京都の異界を歩く

ちょっと変わった京都の探訪記です

明治維新を歩く(その8)〜淀編〜

鳥羽伏見の戦いで敗れた幕府軍は淀方面へ敗走した。淀藩は仲間だったので、一旦かくまってもらって、体制を立て直そうと思ったらしい。

しかし淀城の手前で薩摩軍の猛攻を受け惨敗。負傷兵だらけの状態で、淀城に助けを求めた。しかし裏切られる。淀藩は城の門を閉めた。

幕府軍は一歩も淀城へ入れなかった。もはや万事窮す。戦いが終わって薩摩軍が引き上げた後、淀には多くの死体が転がっていたという。

地元民は、幕府軍の死体を何ヵ所かに集めて埋めた後、そこに塚を作った。淀にはそんな塚が何ヵ所もある。今回はそこを回ってみよう。

※「明治維新を歩く」と言っておきながら、それ以外も寄り道しまくる事を、あらかじめご了承いただきたい。異界があれば寄る主義なのだ。


京阪淀駅からスタートする

塚を全部回っていては時間が足りないので、主だった所だけを回るようにする。その前に、まずは淀城跡を訪ねる事にしよう。"門を閉めて、幕府軍を入れなかった"という淀城だ。




京阪淀駅に到着した。駅前ロータリーに出ると、目の前に巨大な水車のオブジェがある。実は、淀といえば水車でも有名だった。




駅前から南へ、京阪に沿って歩いていくと、高架下に古い道標を見つけた。「淀川渡場径の碑」、昭和3年とある。

新しい高架なので、古い道標は目立つ。ちなみに京阪が高架化されたのは、平成26年完成と比較的最近の事だ。




淀城の敷地内に入った。というか、既に淀駅構内から敷地内ではあったのだが。

まず現れるのは與杼(よど)神社。平安時代延喜式にも記載という古社らしい。




続いて稲葉神社。上の與杼神社の隣にある。淀城当主だった稲葉氏を祀っているらしい。稲葉氏は幕府老中を務める家柄だった。


淀城本丸跡

では淀城の本丸跡へ入ろう。淀城は、言わずと知れた豊臣秀吉が茶々(淀殿)のために築城したのが始まり(その初代淀城は場所が違う)。

徳川幕府の代になって、淀藩が立藩され、徳川家の譜代大名が当主となる。そして現在の淀城が築城された。京都市内の城郭は珍しい。




淀城本丸跡(その1)。背景の石垣は天守台のもの。江戸時代は立派な天守閣が建っていた。鳥羽伏見の戦いで敗れた幕府軍にとって、救いの場所と思っていたに違いない。同じ幕府の仲間だったから。




淀城本丸跡(その2)。幕府軍は、ここに一旦かくまってもらおうと思っていたらしい。負傷兵を治療したり、態勢を立て直さないといけない。しかし"錦の御旗"が立った事によって状況は変わった。




淀城本丸跡(その3)。城内の一番南西側に「淀城跡」の石碑がある。かなり古そうだ。さて、淀藩にとっても"寝返り"は、苦渋の決断だったに違いない。しかし朝敵になる訳にはいかない。城門を閉めた。




淀城本丸跡(その4)。淀城の広いお堀が見える。幕府軍はこのお堀を越えられなかった。どんな思いで眺めただろうか。行き場を失ってしまった敗残兵たち。もはや万事窮す。


淀城跡を出て淀小橋へ

戦いが終わって、薩摩軍が引き上げた後には、多くの死体が転がっていたという。地元民はその死体を何ヵ所かに埋めて、塚を作って供養した。これからその場所を巡るのだが、その前に水車跡と淀小橋跡へ寄っていこう。




