札は霞んでいて何が書いてあるか不明。




寺田屋外回り(その4)。「史跡 寺田屋」の大きな石碑もある。この石碑には「坂本龍馬先生 遭難の跡」とも書かれている。なに先生だって?これには坂本龍馬も苦笑するに違いない。




寺田屋外回り(その5)。小さな坂本龍馬像もある。台座にはまた「坂本龍馬先生」。まぁそれは置くとして、この像は見覚えがある。土佐稲荷の像と同じではないか。同じ人物が造ったものだろうか。一体いくつあるのだろう。

さらに、その奥には巨大な尖塔型の石碑も見える。そちらは「薩藩九列士遺蹟表」という。寺田屋事件で死んだ薩摩藩士の遺蹟を讃えた碑らしい。寺田屋二大事件の一つだ。彼らのお墓は、伏見の大黒寺にあり、後で行く予定。


寺田屋内部を見学

では寺田屋の建物内を見学しよう。明治に再建されたものとはいえ、当時の雰囲気をある程度残しているに違いない。しかも古い建物ファンなら尚更興味津々だ。




寺田屋内部(その1)。建物内に入ると、いきなり坂本龍馬テーマパークのような趣き。元々は薩摩藩の定宿だったらしいが、もはや坂本龍馬一本だけで(笑)やっているようだ。




寺田屋内部(その2)。この階段を上がると宿泊部屋の並んでいる二階。当時をどこまで再現しているか分からないが、雰囲気さえ掴められれば良い。




寺田屋内部(その3)。二階の部屋。これは、とても良い感じだ。明治の旅館建築の粋(いき)が伝わってくる。

特に、窓の桟(さん)と手すりが、何とも言えない風情を出しているではないか。やはり、来て良かった。




寺田屋内部(その4)。刀痕の貼り紙。寺田屋によれば、坂本龍馬襲撃事件の際の刀痕らしいが、あくまでも再現(レプリカ)と思えば良いだろう。




寺田屋内部(その5)。これはまた別の部屋だが、凄いと思ったのは、手すりの模様が違うこと。大工さんは相当こだわったね。




寺田屋内部(その6)。裏側の階段。お龍さんが駆け上がったものを再現した、といったところだろうか。

有名な話だが、お龍さんが一階のお風呂に入っているとき襲撃に気付き、この階段を裸で駆け上がった。

龍馬はそれで襲撃を知った訳で、まさにお龍さんによって救われた、と言って良い。では降りていこう。




寺田屋内部(その7)。「裸のお龍さんで有名なお風呂です」と書いてある。これはどうみてもレプリカだろうけど。ただ位置関係を知るには役立つ。やはり幕末にあった建物をほぼ同じように再現して建てたようだ。




寺田屋内部(その8)。一番最後の部屋。ここは坂本龍馬に関する書籍も沢山あり、まさに坂本龍馬のテーマパークだ。龍馬ファンは来る価値があるだろう。

それに歴史好きや古民家ファンも十分楽しめる。明治の旅館建築として十分価値のある建物だ。(しかも舟宿なんて珍しい!) ぜひ今後も残してほしいと思う。


南浜通を東へ

寺田屋を出た後は、南浜通を東へ向かう。そこは古建築の建ち並ぶ凄い街並みだ。




寺田屋を出ると、すぐ左側に「竜馬通り商店街」が見えるが、ここは行かずに素通りする。ただ、その前に街灯の看板を見てほしい。行けども行けども「竜馬通り」と書いてある。この街は龍馬抜きには語れないのか(笑)




そのまま歩くとすぐ北側に、また素晴らしい町家。これは大正時代か昭和初期くらいだろうか。




続いて現れたのは、大きな倉庫のような建物。黄桜酒造の酒蔵だ。ここから酒造の街並みが広がる。




その東隣には、また凄い町家の数々。この南浜通は本当に凄い。




その南側を見ても凄い。いくらでも出てくるね。




これは何?と思ったら消防署!ここでは消防署も町家風!?




では消防署の前の道を北へ進もう。それにしても、こんな路地も古い街並みが残されている!


