京都の異界を歩く

ちょっと変わった京都の探訪記です

安倍晴明を歩く(その2)〜下京編〜

前回のブログでは、実像の安倍晴明を訪ねて回った。その結果サラリーマンとして朝廷に仕えていた姿が分かっただろう。

そこで今回は、虚像の安倍晴明を訪ねてみたい。"伝説の安倍晴明" と言っても良い。映画やアニメなどで語られるほうだ。

もちろん虚像といっても、きちんと史跡はある。しかも虚像の方が味わい深い。それは"異界" と呼ぶに相応しいだろう。



※「安倍晴明を歩く」と言っておきながら、それ以外も寄り道しまくる事ご了承いただきたい。異界があれば寄る主義だ。


鉄輪井戸から歩き始める

安倍晴明の伝説は下京に多い。特に松原通沿いに集中しているようだ。そこに描かれているのは、朝廷に仕えていた "サラリーマン" とは全く別のもの。

まずは松原通の南側の鉄輪井戸から訪ねてみよう。そこは恐ろしい伝説に彩られている。しかも京都の真ん中にあるのに、見つけるのが難しいらしい。

はたしてそこは一体どんな所なのか?




鉄輪井戸(その1)。真っ赤な鳥居と社が見えた。こじんまりとしているが、実は恐ろしい伝説がある。夫の浮気に怒った妻が、呪いながら死んだという。

彼女は顔に朱を塗り、体には丹を塗り、頭には鉄輪(三本足の鉄の輪)を被り、その三本足には蝋燭、口には松明をくわえて、貴船神社に "丑の刻参り"をした。

しかし途中で力尽き、自宅近くの井戸で死んだという。それを哀れに思った者が、そこに亡骸を葬った。その井戸は「鉄輪井戸」と呼ばれるようになった。




鉄輪井戸(その2)。やがて伝説が生まれた。「鉄輪井戸」の水を飲ませると、どんな縁でも切れるというのだ。それは広く知られ、"縁を切りたい人" が、数多く訪れるようになった。

さてある時、やはり夫の浮気に嫉妬した女が、呪い殺すために"丑の刻参り"を行った。異変を感じた夫は安倍晴明に助けを求める。晴明は呪術を駆使して鬼女を退散させたという。