淀城のすぐ脇には、旧国道1号線が通っている。枚方バイパスが1966年にできるまで、ここが1号線だったらしい。

そこに「淀川瀬水車旧跡」の碑が建っている。有名な水車はここにあったらしい。今は石碑だけで面影もないが。

なお淀川は、明治35年に行われた河川改修工事で、位置が変わっている。かつては淀城も淀川に面していたのだ。




では旧国道1号線を北東へ向かおう。やがて納所の六叉路交差点に出るので、そこを東へ曲がると淀小橋へ到着する。




淀小橋旧跡。かつてここに淀川にかかる橋があった。京都と大阪を結ぶ重要な橋だ。小橋といっても、全長129mの大きな橋だった。

それが戊辰戦争の際、幕府軍によって焼き払われてしまった。すぐそこまで迫ってきていた薩摩軍が、渡れないようにするためだ。


千本通を北へ進む

納所交差点に戻って、千本通を北へ進もう。ちなみに千本通は、京都にとって重要な街道。大阪と京都を結ぶ道であり、かつ京都に入ってからは朱雀大路に相当する道だ。僕もかつて鳥羽や東寺、蓮台野などでも歩いたが、この辺りは初めて。楽しみだ。




では千本通を北へ進もう。このまま進んでいくと、やがて小枝橋を越えて京都に入る。つまり元々幕府軍が京都に向かって進軍した道だった。

その頃はおそらく「薩摩何する者ぞ!」と思っていたに違いない。まさか自分たちが敗れて、この道を戻ってくるとは思ってもなかっただろう。




歩き始めると、すぐ左側に唐人雁木旧跡の石碑。朝鮮通信使の船着場がこの辺りにあったらしい。さすが京都の玄関口だ。




続いて右側に納所村道路元標。さりげなくこんな石碑があるなんて、千本通の歴史を感じる。




さらに北へ歩こう。左右に続々と良い感じの町家が現れる。さすが歴史ある街道らしい。


戊辰役戦場跡の碑

鳥羽から敗走してきた幕府軍は一旦、納所という所に陣を構えた。しかし薩摩軍に砲撃され崩壊、さらなる助けを求めて、淀城へ向かう事になる。その納所陣地跡が近くにあるので向かおう。




この狭い道を入ったところに石碑が建っているらしい。ところで右角の家は飾り物がすごく綺麗だった。何の家だったのだろうか。




戊辰役戦場跡の碑(その1)。ここは分かりづらくて、散々迷いながらようやく見つけた。しかも一段高い敷地のためよく見えない(写真中央にあるのだが・・・)。納所会館という集会所の前にひっそりと建っていた。




戊辰役戦場跡の碑(その2)。写真中央をアップしてみた。ところで石碑をよく見ると、戊辰戦争ではなく「戊辰役」(ぼしんのえき)と書いてある。

そういえば西南戦争も昔は"西南の役"と言っていた。「あれは戦争ではない」という薩長史観の呼称だ。薩長は戦争が無かった事にしたかった。

それが戦後教育まで残っていた。僕らは"西南の役"と教えられた。だが今は学校でも、正しく"戊辰戦争"や"西南戦争"と呼んでいる。良い事だ。




戊辰役戦場跡の碑(その3)。納所会館の敷地まで上って撮ってみた。ところでここの敷地は、右側の道路より一段高くなっている。

この段差は昔の淀川の痕跡(右側が淀川だった)。先も言ったように、河川改修工事で今の位置になったが、昔はここを流れていた。


再び千本通を北へ

次の目的地は妙教寺。そこまで再び千本通を歩く。ちなみに、この道は洛北の"葬送地" 蓮台野まで続いている。"葬送地" とは死体捨て場のこと。つまりこの道は死体を葬送する道だった。そのため千本の卒塔婆が立てられていたという。千本通の名の由来だ。




ではまた千本通を北へ進もう。




すぐ左側に良い感じの町家があった。「米庄 岸田商店」とある。古い商家なのだろう。建物は明治か大正の築かもしれない。




続々と良い感じの町家が現れる。古民家ファンにはたまらない道だ。




左側に納所町南地蔵尊。京都は街を歩けば地蔵尊にあたる。というくらい多い。


妙教寺

妙教寺に到着する。幕軍兵士の死体は、このお寺にも運び込まれたという。そして埋葬され、塚が建てられた。全部で十カ所ある埋骨地の一つだ。

当時は、お寺の上を砲弾が何発も飛んでいったらしい。しかもその内の一発はお寺に当たり、柱が破壊されてしまったという。戦場になったお寺だ。




妙教寺(その1)。まずは古めかしい山門をくぐろう。この手前右側に駒札も建てられていた。実は元々ここが、豊臣秀吉の建てた淀古城のあった所らしい。その跡地に寛永年間、妙教寺が創建された。法華宗というから商人の信仰が篤かったのだろう。




