京都の異界を歩く

ちょっと変わった京都の探訪記です

明治維新を歩く(その9)〜岡崎編〜

明治維新を語るとき、会津藩を抜きにしては語れない。会津藩の果たした役割は本当に大きかった。それは京都守護職に任じられていたからだ。

会津藩士1000名は京都の岡崎に駐屯した。そして薩摩軍を主体とする新政府軍と戦った。彼らは会津から遠く離れた京都の地で死んでいった。

滅びゆくものだったから、日本人の心に響いたのかもしれない。彼ら会津藩士のお墓は岡崎にある。今回は、そこを最終目的地に回ってみたい。

※「明治維新を歩く」と言っておきながら、それ以外も寄り道しまくることを、あらかじめご了承いただきたい。"異界" があれば寄る主義なのだ。


京阪三条から歩き始める

岡崎はいろんな歴史を持っている。平安時代には院政の舞台になり、白川殿や六勝寺などができた。幕末には薩摩藩加賀藩など多くの藩が藩邸を構えた。

明治に入ると琵琶湖疏水が引かれ、平安神宮も造られた。さらに美術館や文化会館などの近代建築も建てられ、京都有数の文教地区として今に至っている。

そんな岡崎の西南端の京阪三条駅から歩き始めよう。東北端の会津藩墓地まで、岡崎を斜めに横断する事になる。その間、様々な異界が待っているはずだ。




京阪三条駅を出ると、目の前に高山彦九郎の像が待っていた。江戸時代の尊王思想家で、幕末の志士に大きな影響を与えたと言われている。この像は御所に向かって遥拝しているらしい。




会津藩墓地は東北方向にあるのだが、せっかくここまで来たので、三条大橋を味わっていく事にした。という訳で、鴨川を渡り始めよう。




三条大橋の途中には有名な"もの"がある。擬宝珠に残された池田屋事件の刀傷だ。新撰組の名を天下に轟かした事件だが、その乱闘で当たった刀傷らしい。ちなみに池田屋事件は、映画「蒲田行進曲」でも有名。




そのまま三条大橋を渡りきると、弥次さん喜多さんの像まである。ここは江戸から始まった東海道の終点だった。東海道中膝栗毛だね。




弥次さん喜多さん像から北へ渡ると、「船はしや」という菓子司がある。明治17年創業のあられ豆菓子専門店だ。

建物は昭和初期の町家造りのようで品格がある。左隣の箒屋さんと2軒並んで町家造店舗があるというのは凄い。




三条大橋の西詰には、高札場と石柱の駒札があった。かつてここに高札場があった、という事らしい。




それでは三条大橋を戻ろう。遠くに東山三十六峰の山並みも見えて良い感じだ。


王法林寺

三条大橋を渡りきると、すぐに檀王法林寺というお寺がある。鎌倉時代の創建という古刹らしい。行ってみよう。




王法林寺(その1)。入り口が見えてきた。正面の門は三条通に面しているので、三条門というらしい。明治21年建立。

ここではないが、西側にある川端門は、有栖川宮親王の寄進により、明和3年に建立されたという。宮家由縁の寺なのだ。




王法林寺(その2)。三条門をくぐると立派な楼門が待っていた。その豪快さは本当に見事。なお、門上部に掲げられた扁額「朝陽門」の文字は、山階宮親王の御筆という。やはり宮家由縁だ。明治21年建立。




王法林寺(その3)。こちらが本堂。ちょうど訪ねたときは何かの工事をしていた。建立は寛政3年頃というから、相当古い歴史的建造物だ。京都市指定重要文化財


安倍晴明ゆかりのお寺「心光寺


王法林寺の東隣には心光寺というお寺がある。安倍晴明ゆかりの寺だ。その向かいの超勝寺と合わせて寄ってみよう。




心光寺(その1)。正式名称は法城山晴明堂心光寺という。平安時代安倍晴明が、鴨川治水のために、法城寺というお寺を松原橋付近に建てたのだが、江戸時代に洪水で流された。そこで、この地に移転してきたという。そのため、「法城山」であり「晴明堂」である訳だ。安倍晴明はブームになったので、時々ファンが訪れるらしい。