鉄輪井戸(その3)。どうやらこれが鉄輪井戸らしい。現在は頑丈に塞がれているようだ。

安倍晴明は一体どんな力を駆使して鬼女を退散させたのだろうか。凄い呪力の持ち主だ。

それにしても、恐ろしい伝説の井戸が、現在も同じ場所に存在しているというのも凄いね。




鉄輪井戸(その4)。しかも、その井戸は全く見つけづらい場所にある。何せ進入路は、この路地なのだから。

人が一人通れるだけの狭さ。普通の人は絶対に分からないだろう。まさかこの奥にひそんでいるとは・・・。




鉄輪井戸(その5)。しかも入り口はここなのだ。この格子戸をくぐった奥に、上記の進入路がある。

これは、まるで人の家の入り口じゃないか。目印というと、右下に小さな石碑が立っているだけだ。

確かにここを入るのは、かなり勇気がいるだろう。これも京都の恐ろしさ、という事なのだろうか。


松原通を東へ

では鉄輪井戸を出て、北側の松原通を歩き始めよう。目指すのは、安倍晴明が住んでいたという法城寺だ。

ところで松原通はかつて五条通だった。豊臣秀吉により変更されたのだ。その痕跡は残っているだろうか。




松原通へ出た角に、お地蔵さんを発見した。由緒はよく分からないが、丁寧に祀られている。京都は本当にお地蔵さんが多い。道を歩けばお地蔵さんに当たる。




さらに松原通を東へ歩いていくと、良い感じの町家を発見した。造りからいって、昭和に入ってからの築だろうが、本当に素晴らしい。

飾り窓があるという事は、何かのお店だったのだろう。右側は店舗入口で、左端は住居へ続く土間の入口、といったところだろうか。




明王院不動寺(その1)。そのまま東へ歩いていくと、麩屋町通との角に、明王院不動寺というお寺を発見した。

まったく初めてのお寺だったが、異界の匂いを感じたので入ってみた。すると、やはり由緒ある古刹だった。




明王院不動寺(その2)。"由緒書き" によると、創建は何と691年。奈良時代より前じゃないか。

もちろん平安遷都より前。さすが由緒ある五条大路だ。やはり松原通はただの道ではないね。


松原橋へ向かう


さらに東へ進んで、松原橋の方向に向かおう。安倍晴明の住んでいた法城寺は、鴨川の河原にあったからだ。

ところで豊臣秀吉は京都の街を大改造したのだが、その痕跡はこの通りにも残っているらしい。見ていこう。




まずは寺町通を横断した。豊臣秀吉が京都中のお寺を集めて、この道沿いに配置したという。そのため寺町通と名が付いた。

その名残はしっかり残っていて、今もお寺がずらっと並んでいる。外敵から京都を守る"結界"のような役割を果たしていた。

それと、寺町通で重要なのは、平安京の東端だったという事。いわば"東"京極だった訳だ。かつてこれより東は異界だった。




さて、結界である寺町通を通り過ぎてから、振り返ってみた。するとどうだろう。

寺町通のところが少し高くなっているような気がする。御土居の名残だろうか。

御土居とは豊臣秀吉が作った京都を一周する土手のこと。これも結界といえる。




続いて河原町通を横断した。今では京都を代表する道路の一つだが、その歴史は意外と新しい。何せ江戸時代まで、この辺りは鴨川の河原だった。

この道の東側に御土居があって、そこが鴨川の堤防だったという。それより西側は鴨川の中。まさに河原町という名前の通り"河原" だった訳だ。




すぐに高瀬川が現れた。言うまでもなく、安土桃山時代角倉了以が開削した水路だ。京都の物流の大動脈であり、この川抜きに京都の歴史は語れないだろう。

しかし先に言ったとおり、この辺りは河原だったので、角倉了以は、河原の中に新たに水路を作ったようなもの。いわば桂川のような姿を想像すれば良いだろう。




高瀬川の隣は木屋町通だ。この辺りは割烹料亭「鮒鶴」などがあり、風情ある通りといえる。四条より北の飲み屋街とは大違いだ。


鴨川を渡る

ついに鴨川に到着する。先ほど言ったように、ここに掛かっている橋が、かつては五条大橋と呼ばれていた。弁慶と牛若丸が出会ったという橋だ。

そして、その橋の下に安倍晴明の住んでいた法城寺があったという。今は無き中之島という島に建てられていたというのだ。今から渡っていこう。




まずは松原橋の全景から。思ったよりも狭いので誰もが驚くだろう。歴史探索には重要な橋だが、現代社会においては大した道ではないのだろう。

とはいえ、ここはかつての五条大橋。「清水寺参詣曼荼羅」という古文書によると、清水寺へ参る出発点だったという。異界への入り口だった訳だ。




橋の中ほどまで渡って、上流を見てみよう。右側遠くに、比叡山も見える。良い感じだ。

普段はこんなに穏やかな雰囲気だが、一旦雨が降ると、獰猛な暴れ川に変貌してしまう。

それもこれも無理な河川改修が原因なのだから仕方ない。京都は河川敷の上に街がある。




振り返ると、川沿いに鮒鶴という割烹料亭が見える。(現在は鮒鶴京都鴨川リゾートという名のフレンチレストラン)

明治3年の創業という老舗で、現在の建物も、大正14年築の旧館と、昭和9年築の新館が並び建つ五層楼閣建築だ。

特に、屋上に建つ望楼が特徴的。この界隈のシンボルのような建物といえるだろう。もちろん国登録有形文化財だ。




対岸まで渡ってきた。今はここが鴨川の東側堤防にあたるのだが、かつてはもっと広かった。先ほどの河原町通から、この先の松原公園あたりまでが"河川敷"、つまり河原だった。