妙教寺(その2)。妙教寺の本堂。天保11年の建立という歴史的建造物だ。ところで後で訪ねる千両松に、妙教寺にまつわる逸話が残されている。

詳しくはそこに記すが、昭和42年、新撰組の亡霊が現れたとき、妙教寺の僧侶によって調伏されたという話だ。実は幕府軍には新撰組もいた。




妙教寺(その3)。境内にある戊辰之役東軍戦死者之碑。ここが戊辰戦争における幕軍死者の埋骨地だ。明治40年に建てられたという。

そういえば、"東軍"という呼称は、久しぶりに聞いた。幕府側は主に東日本に多く、新政府側は西日本に多かったので、そう呼ばれた。

関ヶ原の戦いも徳川方が東軍、豊臣方が西軍。源平合戦も源氏方が東軍、平氏方が西軍。つまり日本を二分する合戦は東西に分かれた。




妙教寺(その4)。境内には淀古城跡という石碑もあった。先ほども言ったが、元々豊臣秀吉のために建てた淀城(通称、淀古城)は、ここにあった。


念仏寺

妙教寺の隣に、念仏寺というお寺があった。初めて知ったお寺だが、古そうなので寄ってみた。




念仏寺(その1)。この山門から入る。綺麗に整備されているようだ。



念仏寺(その2)。こちらが本堂。由緒はよく分からない。念仏寺といえば愛宕念仏寺や化野念仏寺が有名だが、ここはそれほど知られていないようだ。




念仏寺(その3)。故陸軍歩兵木下繁治さんという方の慰霊碑もあった。立派は石碑なので、地域の有力者だったのだろう。




念仏寺(その4)。こちらは、やはり陸軍戦死者だった方々の慰霊碑やお墓。もちろん鳥羽伏見の戦いではなく、先の大戦による戦死者だろう。


千本通を北上して埋骨地へ


さらに千本通を北上しよう。途中から西側は淀川の堤防になる。先ほども言ったように、明治35年に河川改修工事が実施され、ここに新たな淀川ができた。なので右と左で風景が全く異なるようになる。