黄桜酒造

伏見には、黄桜や月桂冠、松竹梅などの有名な酒造の他にも、無数の小さな酒造が軒を連ねている。全部回ったら何日あっても足りない。とりあえず目についた所は訪ねよう。




黄桜(その1)。塩屋町の通りに出たら、西へ向かう。ここも古い建物だらけの凄い街並み!と思ったら、両サイドとも黄桜の建物だった。




黄桜(その2)。まずは南側の建物から。黄桜の工場だ。おそらく明治期のものだろうか。中の一部は資料館になっていて見学できる。早速入ってみよう。




黄桜(その3)。黄桜資料館の内部。元々は酒蔵だったのだろう。天井が凄く高い。




黄桜(その4)。ここで一旦黄桜を出て、塩屋町の通りに出た。すると左隣に立派な町家。あまりにも美しい建物なので撮っておいた。

おそらく建築年代は明治か大正時代だろう。ただ気になるのは、江戸時代を思わせるような二階の窓の造り。これは何とも素晴らしい。




黄桜(その5)。そして北側には「カッパカントリー」という黄桜直営の居酒屋レストラン。何でも地ビールまで造っているらしい。喉を潤したいところだが、今日は先が長いので諦める(笑)


伏見土佐藩邸跡から月桂冠旧本社へ

黄桜の東側には伏見土佐藩邸跡がある。坂本龍馬にすれば、土佐藩邸にかくまってもらいたかっただろうが、方向的に伏見奉行所に近く、そこには行けなかったようだ。その土佐藩邸跡の南側は月桂冠の建物群が広がっている。




カッパカントリーから東へ歩くと、また凄い建物が現れる。明治か大正時代の酒蔵だろう。今はレストランになっているようだ。その手前の路地を南へ入る。




すぐに伏見土佐藩邸跡の石碑。前も言ったように、伏見は京都の玄関口として、重要な地位にあったので、大きな藩はほとんど藩邸を置いていた。

坂本龍馬はここを目指したかった事だろうが、会津藩新撰組が陣を置いていた伏見奉行所に近かったので来られず、結局反対の西方向へ脱出した。




また元の通りに戻って東へ向かうと、突き当たりに物凄い建物が現れる。やはり酒蔵だったのだろう。今は飲食店と陶器店になっているようだ。こんな建物が普通に建ってるなんて、本当に伏見は凄い。




月桂冠旧本社(その1)。南へ歩くと月桂冠の建物群が見えてくる。まず正面に見えるのは土蔵。おそらく酒蔵だったのだろう。窓の数が多いのは換気対策ではないだろうか。

そして右側の黒っぽい建物は、月桂冠創業者の大蔵家の長屋門。文政11年に建てられた歴史的建物だ。2階の小さな虫籠窓の連なりと、1階の太い格子が圧倒的な存在感。




月桂冠旧本社(その2)。右側道路の突き当たりに月桂冠旧本社。まだ笠置屋という屋号だった頃の建物だろう。その素晴らしさに圧倒される。今はレストランになっているようだ。




月桂冠旧本社(その3)。同じ旧本社を別角度から。本当にどこから見ても凄い建物だ。こんな建物が残されているなんて素晴らし過ぎる。さすが老舗の月桂冠という他ない。


月桂冠新本社からイエズス教会跡地へ

日本を代表する酒造メーカー、月桂冠関連の建物は続く。とにかく南へ歩いていこう。




すぐ左側に月桂冠の新本社。寛永14年創業という老舗メーカーの現在の本社だ。




そのまま南へ向かう。右側には月桂冠の古い建物がどこまでも続いている。明治42年築らしい。本当に凄い。




左側に駒札(将棋の駒の形をした看板)を発見。何だろうと近づいてみると、「イエズス会 伏見教会跡地」と書いてある。ここにキリシタン大名高山右近の建てたカトリック教会があったようだ。




この道の奥にカトリック教会があった。そこへ行く道なので"信仰の小道"と呼ばれているらしい。高山右近は、キリシタン大名として余りにも有名だが、伏見に教会があった事は知らなかった。今は月桂冠の所有地だが、丁寧に保存されているようだ。さすが老舗メーカーらしく心温まる。