心光寺(その2)。ひっそりと静まり返って、良い感じのお寺だ。いずれ、「安倍晴明を歩く」というのをやるつもりなので、そのとき詳しく紹介しよう。




超勝寺(その1)。道路をはさんだ向かい側にも大きなお寺があった。超勝寺というらしい。門のデザインが独特だが、大正時代か昭和初期の築だろうか。




超勝寺(その2)。ここも江戸時代の創建という古刹らしい。伽藍も立派だ。ただ非公開なので、今回は遠くから眺めるのみ。


孫橋通を東へ

超勝寺の北側に孫橋通(まごはしどおり)という道がある。そこを東へ歩き出そう。ちなみに孫橋町があるので、この名前なのだが、何やら由緒ありげな地名だ。ただ由来はよく分からない。




では孫橋通を東へ進もう。右側に、良い感じの町家も見えるね。




柳湯(その1)。すぐ左側に木造三階建ての大きな建物が現れた。「柳湯」という銭湯らしい。残念ながら、既に閉店してしまっているようだ。




柳湯(その2)。それにしても立派な建物だ。中もきっと素晴らしかった事だろう。見てみたかった。




そのまま歩いて行くと、また左側に立派な和風豪邸が現れた。お店ではなく個人宅のようだ。中は窺いしれないが、表だけ見ても素晴らしさが伝わってくる。

特に気になったのは、左端の出窓部分の上部の屋根にあたる所。何やらモルタルで造作している。大正時代か昭和初期のようなデザインだが何なのだろう?




同じ和風豪邸の続き。右端は、玄関部分から連なっていて、長屋門のような構造なのだが、意匠はまるで蔵のようだ。

おそらく蔵として機能させていたのだろう。ただ窓が少なく、換気の必要の無かったものを仕舞っていたのだろうか。


伽藍の見事な要法寺

などと言っているうちに、立派な大伽藍が見えてきた。要法寺というお寺らしい。鎌倉時代の創建という古刹とのこと。早速見てみよう。




要法寺(その1)。まずは西側の山門から。安政5年に移築されてきたもので、それまでは伏見城の門だったという。ではくぐってみよう。




要法寺(その2)。本堂と開山堂が見えてきた。どちらも巨大で本当に立派な建物だ。さすが日蓮本宗大本山の一つらしい。




要法寺(その3)。開山堂をアップしてみた。ちょっと中国風のデザインが入ってるように感じるがどうだろう。天保元年の建立。




要法寺(その4)。本堂もアップしてみた。こちらも安永3年の建立という歴史的建造物。なお手前に石造りの太鼓橋(欄干だけ見える)があるが、それは救済橋という名前で、安永7年の築という。




要法寺(その5)。最後は南側にある山門。享保9年に移築されてきたもので、こちらもそれまでは伏見城聚楽門だったという。伏見城の移築伝説は京都各地にあるが、どれも真実なのだろうか。


要法寺を出て東へ

では要法寺を出て、また孫橋通を東へ歩き出そう。やがて東大路通に突き当たるはずだ。




東大路通。京都を一周する幹線道路の一つだ。かつては市電も走っていたので道幅も広い。洛中と洛外を分ける道とも言われる。

さて、右端に町家が2軒並んでいるが、昭和の築だろうか。どちらも良い感じだ。さらに奥に鎮守の森も見える。ちょっと行ってみよう。




満足稲荷(その1)。このひっそりとした通りに面して、満足稲荷はある。左側に鳥居があるのが分かるだろうか。

実は凄い神社で、文禄年間に豊臣秀吉伏見城の守護神として伏見稲荷大社の神様を勧請したのが始まりという。




満足稲荷(その2)。正面から。現在地に移ってきたのは元禄年間のこと、徳川綱吉公の命だというから、それも凄い。




満足稲荷(その3)。現在は地元民から、"満足さん"と呼ばれ賑わっているらしい。


三条通北裏を東へ

孫橋通から東へ続く道を、「三条通北裏」というらしい。ここからは再び、その道を歩いていこう。白川はもうすぐだ。




ここが三条通北裏。良い感じの狭い路地だ。では東へ向かって歩き出そう。




三条通北裏にある町家(その1)。歩き始めると、すぐに驚いた。素晴らしい町家が連なっているじゃないか。どれも粋で良い感じだ。これだから京都はたまらない。




三条通北裏にある町家(その2)。どんどん凄くなってきた。道の両側ともに町家だらけ。"ここは祇園" と言っても分からないんじゃないか。素晴らしすぎる。ただ、今は宿泊施設になってる所もあるらしい。まぁ、仕方ないけど。