それが江戸時代の寛文年間に埋め立てられて、今の川幅になったという。今ある先斗町や宮川町、五条新地などは、その時新しくできた街だ。どれも花街という事に注目したい。




渡り終えたたばかりの松原橋を振り返ってみた。遠く右側に鮒鶴が見える。ところで、鴨川の真ん中にあったという中之島はどこにあったのだろうか。

様々な古絵図と照らし合わせてみると、おそらく渡り終えた現在地から、もっと東の松原公園付近までの間あたりに、あったのではないだろうか。


鴨川の東側を歩く

さてここからは、かつて安倍晴明が住んでいたという中之島の跡地を歩いていく。そこに法城寺というお寺を建てて住んでいたというのだ。

さらに付け加えると、平安時代は魔物の住む異界とされたエリアでもある。しかも江戸時代までは河原だった。今はどんな姿なのだろうか。

早速歩き始めよう。




まずは川端通を横断する。1980年代に新しく作られた道だ。交通量も多い。
今はこの地下に京阪電車が走っているが、かつては地上を堂々と走っていた。




続いて琵琶湖疏水を渡る。言うまでもなく、琵琶湖から引かれてきた用水路だ。明治時代に上水道や運河、発電などを目的に造られた。

京阪電車が地上を走っていた頃は、琵琶湖疏水もそこかしこで見られたが、今は暗渠になってしまった所が多い。ここは見られて嬉しい。




琵琶湖疎水を渡ると、すぐ右側に松原公園が現れる。先ほども言ったように、この辺りまでが中之島だったと思われる。安倍晴明はここに法城寺というお寺を建てて住んでいた。

彼はそこで、河川氾濫を抑えるための祈祷を行っていたという。法城寺という寺名も、法(さんずいに去る、すなわち水が去る)と城(土に成る)という "言霊の仕掛け" があった。




松原公園を右に見て、そのまま松原通を直進しよう。左右に飲食店が見えるが、もしかしたら宮川花街が繁栄していた頃の名残りだろうか。

ところで、先ほどの法城寺だが、安倍晴明の亡くなった後、鴨川の氾濫によって流されてしまい、そのまま廃寺になってしまったらしい。

そこで鴨川東岸の弓矢町に、清円寺というお寺が建てられ、安倍晴明の遺骨ごと、そこに移されたという。今から僕らはそこに向かう。


宮川町

安倍晴明を祀っていたという清円寺は近いのだが、その前に宮川町を横断することになる。

京都五花街の一つという格式ある花街。寄らない訳にはいかない。ちょっと眺めていこう。




宮川町(その1)。まずは南側を望む。提灯の下がっている所が、今もお茶屋さんをやっている所だ。もちろん廃業したお店も多く、今はレストランや宿屋さんなんかもチラホラ見られたりする。




宮川町(その2)。宮川筋を歩くと、すぐにこんな路地に出くわす。この奥にもお茶屋さんがある、という訳だ。京都は本当に路地が面白い。




宮川町(その3)。今度は北側を望む。石畳と犬矢来の続く街並みは、本当に風情があって良いね。しかも夕方になると、芸妓さんや舞妓さんを見かけることもある。

ちなみに、昼間はもちろん歩いていない。もし昼間見かけたら、それは間違いなく、レンタル着物を着た観光客だ。この街にも、そんなレンタル着物店が増えてきた。


弓矢町

さて、宮川町を過ぎると弓矢町に入る。かつて弓矢を作る職人さんたちが住んでいたから その名が付いた、という伝説の弓矢町。

さらには安倍晴明を祀り、そして安倍晴明のお墓もあったという清円寺も、その弓矢町にあったという。では早速入っていこう。




まずは左側にお地蔵さんがあった。このお地蔵さんの右側あたりに、かつて門があったらしい。清水寺参詣曼荼羅にはっきりと描かれている。

その門こそが、鴨川と弓矢町を分ける結界の役割を果たしていた。門の西側は鴨川の河原。門の東側は陸地となり、そこから弓矢町は始まる。




今度は東側を見てみよう。正面の近江牛のお店辺りはもう弓矢町だ。(余談だが近江牛屋さんは、明治27年創業の老舗の牛肉屋さん)

そして、その手前左側に路地がある。そこは物吉(ものよし)村への入り口だ。実は清円寺は、弓矢町の中の"物吉村"にあったという。

物吉村とは何だろうか?