歩き始めたばかりの所は、まだ左右ともに、古い町家が連なっていた。歴史を感じる通りだ。




また左側にお地蔵さん。




ついに左側に淀川堤防が現れた。河川改修工事の結果、新たに作られた堤防だ。とはいえ右側は、良い感じの町家が残っている。昔のままなのだろう。




ようやく見えてきた。幕府軍の死者を埋骨した塚が右側にある。この辺り一帯に転がっていた死体を、地元民が悼んで埋めたという。そして塚を建てて供養した。




戊辰之役東軍戦死者埋骨地の碑。僕も手を合わせた。幕軍兵士もまさかここで命を落とすとは思ってなかっただろう。

碑は明治40年に建てられたという。よく見ると花が手向けられた跡がある。供養をかかさない地元民には頭が下がる。


淀川堤防から旧国道1号線

では淀川堤防を少し戻って、旧国道1号線へ向かおう。次なる目的地は千両松の埋骨地だ。




まずは淀川堤防の上に上がって深呼吸をした。息がつまる場所だったのでホッとする。

新たな淀川河川敷は広い。遠くまで見渡せる。北東方向に見える山影は嵐山だろうか。




続いて南東方向を眺めた。うっすら見える山影は天王山だろうか。開放感抜群で気持ち良い場所だ。




では桂川堤防から下りよう。納所排水機場の横を通って、旧国道1号線に向かう。




やがて旧国道1号線に出た。今度は左折して北へ向かおう。


鳥羽伏見之戦跡地の碑

ではUR伏見納所団地の横を通って、京阪電車の高架下へ向かおう。千両松の埋骨地はもうすぐだ。




UR伏見納所団地へ行く道との交差点の角に、鳥羽伏見之戦跡地の碑があった。これは全く予想してなかったので嬉しい。




鳥羽伏見之戦跡地の碑を別角度から。全く偶然発見したのだが、考えたら戦場跡なのであってもおかしくない。




UR伏見納所団地内の道を南へ。遠くにクレーンが沢山見える。実は京都競馬場がリニューアル工事していた。ガラッと生まれ変わるらしい。京阪の高架化も一体化しているのだろう。




水路を渡る。今は水量の少ない小さな水路だが、実は昔の淀川だった。この何倍も広かったらしいが。この水路を通って桂川に至るのが本来のルートだ。地上で見ても面影もないが、空撮写真を見ると何となく分かる。




京阪沿いの道路に出た。ここを東へ進もう。先にも言ったように、右側の京阪は平成26年に高架完成したので比較的新しい。


戊辰戦争千両松の戦いの碑

ついに到着した。幕軍兵士の埋骨地の一つ、「千両松」。ここに死体が埋められて、塚が作られた。先ほどの場所と違って、ここは周りが幹線道路や住宅地なので、淋しくはない。親子連れが散歩したりしている。




戊辰戦争千両松の戦いの碑(その1)。立派な石碑が作られている。まずは手を合わせて追悼した。碑には「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と彫られている。やはり明治40年に、一斉に作られたものの一つのようだ。




戊辰戦争千両松の戦いの碑(その2)。この石碑はかすれてしまってよく読めない。明治40年の碑だからか。

ところで千両松の戦いでは、新撰組の死者も大勢出たらしい。その亡霊が出た、という逸話が伝わっている。




戊辰戦争千両松の戦いの碑(その3)。敷地内3つ目。これも相当古そうだ。さて昭和42年の事だが、道路工事で、一度石碑を撤去した事があったらしい。

すると工事現場に怪異が起きた。「誠」の旗を持った幽霊が出てきて、「碑を戻せ」という。工事関係者は震え上がった。あの新撰組の亡霊じゃないか。

そこで碑を戻して、妙教寺の僧侶に来てもらって祈祷したという。すると亡霊は出なくなったらしい。昭和42年でも出るほど想いが強かったのだろう。



戊辰戦争千両松の戦いの碑(その4)。これは敷地全景。それにしても法華宗妙教寺が祈祷したということは、日蓮宗系の祈祷を行なったのだろう。

つまり新撰組の亡霊に対して、「もう出るな」と祈祷した訳だ。昭和42年という現代社会において、"新撰組vs日蓮系の戦い"があったなんて感慨深い。

日蓮系という事は、法華経鬼子母神か。いずれにしろ新撰組と良い勝負だったに違いない。ここに眠っている新撰組たちも供養された事だろう。


京都競馬場前を通って光明寺跡へ

次なる目的地は光明寺跡だ。そこに行くまで京都競馬場前を通っていく。ただし今は京阪淀駅から直接2階を通っていく新ルートができたため、これから歩くルートは人通りが少ない。とにかく歩き始めよう。




まずは京阪電車に沿って進んでいく。左側は平成26年に完成した新しい高架。それまでは地上を走っていたはずだが、面影も無い。




高架下をくぐる道が現れたので入っていこう。かつて線路が地上だった時代は踏切だったようだ。淀駅から京都競馬場へ向かうルートだったので、レース開催時は多くの人が渡ったらしい。




京都競馬場が見えてきた。

ところで前日、ホテルのスタッフに「明日は淀に行く予定です」と言ったところ、「競馬場ですか?」と言われてしまった(笑)