月桂冠大倉記念館

月桂冠の建物の一部は記念資料館になっている。古い酒蔵をそのまま活かして使われているらしい。古民家ファンは見学必須だろう(笑)




月桂冠記念館(その1)。ここが入り口。いわゆる長屋門のような形状になっている。では早速入っていこう。




月桂冠記念館(その2)。中は完全に歴史資料館だ。かつて人力で造っていた頃の資材が所狭しと展示されている。すべて京都市指定有形民俗文化財とのこと。もはや説明不要。写真のみ提示しよう。




月桂冠記念館(その3)。




月桂冠記念館(その4)。




月桂冠記念館(その5)。




月桂冠記念館(その6)。「さかみず」。名水の里、伏見らしい。地下から湧き出る名水で、これも伏見を代表する名水の一つ。




月桂冠記念館(その7)。レンガ造りの煙突が良いね。




月桂冠記念館(その8)。最後はここで3種類の生酒が試飲できる。どれも美味しかった。普段は地酒ばかり飲んでいて、あまり大手メーカーのものは飲まなかったのだが、反省しよう。大手のものも十分美味い。


弁天橋から会津藩駐屯地跡へ

月桂冠記念館を出ると、すぐ南側に十石舟乗り場のある弁天橋。今は観光客がのんびり舟旅を楽しめる場所だ。そこから北へ向かって、一気に会津藩駐屯地跡へ向かおう。




ほろ酔い気分で南へ歩くと、弁天橋に出る。実は最初に訪ねた長建寺はここからすぐだ。




橋の上から濠川を眺めよう。すぐそこに十石舟乗り場もある。観光客を乗せて、のんびり伏見周遊できるらしい。

時間があればのんびりしたいところだが今回は忙しい。舟遊びは次回にとっておいて、すぐにまた北へ戻ろう。




月桂冠旧本社を越えて、さらに北へ進むと、右側に白菊水がある。これも伏見七名水のひとつ。本当に伏見は名水井が多い。




さらに北へ進み、油掛け通とのT字路の突き当たりにお地蔵さん。格子の向こうに二体あるのが薄ぼんやり分かる。




会津藩駐屯地跡(その1)。さらに北へ進むと、突き当たりに東本願寺伏見別院(通称、伏見御堂)。ここが会津藩駐屯地だった。

鳥羽で戦闘が始まると、伏見の御香宮に陣を構えていた薩摩藩も砲撃を開始。あっという間に伏見は火の海になったらしい。




会津藩駐屯地跡(その2)。この地に陣を構えていた会津軍も迎撃を開始、激しい戦闘が繰り広げられた。

だが意気軒昂な会津藩士といえど、近代装備を備えていた薩摩軍には歯が立たず、結局、淀方面へ敗走する。


油掛け通を西へ

では油掛け通を西へ進もう。この先に油掛け地蔵があるので名前が付いた。歴史ある通りだ。

※ちなみに京都では"通り"の事を"通"と書く。なので油掛け通。読み方は普通に"とおり"だけど(笑)




油掛け通を入ると、いきなり右側に立派な土蔵が現れる。江戸期か明治初期だろうか。その先も何やら凄い町家が見えるぞ。




油掛け通で見かけた凄い町家(その1)。どうやら山本本家という造り酒屋らしい。創業は江戸初期とのこと。さすが伏見という他ない。

ここからは解説抜きで見ていこう。




油掛け通で見かけた凄い町家(その2)。




油掛け通で見かけた凄い町家(その3)。




油掛け通で見かけた凄い町家(その4)。看板を見ると一級建築士事務所らしい。明治時代の築だろうか。凄いね。




油掛け通で見かけた凄い町家(その5)。こちらはお菓子司のようだ。昭和初期?




油掛け通で見かけた凄い町家(その6)。よく分からないが、普通の民家だろうか。明治時代?