肉屋さんの手前左側の路地を見てみよう。この先の町家が始まる辺りから先が物吉村だ。弓矢町の中でも物吉村は独特の場所だったらしい。

モノヨシという"祝言者"が住んでいた。「ものよーし!」と言いながら、家々を回って、幸福をもたらす。その代わりに彼らは、銭食をもらった。


いつのまにか安倍晴明は、"物吉村の守護神"となっていたのだ。


物吉村へ向かう

僕らは物吉村へ向かうのだが、先ほどの肉屋手前の路地は何度も通ったことがあるので、今回は別のルートで向かうことにする。

さて物吉村にあったという清円寺は、明治初期の廃仏毀釈で廃され、その跡地に晴明社という社(やしろ)だけが残されたという。

とにかく僕らはそこへ向かおう。




松原通を東へ進むと、北側に拾番小路という路地が現れた。いろんな京都散策ガイド本に、「京都は路地が面白い。見つけたら迷わず入れ。」と書いてある。

今回も迷わず入った。もちろん居住者もいるだろうから、静かにこっそりと。(当然だが、居住者にとっては迷惑なだけ。なので "静かに" は基本中の基本)




拾番小路を抜けて、新道通に出た。かつて新道小学校のあった通りだ。ちなみに京都では、"通り"のことを"通"と書く。なので"新道通"。とはいえ、声に出すのは"通り"のままなので、ホントややこしい。