京都の人も、淀と言えば競馬場しか浮かばないのだろう。まぁ仕方ない。大正14年に開設された歴史と伝統ある競馬場だ。




交差点の右側にある喫茶店を見ると、「コーヒーハウス ダービー」と書いてある。まんまじゃないか。後で調べると、競馬ファンの間では、有名な喫茶店らしい。

何せ競馬場へのルートにある。行く前の腹ごなしとか、終わった後の祝杯とか、いろいろ賑わったことだろう。ルートが変わった今はどうなっているのだろう。




さてコーヒーハウス ダービーを過ぎて、すぐ左側の道を入っていこう。この先に埋骨地があるはずだ。


光明寺

埋骨地の一つ、「光明寺跡」。明治の廃仏毀釈で廃寺になるまでは、光明寺というお寺があった。そこにも多くの死体が運び込まれたという。今は石碑がひっそりと建つのみだ。



光明寺跡(その1)。ここは見つけるのに苦労した。まさか駐車場の片隅とは思わなかったし、しかも車に邪魔されて(失礼) 、よく見えない。残念ながら、埋骨地らしい陰惨な雰囲気はまったく無かった。




光明寺跡(その2)。とはいえ、ここが幕軍兵士の死体を埋葬した寺跡であることは間違いない。おそらく地元民が悼んで、運び込んだものだろう。本当に地元民の尊い行為には頭が下がる。




光明寺跡(その3)。廃仏毀釈になった寺跡にしては、綺麗に整備されていた。これも後で調べて分かったのだが、長円寺の住職が整備しているようだ。この後に行くお寺だが、やはり埋骨地であり、住職が熱心に管理している。淀にとって無くてはならないお寺だろう。




光明寺跡(その4)。他所と同じ石碑が建てられていた。明治40年に一斉に建てられた石碑の一つなのだろう。それにしても廃仏毀釈とは、本当に罪なことをしたものだ。


新居家住宅を経て長円寺へ

これから最終目的地の長円寺に向かうのだが、その途中に、国登録有形文化財の新居家住宅がある。古民家ファンの僕としては、寄らないわけにはいかない。ちょっと寄り道しよう。




まずは京都府道125号線を南へ進む。この道は「京都の凹凸を歩く」(著者:梅林秀行)という本によると、淀城が造られたとき、商家街として造られた街路らしい。

ちなみに同本は、淀の街並みを、城下町としての造成から詳しく解き明かしてくれるので、淀の歴史を知りたい方は必見だ。(著者はブラタモリの常連だし。笑)