油掛け通で見かけた凄い町家(その7)。こちらは家守酒造といって、クラフトビールの製造・販売店らしい。比較的最近だろうか。建物自体は明治初期だろうけど。




ここで再び、龍馬通り商店街が現れる。先ほど見た通りの続きだろう。ここは曲がらず、真っ直ぐ進む。


油掛け地蔵から竹田街道

しばらく歩くと右側に油掛け地蔵。そしてその先に駿河屋本店を経て、竹田街道に至る。




油掛け地蔵(その1)。やがて右側に油掛け地蔵尊の入り口が現れる。左側の石碑に、芭蕉が来訪して句を詠じた、というような事が書いてある。これは初耳だ。早速入ってみよう。




油掛け地蔵(その2)。まずは本堂から。油掛山西岸寺というらしい。創建ははっきりしないが、安土桃山時代のようだ。知恩院末寺の浄土宗。




油掛け地蔵(その3)。こちらが油掛け地蔵尊。油を掛ければ願いがかなうという。なので油で真っ黒だ。これは凄い。

以前、嵯峨野でも同じような地蔵尊を見たが、どちらも凄い迫力を感じる。こういった庶民の信仰は逞しくて大好きだ(笑)




駿河屋本店(その1)。やがて竹田街道との交差点に出るが、その手前角に駿河屋本店がある。建物は昭和に入ってからだろうが、老舗の匂いをプンプン感じる。これは気になる。




駿河屋本店(その2)。調べてみると、室町時代の創業という超老舗の和菓子司のようだ。今は和歌山に拠点を移したが、ここが総本家とのこと。いゃ驚いたが、さすが伏見という他ない。




駿河屋本店(その3)。お店の角に、「電気鉄道事業発祥の地」という石碑もあった。かつて伏見インクラインで発電された電気を使って、京都駅からここまで市電が走っていた。それを指しているのだろう。(京都駅の竹田口にも同じような石碑がある)


竹田街道から坂本龍馬避難跡へ

竹田街道を北上して坂本龍馬避難跡へ向かう。竹田街道は物流拠点の伏見と京都を結ぶ重要街道。明治に入ってからも、日本初の市電が通るなど、重要性は増すばかりだった。




早速北へ向かおう。するとすぐに素晴らしい古民家が現れる。蔵もあるが、江戸期か明治だろうか。




凄いね、竹田街道。次々と良い感じの町家が現れる。何屋さんだったのだろうか。




やがて大手筋に出るので、左へ曲がる。すると北川本家という老舗の造り酒屋が現れる。全然知らなかったが、江戸時代の創業というから超老舗じゃないか。
こんな老舗の造り酒屋が思いがけず現れるなんて、さすが伏見だ(建物は新しかったので撮らなかったが)。ただ敷地の角にお地蔵さんがあったので撮っておいた。




やがて大手筋は、濠川にかかる橋に出る。この橋の向こう側に、坂本龍馬避難跡があるはずだ。




坂本龍馬避難跡(その1)。立派な石碑が建っていた。この脇に材木小屋があり、寺田屋で襲撃された龍馬はそこに避難。薩摩藩からの救援を待っていた。




坂本龍馬避難跡(その2)。もちろん目立つ竹田街道を通ったのではなく、その裏道を抜けて、ここまで来たらしい。

ここからさらに北側に、薩摩藩の伏見屋敷があり、彼は薩摩藩に救援依頼を送り、ひたすらここで身をひそめた。

ここで薩摩藩に救援された事により、さらに薩摩との距離が縮まり、後の薩摩行、そして亀山社中へと繋がっていく。


大手筋を東へ

大手筋を東へ進もう。この道は銀座跡などのある伏見の中心地だった。今もアーケード街があり、伏見の経済・文化の中心地である事に変わりはない。




東へ戻るとすぐにお地蔵さん。本当に京都はお地蔵さんが多い。夏の終わりを告げる地蔵盆も無くてはならない風物詩。




やがて大手筋商店街に入る。豊臣秀吉伏見城を築いた時、ここを大手筋としたので、伏見の中心地となり、繁栄が始まった。歴史も由緒もある商店街といえる。




アーケードを入ると、すぐ左側に大光寺がある。石碑にあるように、元は徳川家光の傅役だった青山伯耆守の屋敷跡だったらしい。




続いて現れるのは源空寺。何とも不思議な形をした山門がある。この異形の建物は何だろうか。

寺伝では伏見城の楼門を移築した事になっているらしい。真実か否かは不明だが存在感は大きい。




では大手筋商店街をどんどん進もう。古くからある商店街だが、最近は新しい経営者も増えて、徐々に変わってきているらしい。人気のパン屋さんやカフェもできたとの事。何となく良いね。