三条通北裏にある町家(その3)。この建物なんて一番ステキじゃないか。昭和に入ってからの築だろうが、粋を感じさせる。今は、左の町家も右の町屋も含めて、全部飲食店になっているらしい。


白川沿いの道を歩く

ついに白川に到着する。これから白川に沿って、北東方向へ歩き出そう。風情があって良い感じの道だ。




白川が現れた。これは南側を見たところ。何とも言えない風情があって良いね。




今度は北側。マンションがあるのは残念だが、まぁ気にせず歩いていこう。




すると川の右側に、凄く良い感じの民家が見えてきた。何なのか?行ってみよう。




近づいてみた。窓の手すりが良い感じだ。さらによく見ると、玄関木戸のアイアンもとてもお洒落じゃないか。白川沿いでこの建物なんて凄いね。後で調べてみたらアクセサリーショップだった。




さらに歩くと、左側に三谷稲荷。これも京都らしいね。


竹中精麦所跡

そのまま歩いていくと、左側に「竹中精麦所跡」が現れる。大正時代から昭和初期まで、大麦を精白する工場があったらしい。

建物は保存されていて、今は文化サロンやレストラン、アンティークショップなどになっているとのこと。早速見てみよう。




竹中精麦所跡(その1)。「時忘舎」という看板が掲げられていて、この中が文化サロンやカフェになっているらしい。ただこの時は閉まっていた。コロナの影響だろうか。

それにしても「時忘舎」(じぼうしゃ)という名前が良いね。ここにいる時だけは、"時を忘れて過ごしてほしい"という意味だろう。いつか機会があれば、再び訪ねてみたい。




竹中精麦所跡(その2)。左側の板塀が竹中精麦所跡。この先にレストランやショップもあるようだ。白川沿いで風情があって良いね。




竹中精麦所跡(その3)。小さな橋が掛かっていた。「もっこ橋」だ。かつて右側にあった製氷工場の職人さんが、もっこを担いで渡っていたから、そう呼ばれるようになったらしい。ちょっと渡ってみよう。




竹中精麦所跡(その4)。もっこ橋の上から眺めてみた。右端に見えるのがレストランとアンティークショップ。残念ながら今回は通過だ。




そのまま歩くと、仁王門橋に着いた。ところで手前に古いコンクリート構造物が見える。これは昭和30年代にあったという児童プールの痕跡ではないだろうか。白川を堰き止めて、プールのように使っていたのだが、おそらくそのための堰の跡だろう。


神宮通を北へ

仁王門通に着いた。ここから神宮通を北へ進むと、平安神宮はもうすぐだ。だがその前にもいろいろ見所がある。




仁王門通川端通から白川通まで、岡崎を東西に横断する通りだ。凄い名前だが、西の方にある頂妙寺というお寺の仁王門から名付けられたらしい。まっすぐ進むと、無鄰菴という有名な庭園があるのだが、今回は通過。目の前の神宮通を左折しよう。