新道通に出たら、西へ少し戻ろう。もうこの左側は物吉村だ。そして右側は・・・




右側すなわち北側を見た。通りの右側の工事現場は、新道小学校のあった所。今後はホテルなどの商業施設ができるらしい。

そしてこの先の左側は、かつて宮川花街の歌舞練場のあったところ。ここも今は工事中で、新しい歌舞練場ができるらしい。


物吉村のセイメイさん

さて振り返って南側を見ると、そこは物吉村。かつては長棟堂という癩者の保護施設があったらしい。清水寺参詣曼荼羅には、ちゃんとその建物が描かれている。

そこに癩者はモノヨシとなって住んでいた。彼らは社会的弱者として抑圧された存在だったので、心身ともに救ってくれる存在が必要だった。それが安倍晴明だ。




この駐車場と周囲一帯が物吉村。ここに清円寺と安倍晴明のお墓があった。そのお墓は"塚"となって、土盛りされていたので、鴨川の河原からもよく見えていたという。

しかし明治の廃仏毀釈で清円寺は廃され、そこに安倍晴明を祀る晴明社(せいめいしゃ)ができた。日本全国どこでも同じような事が起きたが、本当に変な事をしたものだ。




駐車場のゲートには、「無断立ち入り禁止」と大きく書かれていた。しかし僕は以前、所有者から「セイメイさんのお参りだったら、立ち寄って良い」と許可を得ている。

なので入らせてもらった。

駐車場の奥まで行くと、社(やしろ)があった。地元民の間では「セイメイさん」と呼ばれているらしい。これがまさに晴明社で間違いないだろう。昔の清円寺の名残りだ。




セイメイさんを正面から。ここにきちんと安倍晴明は生きていた。物吉村の住民を救う守護神として。今も地元民にひそかに慕われていた。

ただそこにはもう塚は無い。どこに行ったのだろうか。遺骨は?まだまだ謎の多い場所だ。ここは密かな異界と呼ぶに相応しい場所だろう。




また駐車場入り口に戻って、全体を眺めておこう。ところで、廃仏毀釈によって清円寺が廃されたとき、すべてがバラバラに移されてしまった。

例えば、仏像や安倍晴明像などは長仙院へ。寺名などの法統は法城山心光寺へ。そして地元民の信仰は晴明社(セイメイさん)といった具合だ。

さらに付け加えるなら、鴨川治水の"祈願寺"としての機能は、仲源寺(通称、目やみ地蔵)に移ったと言っていい。今からそれらを訪ねて回ろう。


宮川通を北上する

まずは鴨川治水の祈願機能が移った仲源寺へ行き、それから仏像などが移った長仙院へ、最後に法統が移った心光寺へ行くことにする。

早速、宮川通を北上しよう。




物吉村から西へ進み、途中クランクした路地を入ると、そこはもう宮川町だ。左右に美しい佇まいのお茶屋さんが並んでいる。




またお地蔵さんを見つけた。綺麗に整備されている。信仰が息づいているのだろう。そのまま北上しよう。




交差点に出た所で、南へ振り返ってみた。良い感じの街並みだ。先斗町祇園東みたいに、雑然としていないのが嬉しい。

では通りを渡って、引き続き北上しよう。




団栗橋に出た。ここで宮川通は終わる。右折して大和大路通へ向かおう。




ここからは大和大路通を北上する。ちなみに反対側の南側に行けば、大和の国に到着するので、大和大路という名が付いたという。

かつては主要街道だったわけだ。ただ、この辺りは四条通に近いので、繁華街になってしまい、かつての面影を探すのは苦労する。


仲源寺

四条通に出たら、すぐ右側に仲源寺がある。まさに"隠れ家的"な寺院で、四条通沿いにあるというのに、観光客はほぼ立ち寄らない。

ただ鴨川治水の祈願寺としては格が違った。何せ、安倍晴明の掌っていた法城寺の機能を引き継いでいたからだ。早速入っていこう。




入り口の左側に、大きな石柱があり、「めやみ地蔵尊」と書いてある。地元民の間では、そう呼ばれているらしい。

雨を止めた事から「雨止み(あめやみ)地蔵」と呼ばれるようになり、いつしか転じて「めやみ地蔵」になったという。




それは安貞2年(1228年)のこと。大雨で鴨川が洪水になってしまった。そこで中原為兼が、河原のお地蔵さんに"雨止み"を祈願すると、雨がやんで、洪水も治まったという。