すぐに文相寺というお寺が現れるので、左折しよう。遠く正面に、三角屋根の洋館が見えてきた。




新居家住宅(その1)。近づいてみると、洋館と和風住宅の合体らしい。それにしても、洋館の小窓の連なりや、半円の三連窓が良い感じではないか。




新居家住宅(その2)。正面から見た。大正15年築の洋館。ファサードの切妻部分にあるハーフティンバー風の飾りが可愛らしい。

まさに貴重な建物といって良いだろう。現在は居住中なので見学不可だが、時々見学会をやっているらしい。大切に残してほしい。




さて、元の府道に戻って、長円寺方向へ進むと、左側に淀新町天満宮がある。詳細は不明だが、かなり古そうだ。この商家街ができた時からあるのかもしれない。


長円寺へ向かう道は町家の宝庫


ところで、コーヒーハウス ダービーから長円寺へ向かう京都府道125号線は、淀城築城時に商家街として造られた、と先ほど言った。なので古い町家が数多く残っている。

実はどこの城下町も同じで、お城の周囲に武家街、さらに周囲に商家街、という構造になっている。そのうち武家街は消滅し、商家街だけが残った、というケースが多い。

この商家街も、江戸時代から住んでいる方が多いはずだ。建物も、明治か大正時代に建てられた町家が多く残っている。ここからは詳しい説明抜きで、まとめて見ていこう。




長円寺へ向かう道の町家(その1)。良い感じだが、これは昭和の建物だろう。




長円寺へ向かう道の町家(その2)。これも昭和の建物だろう。ただ、1階の黒塀、2階の飾り窓など、粋な雰囲気が残っている。もしかしたら料亭だったのかもしれない。




長円寺へ向かう道の町家(その3)。これは大正か昭和初期か。




長円寺へ向かう道の町家(その4)。良い感じの町家が2棟並んでいるが、どちらも明治かもしれない。




長円寺へ向かう道の町家(その5)。この右側の建物も凄い。昔は何屋さんだったのだろうか。




長円寺へ向かう道の町家(その6)。これは確実に明治だろう。1階の格子窓といい、2階の虫籠窓といい、何から何まで美しい。


長円寺

商家街を抜けると、「長円寺」に到着する。全部で十カ所あるという埋骨地の一つだ。ここは特に新撰組とゆかりが深いという。

寺には住職も住んでおり、綺麗に整備されている。それどころかWEBサイトやツイッターまであるらしい。早速見ていこう。




長円寺(その1)。立派な山門に到着した。なかなか力強い建物だ。この左右に石碑があるので、まずはそちらから見ていこう。




長円寺(その2)。山門の左側には「戊辰之役東軍戦死者之碑」。その右下を見ると、「榎本武揚書」という小さな石碑もある。どうやら、中央の石碑の文字は、榎本武揚が書いたようだ。なぜここに榎本武揚

長円寺のWEBサイトによると、土方歳三榎本武揚に「長円寺が幕府軍を助けた」というような事を言ったらしい。そこで明治40年榎本武揚により幕府軍の戦死者慰霊碑が長円寺に建立されたという。




長円寺(その3)。山門の右側にも「鳥羽伏見の戦い 幕府軍野戦病院の地」の碑。ここには死体だけではなく、負傷兵も大勢運び込まれた。

死体を埋葬した他、負傷兵の治療も行なったので、"野戦病院" といっても、まぁ良いだろう。結果的に野戦病院の機能も果たしたので。




長円寺(その4)。では山門をくぐろう。正面には本堂が構えていた。建物は新しそうだが、創建して450年以上という歴史を誇る古刹だ。浄土宗寺院で、本尊は阿弥陀如来とのこと。




長円寺(その5)。敷地全景。参拝していると、住職がやって来て、声をかけられた。境内の説明をしてくれるという。この住職がツイッターをやっている方のようだ。丁寧な対応で頭が下がる。




長円寺(その6)。本堂の左側には観音堂もあった。中も見てみよう。




長円寺(その7)。観音堂の内部。中央に観音様が祀られている。驚いたのは新撰組の傘?が置かれていたこと。確かに、土方歳三も含め、多くの新撰組隊士が逃げてきたというが・・・。まぁ良いか(笑)




長円寺(その8)。続いて閻魔堂。ここに冥界の支配者「閻魔大王」が祀られている。普通、"エンマ大王" なんてあまり見ないが、京都では意外とある。僕もかつて、六道珍皇寺や千本閻魔堂などを訪ねた事があった。




長円寺(その9)。中を見てみると立派な閻魔大王が祀られていた。長円寺によると、「閻魔様の前では争いはできない。なので長円寺は戦場にならず、幕府軍の埋葬や治療に専念できた。」という事らしい。




長円寺(その10)。閻魔大王の手前をアップしてみた。ここにも、「新撰組ゆかりの閻魔王」と書いてある。もちろん閻魔王のおかげで、新撰組の埋葬や治療ができたのだから、"ゆかり"は当然だ。

実際に土方歳三永倉新八もここにいたはず。それを思うと感慨深い。(近藤勇は伏見で負傷したため、淀の戦いに参加しなかった)。今や新撰組は大人気だから、大いに宣伝したら良いだろう(笑)




長円寺(その11)。最後に見たのは、例の石碑だった。明治40年に、全部で十カ所建てられたという石碑。ここも埋骨地だから、あって当然だろう。

実際に多くの幕府兵が亡くなった。特に新撰組は隊の三分の一を失ったという。この石碑を見るたびに、陰鬱な気分になる。なんで死んだのか。

しかし生き残った兵もいる。土方歳三永倉新八も、そして近藤勇もそうだ。彼らは死に場所を求めて、この後さらに、江戸へ向かうことになる。

この年の秋、元号は明治に変わる。新しい明治時代の始まり。しかし彼らはそれに抗うようにまだ戦い続けた。死に場所を求めて、江戸へ函館へと。


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