神宮通に入ると、平安神宮の大鳥居が見えてきた。このまま北へ進もう。




すぐに琵琶湖疏水を渡る。有名なので説明するまでもないが、琵琶湖から延々と引かれてきた水路だ。明治に造られた歴史的建造物でもある。

ちなみに、この水流を使って発電も行われていた(今でも夷川に発電所がある)。その電力を使って岡崎を工場地帯にする計画もあったらしい。

残念ながら工業地帯にはならなかったが、そのかわり美術館や図書館、動物園といった文化施設が大量に造られた。その一環に平安神宮もある。




ては平安神宮の大鳥居をくぐろう。この超巨大な鳥居は遠くからでも目立つ。まさに岡崎のシンボルのような存在だ。何と昭和4年に造られた歴史的建造物で国登録有形文化財


京都市京セラ美術館

平安神宮は目の前なのだが、この辺りは素晴らしい歴史的建造物の宝庫で、なかなかそこまで進めない(笑)。

まず右側に現れたのは京都市京セラ美術館。昭和3年に大礼記念京都美術館という名前で建てられたものだ。

日本の公立美術館では最も古いらしい。こんな建物があったら見ない訳にはいかない。国登録有形文化財




京都市京セラ美術館(その1)。昭和3年に京都で行われた即位の大礼を記念して建てられたため、当初は大礼記念京都美術館と呼ばれていたらしい。

太平洋戦争直後は進駐軍に接収されたが、戦後は京都市美術館と名を変え、長らく使われてきた。比較的最近になって京都市京セラ美術館になった。




京都市京セラ美術館(その2)。何と言っても特徴的なのは、洋風建築に和風屋根を載せる、という和洋折衷のデザイン。帝冠様式と呼ばれ、愛知県庁舎や九段会館、琵琶湖ホテルなど、昭和初期の建物に多い。ここはその代表的な建物といえる。




京都市京セラ美術館(その3)。では玄関を入ろう。どこを見てもネオゴシック様式で素晴らしい。京都市は、戦前の近代建築の宝庫なのだが、この建物はその最高峰かもしれない。




京都市京セラ美術館(その4)。2階へ上がる重厚な階段。"近代建築の一番の見どころは階段にある" と僕は思っている。ここもその通り。よく分かっていただけるのではないだろうか。




京都市京セラ美術館(その5)。1階中央ホール。ここは左奥の螺旋階段が特徴的だろう。前田健二郎という人が設計者らしい。

この建物は、京セラが命名権を取得して、京都市京セラ美術館という名前になった。これからも末永く使われることだろう。


京都府立図書館

京セラ美術館の向かい側に、京都府立図書館がある。明治42年竣工という歴史的建造物だったが、阪神大震災でダメージを受けてしまったらしい。

そのため建て替えられる事になったが、ファサード(表側)は、"武田五一の設計" という文化財的価値があるため、そこだけ活用される事になった。

つまり表面の化粧部分だけ残して、後は建て替えるという方法。こういう保存方法はあまり好きではないが、全員を満足させるためには仕方ないか。




京都府立図書館(その1)。という訳で、表面だけ"ハリボテ" のように残った建物。何度も言うが仕方ない。現代社会の病理の表象と思えば納得できるかも。

とはいえ、明治の建物らしい趣きは伝わってくる。縦を基調にした柱のラインとか。何と言っても、設計は有名な武田五一だ。やはりタダモノではないね。




京都府立図書館(その2)。何度も言うが、この手の建物の一番の見どころは階段だ。ここだけでも残してくれてありがとう、と言いたい。ちなみに階段を上がった扉の先は貴賓室だったらしい。




京都府立図書館(その3)。建物内に入ると、建築当時の部材が保存展示されていた。このメダリオンのような物体は天井飾り。欠けているのが悔やまれる。




京都府立図書館(その4)。こちらは職員用通用口の扉。何ていうか、通用口なのに上部がアールで、しかも螺旋模様のアイアン飾りというのは凄い。(ちなみに図書館内は撮影禁止だが、この展示スペースだけはOKだった)


加賀藩邸跡と薩摩藩邸跡

京都府立図書館を出て北へ歩くと、すぐに二条通へ出る。実は、この辺りこそ、幕末に成立した藩邸地帯の中心地だ。

岡崎は、明治以後こそ文化ゾーンになったが、江戸時代までは農村地帯に過ぎなかった。そこに目をつけたのが各藩。

田畑を開発して、薩摩藩加賀藩、越前藩、彦根藩などの藩邸が幾つも建てられた。今からその中心地を歩いていこう。




という訳で二条通を横断した。ちなみに、この藩邸街の詳細を明らかにしたのは、歴史研究家の原田良子さん。彼女の研究成果はもっと知られても良いだろう。実際、今回も大変役立った。