その霊験あらたかなお地蔵さんは、いつしか「雨やみ地蔵」と呼ばれるようになった。さらには朝廷から、中原の名字をもじり、「仲源寺」という寺号まで下賜されたという。




やがて天正13年、豊臣秀吉の命令により現在地に移転された。秀吉の京都大改造の一環だろう。

時が流れると、"目やみ"すなわち"目の病が止む"という事で、眼病患者で大いに盛況したという。




最後は高台寺の前身「雲居寺」から移ってきた千手観音像。その大きさには本当に驚く。平安時代後期の作で国指定重要文化財とのこと。

さて安倍晴明の掌っていた鴨川治水の機能は、こうして仲源寺に移り、さらに眼病治癒の機能まで加えながら、鴨川河畔で発展していった。


再び鴨川を渡る

今度は、清円寺にあった仏像や安倍晴明像などが移ったという長仙院に向かおう。それには、再び鴨川を渡って、先斗町を北上する事になる。

という訳で、四条大橋を渡るのだが、この橋の周囲は近代建築に囲まれている。どれも建築書に取り上げられている有名建築。早速見ていこう。




まずは東岸に鎮座する南座から。昭和4年に建てられたという歴史的建造物だ。もちろん国登録有形文化財に指定されている。

江戸時代初期の慶長年間から、この場所で歌舞伎興行を続けてきたという。まさに日本最古の伝統を持つ建物と言えるだろう。




続いて、同じく東岸の北側に建っているレストラン菊水。こちらは大正5年に建てられたという歴史的建造物だ。

その当時から今も変わらず、洋食レストランを続けているという老舗。本当に京都はすごい。国登録有形文化財




3件目は西岸南側に建っている東華彩館。こちらは大正15年に建てられたという歴史的建造物だ。

何といっても設計はウィリアム・メレル・ヴォーリズ。教会建築が多いなか商業ビルは希少だろう。




鴨川を渡る。それにしても、3件も歴史的建造物が並んでいるなんて凄いね。なお遠くにチラッと見えている橋は三条大橋


先斗町を北上する

西岸に渡ったら、もうそこは先斗町だ。"ぽんとちょう"という名前は、あまりにも有名で、誰もが知っているだろう。まさに京都を代表する花街の一つ。では入っていこう。




入っていくと、まず驚くのは道の狭さ。ギリギリようやくすれ違える狭さだ。この幅に何件もお店が並んでいる、という風景は本当に凄い。




ただ繁華街に近いせいか、どんどんお茶屋さんは廃れてしまい、今は少ししか残っていないようだ。もっぱらバーやレストランが多い。

とはいえ、鴨川に面するという京都トップクラスの立地なので高級店舗ばかり。なかなか一般客は入りづらい。まぁ観光客は多いけど。




やがて歩いて行くと、先斗町歌舞練場に到着した。この建物も、大正14年に着工して、昭和2年に完成したという歴史的建造物。

踊りの稽古のほか、年に一回の「鴨川をどり」の発表会場としても有名だ。本当は鴨川の対岸に行けば、特徴がよく分かるのだが。


瑞泉寺

先を急ぐので、先斗町歌舞練場を離れて、龍馬通を西へ向かおう。ところがすぐ北側に、瑞泉寺というお寺があった。

豊臣秀吉に斬首された豊臣秀次にまつわる場所だという。悲劇の場所とあらば寄らない訳にはいかない。寄ってみよう。




瑞泉寺(その1)。まずは立派な山門から。龍馬通から、木屋町通を少し北に行けば、すぐに見えてくる。左側の大きな石柱には「豊臣秀次公之墓」。

豊臣秀次は、豊臣秀吉から謀反を疑われ切腹させられた。このお寺は、江戸時代に角倉了以により、秀次の菩提を弔うために建てられたという。




瑞泉寺(その2)。入るとすぐ右側に秀次のお墓があった。実は秀次だけじゃなく、子供から奥方まで家族39名すべて、豊臣秀吉により処刑されてしまった。

さらに秀次の首と39名の亡骸は、秀吉の命により、鴨川の河原に埋められた。それを知った角倉了以は、江戸時代、その場所に瑞泉寺を建てて弔ったという。




瑞泉寺(その3)。このお寺は、そんな恐ろしい由緒を秘めていた。もしかしたら、彼らの怨霊が地下に眠っているかもしれない。まさに異界というに相応しいだろう。




瑞泉寺(その4)。さらに一画には、「橋本左内訪問之地」の石碑もあった。幕末のことだが、橋本左内は、ここを定宿にしていた開明幕臣岩瀬忠震の意見を聞くために訪れたという。

二人は、一橋慶喜(後の15代将軍、徳川慶喜)の擁立で意見が一致し、その後は共に "一橋派"として活動していく事になる。幕末〜明治維新の舞台の一つになった場所とも言えるだろう。


龍馬通を西へ

引き続き、龍馬通を西へ進もう。この道は、坂本龍馬の史跡があるから、その名が付けられた。それを眺めながら進むことになる。




高瀬川を渡る橋のたもとに、「龍馬通」の看板。この先に、龍馬の拠点だった酢屋がある。その近所には暗殺された近江屋跡もある。さらには土佐藩邸も近い。龍馬通と呼ぶに相応しいだろう。




酢屋(その1)。歩いていくと、すぐ右側に坂本龍馬の拠点だった酢屋があった。代々続く材木商で、屋号が「酢屋」(お酢を売っていた訳ではない)。




酢屋(その2)。右側に石柱があり、「坂本龍馬寓居之跡」と書いてある。龍馬は、この2階に海援隊の屯所(京都本部)を置き、自身も2階の表通りに面した部屋を使っていたらしい。




酢屋(その3)。今は1階が店舗、2階が龍馬関係のギャラリーとして一般公開されている。当時も今も、そのまま酢屋が営業続けているとは、いかにも京都らしい。




やがて河原町通に到着するので、六角通まで少し南下しよう。この先に、坂本龍馬が暗殺された近江屋跡もある。

僕らはそこへは寄らず、六角通を西へ入って、長仙院に向かおう。


長仙院

六角通を西へ入ると、すぐ左側に長仙院がある。安倍晴明ゆかりの寺だ。晴明ファンには知られた寺で、ファンの訪問が絶えないらしい。では早速見てみよう。




長仙院(その1)。立派な表門が見えた。浄土真宗西山深草派の寺院で、創建年代などは不明。禁門の変の延焼により、一旦は本尊を焼失したが、明治初期に再建され、本尊などが遷されたという。