やがて左側に伏見銀座跡の碑。ここが銀座発祥の地だった。といっても東京銀座ではなく、本物の銀座のほう。

鋳を加工して銀貨を作る鋳造所のことだ。江戸時代初めに徳川慶喜の命により、ここに初めて造られたらしい。




すぐ正面に踏切。京阪電車が通り過ぎていく。右側に京阪伏見桃山駅がある。伏見の中心駅なのに、京阪らしく質素な駅だ。


京町通を南へ

京阪伏見桃山駅を過ぎると、すぐに京町通と交差する。由緒あるその通りを南へ曲がり、鳥羽伏見の戦いの痕跡へ向かおう。




京町通を入ってすぐ右側に凄い町家を発見。明治時代だろうか。




続いて左側。やはり明治時代だろうか。こんな凄いのが簡単に現れるなんて、本当に京都は凄いね。




そのまま京町通を南へ進もう。左右には凄い町家が次々と現れる。由緒ある通りなのだろう。




京町通の説明看板を発見。それによると、この道は、北に行くと本町通、つまり大和大路。南に行くと奈良街道。つまり京と奈良を結ぶメインストリートだった。


鳥羽伏見の戦いの銃弾痕

やがて右側に、鳥羽伏見の戦いの銃弾痕のある町家が現れる。ここは戦場だったのだ。




鳥羽伏見の戦いの銃弾痕(その1)。この町家に銃弾痕があるらしい。近づいてみよう。




鳥羽伏見の戦いの銃弾痕(その2)。木格子に残る傷痕。流れ弾が当たったということか。左から右へ当たっているので、伏見奉行所に陣を構えた会津藩か、新撰組の撃ったものだろう。




鳥羽伏見の戦いの銃弾痕(その4)。いずれにしろ、ここで会津藩新撰組は大敗する。旧式銃と刀剣では太刀打ちできなかった。(薩摩藩は新式銃器を揃えていた)

特に新撰組土方歳三はこれで悟る。これからの軍隊は最新式の西洋軍備じゃないと戦えないと。そして自ら率先して、西洋式に改めていく。

箱館戦争のときの土方歳三の姿を見れば分かるだろう。一番有名な写真だが、彼はマゲを切り、西洋軍服を着ている。彼は根っからの軍人だったのだ。




鳥羽伏見の戦いの銃弾痕(その5)。左端に説明看板がある。ところで、鳥羽伏見の戦いの時に、既にあった建物という事は、江戸時代の建物ということだろう。これは凄いね。


伏見奉行所跡へ向かう

では次の目的地「伏見奉行所跡」へ向かおう。会津藩新撰組の最後の陣地となった場所だ。




京町通を南へ行くと、左側にお地蔵さんがある。




油掛け通に出たら、左折して東へ向かおう。遠くに近鉄の高架橋が見える。




近鉄の高架橋に到着した。下を覗いてみると、右側はシャッター街。おそらく過去は店が並んでいたのだろう。繁栄の名残。通り過ぎようと思ったら・・・




近鉄の高架下にお地蔵さんがあった。これはビックリ。本当にどんな所にでもあるんだな。


伏見奉行所

やがて伏見奉行所跡に到着する。会津藩新撰組が、最後の陣を構えた所だ。明治以後は陸軍砲兵隊の基地になり、終戦後は進駐軍の基地になったりした。数奇な運命を辿ったと言って良い。現在は日本最初期の大型団地として、現在に至っている。