二条通の南側は加賀藩邸跡。今は面影も無い。ところで左側に見えるのは交番だが、何となく近代建築風に見える。縦を強調した窓のラインとか・・・。おそらく意識してると思うのだがどうだろう。




そして北側は薩摩藩邸跡。正確には岡崎屋敷跡というらしい。ただ、ここにあったのは屋敷というより、練兵場だったという事が分かっている。さらに慶応4年頃には薩摩藩も引き払って、横須賀藩や秋田藩、富山藩などの藩邸になったとのこと。あまり重要視はされてなかったようだ。




北側には平安神宮と書かれた巨大な石柱も建っていた。いかにも古そうだが、平安神宮自体は明治28年に創られた比較的新しい神社だ。




遠く正面に平安神宮の応天門が見えてきた。ここから参道を歩いていく。ところで、この日は何かイベントをやっているようで、左右に出店のテントがずらっと並んでいた。まぁ何となく観光地らしいね(笑)。当然だが、ここが薩摩藩邸跡だったという面影はまったく無い。


京都市美術館別館とロームシアター京都

とはいえ、まだ真っすぐ平安神宮へ進む訳にはいかない。この辺りは興味あるものが多すぎる。平安神宮は目の前だが、もう少し寄り道しよう。




まず見えてきたのは京都市美術館別館。元々は昭和5年に、京都市公会堂東館として建てられたものという。それが京都会館別館になり、今の美術館別館になった。




続いて正面から。なんとも言えない和洋折衷のファサードは、遠くからでも目立つ。建築ファンなら垂涎ものだ。特に玄関上部の唐破風などは迫力がある。




その隣にあるのはロームシアター京都。昔は京都会館と言っていた。前川國男の設計により昭和35年に建てられたという。

京都市民なら一度は来たことがあるのではないか。労音のコンサートなどもよく行われていたようだ。

和洋折衷建築の隣に近代モダニズム建築が並んでいる、というのは何とも面白い。これぞ京都岡崎といったところだろうか。




別角度から。ここには僕も何度かコンサートを見に来たことがある。当時はモダニズム建築のことなど知りもしなかったが(笑)。




さらに驚くべきものまで建っていた。「全国水平社創立の地記念碑」。ロームシアターと美術館別館の間に建っている。

実は大正11年、ここにあった岡崎公会堂で水平社は創立されたらしい。水平社創立60周年を記念して、この碑はできた。

あの有名な一節、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」の文字が刻まれている。これは日本初の人権宣言とも言えるだろう。


平安神宮

寄り道は終わった。ようやく平安神宮へお参りできる(笑)。先ほども言ったが、明治28年にできた比較的新しい神社だ。

とはいえ明治の京都を語るとき欠かせない。しかも京都有数の巨大神社として観光名所でもある。早速お参りしよう。




平安神宮(その1)。まずは応天門が現れた。その巨大さはさすが、という他ない。修学旅行生らしい姿もチラホラ見える。久しぶりに観光地に来たような気分だ。




平安神宮(その2)。応天門をくぐって中に入った。これは広い。なお平安神宮が、平安京大内裏を模した、というのは有名だろう。




平安神宮(その3)。どうだ、これでもか、というくらい強烈な中国趣味。これも設計は伊東忠太と聞けば納得するのではないか。奇想天外な建物ばかり作った伊東忠太だからね。




平安神宮(その4)。これが本殿にあたる大極殿。何ていうか、平安京大内裏自体が、中国の洛陽城をモデルに造られたのだから、ここが中国風なのは、しょうがないかもしれない。


京都守護職上屋敷移築門

では平安神宮を出て、少し西へ歩いていこう。すると平安神宮の大型バス専用駐車場に出る。そこにも前から行きたかった。

なぜなら驚くべきものが建っているからだ。京都守護職上屋敷に建っていた門が移築されているという。早速見てみよう。




駐車場の向こうに見えてきた。黒塗りの武家門。これが京都守護職上屋敷にあったという正門だ。

言うまでもないが、京都守護職とは、会津藩松平容保公のこと。その上屋敷京都府庁の所にあった。

その守護職が廃された後、かろうじて門だけが残されて、ここに移築されたという。とにかく良かった。




近寄ってみた。威風堂々。迫力ある門だ。今回は会津藩士の墓地を訪ねるのが最終目的なので、この門もどうしても訪ねたかった。

なお京都守護職上屋敷門については、二条城近くのホテル敷地内の門だという説もあったが、ホテル三井により公式に否定された。




門の横に、武徳殿にまつわる石碑があった。実は、この門は武徳殿の正門として移築されたようだ。ここに来て初めて分かった。

それまでは、何でこんな所にあるのだろう?と思っていた。

この門について書かれた本にも「駐車場の脇に寂しそうに建っている」とか「排気ガスにまみれて建っている」など悪い事ばかり。

あの松平公の屋敷門なのに、"それはないだろう"と思っていた。この奥に武徳殿が建っているので、後で寄っていく事にしよう。


桜馬場通を北へ

という訳で移築門を出て、桜馬場通を北へ向かおう。ここから目指すは聖護院だ。だが途中まだ寄り道するところがある。なお桜馬場という通り名も由緒ありげだが由来は不明。




左は琵琶湖疏水、右は武道センター。その間を北へ向かう。




途中で琵琶湖疏水は左に折れて西へ向かう。この先に夷川発電所や船溜りなどがある。それにしても水量が多く、この水が琵琶湖から来たと思うと感慨深い。




そのまま北へ歩くと、すぐに尊勝寺跡の看板を発見した。これは想定外だったので嬉しい。

前も言ったが、岡崎には平安後期の院政時代、天皇家により六つの御願寺が建てられた。

尊勝寺や法勝寺など、どれも「勝」の字が含まれていたので、「六勝寺」と呼ばれたらしい。

という事までは分かっていたが、場所までは知らなかった。その一つがここにあった訳だ。


武徳殿


そうこうする内に、武徳殿の入り口が現れる。武徳殿とは明治32年大日本武徳会により建てられた施設。「東の講道館、西の武徳殿」と呼ばれるほど、日本の武道の中心的存在だったという。




旧武徳殿(その1)。ここが入り口。大きな冠木門だが、華美なところは無く、質素な造りなのも武道らしい。では早速入ってみよう。




旧武徳殿(その2)。すぐ右側に現れた。ものすごい純和風建築物。幾重にも重なった屋根が重厚さを感じさせるが、やはり華美なところは無い。

これを設計したのは松室重光と後で知ったが、松室は京都府庁舎旧本館や京都ハリストス正教会のイメージがあるので、何となく違和感がある。




旧武徳殿(その3)。今度は正面から見てみよう。現在は京都市武道センターの施設となり、稽古場や演舞場として使われているという。現役で活躍中というのは素晴らしい。




旧武徳殿(その4)。扉が開いていたので、ちょっと覗いてみた。これは本当に凄すぎる。木造でこの大広間というのも凄いし、もう何から何まで惚れ惚れする。国指定重要文化財


丸太町通から春日北通

では武徳殿を出て、聖護院を目指そう。途中で丸太町通を越えて、細い路地をのんびり歩きながら、春日北通へ向かう事になる。




武徳殿を出て北へ歩くと、すぐに丸太町通に出た。この道は京都を東西に貫く幹線道路で、東は鹿ヶ谷から西は嵯峨野釈迦堂まで続くという。この道沿いの堀川に材木商が多かったことから、この名が付いたらしい。では横断歩道を渡ろう。




ところで、この交差点の角に、近代建築風の建物が建っていた。屋根の造りなどを見ると、昭和初期の看板建築のようにも見えるが、はたしてどうなのだろう?(こんなところも京都は面白いね)




看板建築風の建物の隣を北へ入った。するとどうだろう。良い感じの町家が並んでいるではないか。小さい路地なのに本当に素晴らしい。まぁ、もちろん宿屋になっていたけどね。