伏見奉行所跡(その1)。ここが団地入り口らしい。先ほども書いたが、戦後すぐ造成された日本最初期の団地として、団地マニアの間では有名だ。その名は桃陵団地という。




伏見奉行所跡(その2)。入り口左側に、わざわざ桃陵団地の歴史を記した石碑があった。有名な団地は違うね。




伏見奉行所跡(その3)。右側には伏見奉行所跡の石碑と駒札。伏見は、京都とは別の街だったので奉行所があった。

そして奉行所徳川幕府出先機関だったので、幕末ここに会津藩新撰組が陣を構えた訳だ。




伏見奉行所跡(その4)。やがて明治に入ってから、陸軍の基地になった。伏見工兵大十六大隊跡の石碑もある。




伏見奉行所跡(その5)。桃陵団地に沿って北へ歩いて行くとスターハウスも見えた。団地マニア垂涎の的!かつては結構な数があったのだが、今では希少な存在らしい。団地マニアのブログではよく取り上げられる。


御香宮神社へ向かう

次の目的地は御香宮神社。薩摩藩が陣を構えたところだ。地図を見ると意外と近い。ここから僕らは、鳥羽伏見の戦いのど真ん中を歩いていく事になる。




北へ向かうと、すぐ左側にお地蔵さん。当然このお地蔵さんも鳥羽伏見の戦いをくぐり抜けてきたのだろう。




再び大手筋に出るので、右折して東へ向かおう。正面に御香宮神社の大きな鳥居が見える。すぐそこが御香宮神社のようだ。

そうすると伏見奉行所とは本当に近いね。これは驚いた。会津藩新撰組薩摩藩は、この近さで戦闘を行なったという事か。




やがて左側に桃山幼稚園が現れる。日本聖公会桃山キリスト教会が建てた幼稚園だ。聖公会なので英国国教会の流れをくんでいるのだろう。聖公会系の教会は軽井沢や館山で見たが、戦前に建てられた古い教会建築が多い。




桃山幼稚園(その2)。ところがここの校舎は、なんと和風建築。昭和11年に宮大工が建てたらしい。御香宮神社の隣だからこうしたのだろうか。十字架と和風建築の取り合わせが妙味だ。


御香宮神社

ようやく御香宮神社に到着する。平安時代貞観4年に社殿を修造した記録がある、というから相当な古社と言っていい。だがそれより鳥羽伏見の戦いにおいて、薩摩藩が陣を構えた、という方が有名かもしれない。




御香宮神社(その1)。まずは立派な表門から。この門は伏見城の大手門を移築したらしい。国指定重要文化財




御香宮神社(その2)。では表門から境内へ入ろう。立派な鳥居と石畳の道を見れば、その奥深さが分かる。




御香宮神社(その3)。この極彩色に彩られた建物は拝殿。寛永二年、紀州徳川家初代の徳川頼宣の寄進により建立されたらしい。京都府指定文化財




御香宮神社(その4)。やがて奥に本殿が現れる。慶長十年、徳川家康の命により建立されたという。国指定重要文化財




御香宮神社(その5)。この絵馬堂も相当古そうだ。残念ながら建立年代は不明。




御香宮神社(その6)。境内には「竹田街道の車石」というのも保存されていた。竹田街道は伏見と京都を結ぶ重要街道で、物流の要衝と言える。

江戸時代は荷牛車が主な配送手段だったので、その利便性性を図るため、このような車石を街道に敷きつめて、レール代わりにしたらしい。




御香宮神社(その7)。伏見城の残石というのもあった。よく分からないが、まぁ石垣を保存しているのだろう。




御香宮神社(その8)。伏見七名水の一つ「御香水」。この神社の名前の由来となった清泉で、地元民もよく貰いに来るという。環境省選定の日本名水百選の一つでもある。




御香宮神社(その9)。伏見の戦跡の石碑。これを見るためにここに来たようなものだ。この石碑も明治に建てられたのだろう。




御香宮神社(その10)。伏見の戦跡の石碑の隣に説明看板があったのだが、なんと内閣総理大臣佐藤栄作の書だった。これは驚いた。


御香宮神社を出て大手筋を西へ

では次なる目的地、大黒寺へ向かおう。まずは大手筋を西へ戻る。




御香宮神社を出ると、すぐに「黒田節誕生の地」という駒札がある。これは初めて知った。黒田節に歌われる「酒は飲め飲め♪」というのも、"伏見の酒"という事だが本当だろうか(笑)