聖護院

路地を抜けて春日北通に出ると、目の前はもう聖護院だ。説明するまでもないが、山伏で知られる修験道の総本山であり、天皇家の縁戚が門主を務めるという門跡寺院でもある。由緒も格式もある寺院だ。早速見てみよう。




聖護院(その1)。以前から修験道の研究をしていた僕にとって、特に行きたかった場所の一つだ。左側の聖護院門跡の巨大石柱ですら身震いしてしまう。とにかく近づこう。




聖護院(その2)。山門に近づいた。門上に菊の御紋が掲げられているのが分かるだろうか。門跡寺院の証だ。ところで門跡とは何か。説明しておこう。

大雑把に言うと、昔は天皇家の長男等が跡を継いで天皇になった時、二男や三男等は頭を丸めて仏門に入った。彼らが門主となったのが門跡という訳だ。

京都にはいくつか、こういった門跡寺院がある。というか京都にしか無いかもしれない。とにかく他のお寺とは別格。気軽に入れる今の時代は有難い。




聖護院(その3)。まっすぐ進んでいくと長屋門が現れた。これはどう見ても武家門のように見える。

考えたら修験の山伏は、僧侶でありながら、長刀を持つ武士でもあった。弁慶を見れば分かるだろう。

だからだろうか。よく分からないが、戦に備えているかのような小窓を持つ長屋門があるのは面白い。




聖護院(その4)。今度は本殿である宸殿。なんと江戸中期に建てられたという。しかも光格天皇の御代には、仮御所にもなったという格式ある建物だ。さすがは聖護院。




聖護院(その5)。正面の建物は不動堂。近づいてみよう。




聖護院(その6)。奥に不動明王が見える。もちろん重要文化財。何て力強いお姿なのだろう。

聖護院は平安後期の創建というから、1000年近い歴史を誇る。参拝できただけでも有難い。


積善院準提堂

聖護院を出て、東へ歩くとすぐに、積善院準提堂に到着する。聖護院の塔頭の一つだ。鎌倉時代初期に創建されたという。この辺りは本当に古刹が多い。




という訳で、聖護院を出た。

ところで一般的には、聖護院といえば「聖護院八ツ橋」の方が有名だろう。実はこの辺りこそ、「八ツ橋」発祥の地。八ツ橋ゆかりの史跡も多い。

今回は寄らないが、いずれ八ツ橋ゆかりの史跡も回ってみたい。余談だが僕は、"餡の入ってない八ツ橋" が好きだ。では春日北通を東へ進もう




積善院準提堂(その1)。東へ歩くと、すぐに積善院準堤堂に到着した。質素な冠木門がある。早速入ってみよう。




積善院準提堂(その2)。手前が拝堂で奥が本堂か。こじんまりとして落ち着く。ここでしばらく休憩する事にした。

なぜか分からないが、本当にくつろいでしまった。聖護院より癒されたような気がする。緊張が解けたのだろうか。




積善院準提堂(その3)。奥の方に不動明王が見える。




積善院準提堂(その4)。通称、"五大力さん" とも呼ばれて、地域住民にも親しまれているらしい。それが良かったのかもしれない。


須賀神社を経て金戒光明寺

積善院準提堂の向かい側に須賀神社がある。こちらに寄ってから、最終目的地の金戒光明寺に向かおう。終わりは近い。




須賀神社(その1)。ここは聖護院とも関係があるらしい。平安末期に創建されたという古社。素戔嗚尊を祀る。




須賀神社(その2)。よく分からないが、交通神社という神社と一体化しているらしい。




では再び春日北通を東へ進もう。金戒光明寺は近い。




その前に、岡崎西福ノ川町地蔵尊があった。迷わず手を合わせる。そしてまた歩き出そう。


金戒光明寺

そしてついに到着した。最終目的地の金戒光明寺。通称 "くろ谷さん"とも呼ばれている。何度もいうが、会津藩が陣を構えた事によって、このお寺の名声はさらに深まった。会津藩抜きには語れない。じっくり見ていこう。




金戒光明寺(その1)。正面に大きな山門が見えてきた。ようやく着いた、という思いが込み上げる。ちなみにこれは高麗門といって、万延元年の築らしい。




金戒光明寺(その2)。門の左右にそれぞれ巨大な石碑が建てられていた。まずは左側。園光太子霊場と刻まれた石碑がある。園光太子とは浄土宗の開祖、法然上人のことだ。




金戒光明寺(その3)。続いて右側に洛陽第六番観音霊場の石碑。これは洛陽三十三所観音霊場といって、平安時代に始まり、室町時代に定着した巡礼の第六番札所ということ。江戸時代には日本全国に同様のものがあり、ブームになった。




金戒光明寺(その4)。そして会津藩殉難者墓所の巨大な石碑もあった。やはり避けては通れないだろう。



金戒光明寺(その5)。今度は総門をアップで見てみよう。京都守護職本陣旧跡と書かれた木札が嬉しい。早速入ってみよう。




金戒光明寺(その6)。境内に入って参道を進む。次々と会津墓地参道と書かれた道標が現れる。さぞかし参拝者も多いのだろう。




金戒光明寺(その7)。ついに見えてきた。万延元年に建てられたという山門。あまりの巨大さに驚かざるを得ない。

これこそ金戒光明寺のハイライトだろう。会津藩士たちはここに上って、京都市中を監視したわけだ。本当に高い。




金戒光明寺(その8)。山門に近寄ってみたが、あまりにも巨大過ぎて、ますます全貌が分からない。とにかく大きい。




金戒光明寺(その9)。山門をくぐると、昭和19年に再建されたという御影堂が現れた。ここに本尊が祀られているらしい。国登録有形文化財




金戒光明寺(その10)。御影堂を横から見ておこう。このお寺は、法然上人が最初に浄土の教えを広めた念仏発祥の地と言われているらしい。




金戒光明寺(その11)。今度は大方丈。これも昭和19年に再建されたもの。やはり国登録有形文化財




金戒光明寺(その12)。清和殿(左)と新清和殿(右)。ここは二棟が繋がっている。どちらも大屋根が見事で迫力がある。




金戒光明寺(その13)。清和殿の屋根をアップで。煙抜きの小屋根が乗っかっている、ということは囲炉裏でもあるのだろうか。いずれにしろ、安永8年の建立というから驚く。




金戒光明寺(その14)。今度は阿弥陀堂。慶長10年、豊臣秀吉により建てられた、という歴史的建造物。京都府指定有形文化財




金戒光明寺(その15)。伽藍の最後は納骨堂。中国風の建物で面白いが、元禄2年に建てられた歴史的建造物。


会津藩墓所

では境内にある会津藩墓所に向かおう。そこが本当の最終目的地だ。静かな山道を上がっていくと、やがて到着する。




会津藩墓所(その1)。この橋を渡っていくらしい。下は蓮池になっていて、花が咲くときはきっと浄土のような風景だろう。




会津藩墓所(その2)。橋を渡ると、すぐに長い長い石段が現れた。この上を登っていくのか。最上段には有名な文殊塔が見える。寛永10年に建立された重要文化財だ。




会津藩墓所(その3)。ここを左に曲がるらしい。丁寧な石標があって有難い。もうすぐだろう。




会津藩墓所(その4)。ようやく会津藩墓所に到着した。鬱蒼とした森の中で、ここだけ別世界のように静まり返っている。




会津藩墓所(その5)。幾つもの墓標が建てられていた。会津藩士は、戊辰戦争で約250名が亡くなっている。遠い京都の地で、無念だった事だろう。




会津藩墓所(その6)。側に松平容保公がいらっしゃるのを発見した。皆んなの墓標の方を向いている。暖かく見守ってる、という事なのだろうか。これで会津藩士たちも報われただろうか。果たして・・・。




会津藩墓所(その7)。最後に松平容保公をアップしてみた。やはり松平容保公も、無念の表情をしているように見える。

それはそうだろう。なぜ会津の若者たちが、遠い京都の地で死ななければならなかったのか。無念しか浮かばない。

松平容保公はその後も生き延びて、明治に入ると日光東照宮宮司などになり、最後は明治26年、東京で亡くなった。