また大手筋を西へ。




やがて近鉄の高架下に出る。右側は近鉄桃山御陵前駅。なぜこの駅名かというと、大手筋を東へまっすぐ進むと、明治天皇伏見桃山御陵に出るからだ。伏見はただの城下町だけじゃなく、天皇御陵のある街でもあった。




とはいえ桃山御陵前駅の向かい側、つまりガード下の南側は、何やら怪しい商店街(失礼)。「駅前0番地」と言うらしい。暗くてよく見えないが、どうやら飲み屋街のようだ。ディープだね(笑)。時間があればゆっくり訪ねてみたい。


京町通を北へ


近鉄桃山御陵前駅を過ぎると、すぐに京町通に出るので、右折して北へ向かおう。




京町通を北へ。ここも古そうな通りだ。良い感じの町家がありそうで期待が膨らむ。




すぐ左側に九州熱中屋という飲み屋さん。良い感じの和風民家だが、これは戦後の築だろうか。




続いて右側に、また古そうな町家。明治だろうか。




2階の窓が狭いのが京町家の特徴。特に明治に多い。ではこの角を左折して西へ向かおう。




すぐに京阪の踏切がある。この辺りは近鉄と京阪が入り乱れてるね。ではここを渡って・・・。


新町通を通って伏見区役所へ

すぐに新町通に出るので、右折して北へ。伏見区役所の方向へ向かおう。




新町通北へ。この道も豊臣秀吉伏見城を築城した際、商家街として整備した道だ。期待できそう。




すぐに新町七丁目地蔵堂




伏見区役所へ曲がる角にある町家。外壁はトタン板だが、やはり明治か大正時代ではないだろうか。




やがて伏見区役所に到着。ここでトイレ休憩をした。




ここからは伏見区役所前の通り(南部町通)を北へ向かう。ちなみにこの辺りは、伏見中央図書館や伏見青少年センター、伏見児童館、伏見中学があるなど、伏見の中心拠点のようになっている。




南部町通を進んで、すぐ右側に金礼宮がある。750年創建という古社らしい。


大黒寺


やがて大黒寺に到着する。薩摩藩邸に近いので、島津義弘公はこの寺を薩摩藩の祈祷所にしたという。薩摩藩ゆかりの寺なので、一般には「薩摩寺」などと呼ばれていたらしい。




大黒寺(その1)。ここが入り口だ。早速入っていこう。




大黒寺(その2)。本堂。幕末には薩摩藩士たちの密儀がたびたび行われていたという。西郷隆盛が会談したという部屋も残されているらしい。




大黒寺(その3)。寺田屋事件の九列士もこの地に葬られているらしい。




大黒寺(その4)。境内に金運清水という地下水もあった。さすが伏見。




大黒寺(その5)。この巨大な石碑は「薩摩藩義士の碑」。幕末ではなく、木曽川治水工事で亡くなった薩摩藩士を顕彰したもの。平田靫負の墓所もここにあるらしい。


伏見薩摩藩邸跡へ向かう

では大黒寺を出て伏見薩摩藩邸跡へ向かおう。ここからはもうすぐだ。




大黒寺を出て北へ向かい、すぐの交差点を左折する。右側は伏見児童館だが、何やら駒札が建ってるぞ。




寒天発祥の地らしい。初めて知った。




やがて左側に凄い町家が見える。どうやら畳屋さんらしい。明治だろうか。




濠川を渡る。




濠川を渡ると正面に、今回の最終目的地、「薩摩藩伏見藩邸跡」。まさにここに薩摩藩邸があった。そして坂本龍馬はここにかくまわれ、やがて治療のため薩摩へ向かった。なんとも言えず感慨深い。


京阪丹波橋駅

では京阪丹波橋駅へ向かおう。後は帰るだけだ。




濠川を渡って、そのまま京町通まで向かう。




京町通が現れたら、左折して北へ向かう。




すぐ左側に京町七丁目地蔵尊




また右側に凄い町家が現れたぞ。昭和だろうけど、本当に良い感じだ。




ついに京阪丹波橋駅に到着。ようやく長い旅が終わった。あらためて伏見という街の凄さ、そして面白さが分かった気がする。駆け足だったのがもったいない。ぜひ今度ゆっくり訪ねてみたい。


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