長仙院(その2)。明治初期の再建の際に、弓矢町の清円寺にあった阿弥陀如来像や安倍晴明坐像などの木像五体が移されたという。

弓矢町、というより物吉村の守護神として生きていた安倍晴明は、明治の廃仏毀釈を乗り越えて、この地にしっかり根付いていた。




長仙院(その3)。安倍晴明ゆかりの寺として名高い長仙院。ただ残念ながら、安倍晴明坐像などを見学するには、事前に申込みをしなければならない。

僕らのような、気まぐれな旅人には向かない寺だ。今回は残念ながら、表からの見学に留まる。いずれ事前申込みをして、しっかり見学したいものだ。


三条通を東へ

ではここからは、最後の目的地、心光寺へ向かおう。それには三条通を東へ向かわなければならない。言うまでもなく、三条通は日本の大動脈だった東海道から続いている道。かつては豪商が軒を連ね、大いに繁栄したという。

では早速歩き出そう。




歩き始めると、すぐ左側に池田屋事件跡の石碑と説明看板があった。池田屋事件のあった所だ。

言うまでもなく、池田屋事件とは、新撰組尊王攘夷派を襲撃した事件。あまりにも有名だろう。

その池田屋も今は無くなり、その跡地には、「池田屋 はなの舞」という居酒屋があるのみだ。




そのまま東へ歩いて、木屋町通を横断しよう。三条大橋はもうすぐだ。




三条大橋の手前に、古い町家造りの店舗が二軒並んでいるのだが、手前は「桔梗利 内藤商店」というホウキ・タワシの専門店だ。

創業は江戸時代の文政元年(1818年)というから200年以上!現在の建物も昭和初期らしい。1万8000円のホウキを売っていた。




その右隣は「船はしや」というお菓子屋さん。こちらの創業も明治38年という。いゃ立派な老舗なのだが、隣が江戸時代創業だと霞んでしまうかな(笑)。

五色豆というお菓子が有名らしい。他に豆菓子やあられなど色々。それに、町家造りの店舗も風情があって、非常に素晴らしい。やはり昭和初期だろうか。


三条大橋に到着

ついに三条大橋に到着する。先ほども言った通り、日本の大動脈だった東海道の片方の起点だ。政治、経済、情報などがすべて、この橋を通って入ってきた。京都を語るとき欠かせない橋だ。




擬宝珠の欄干が美しい三条大橋。遠くに東山も見えて雰囲気は良い。早速渡り始めたいところだが、まだ少し見ておきたい所がある。




橋の手前に、旧三条大橋の石柱と高札の説明看板があった。ここは多くの人が行き交うターミナルだったので、高札があったらしい。




道路を挟んだ南側には、弥次さん喜多さんの像。東海道中膝栗毛だね。




渡り始めると、すぐにこの擬宝珠。何かというと、池田屋事件の刀傷が付いているという。よく見ないと分からないが、擬宝珠の真ん中付近に、確かに付いている。立派な歴史的史跡だ。




どんどん渡っていこう。ちなみに鴨川を渡るのは、今日で3回目だ。


鴨川東岸へ

鴨川東岸に着いた。最終目的地の心光寺はもうすぐだ。




三条大橋を渡り終えると、目の前は川端通で、右手奥は京阪三条駅。言うまでもなく、かつては地上を走っていたのだが、今は地下鉄になってしまった。そのおかげで景色は良くなったが。




王法林寺(その1)。三条通を東へ進むと、立派な山門が見えてきた。檀王法林寺だ。この門は三条門というらしい。明治21年建立。

ここではないが、西側にある川端門は、有栖川宮親王の寄進により、明和3年に建立されたという。どうやら宮家由縁の寺という訳だ。




王法林寺(その2)。三条門をくぐると立派な楼門が待っていた。その豪快さは本当に見事。なお、門上部に掲げられた扁額「朝陽門」の文字は、山階宮親王の御筆という。やはり宮家由縁だ。明治21年建立。




王法林寺(その3)。こちらが本堂。建立は寛政3年頃というから、かなり古い歴史的建造物だ。京都市指定重要文化財

このお寺には、日本最古の黒招き猫がいる、という伝説があるという。ちょっと不思議なお寺だ。やはり異界と言って良い。


心光寺

ようやく最後の目的地、心光寺に到着した。正式名称は「法城山晴明堂心光寺」という。「法城山」という山号は、かつて鴨川の真ん中にあったという法城寺から取ったのだろう。しかも「晴明堂」という堂名まで付いている。完全に法統を継いだといって良い。

どんなお寺なのだろうか。




心光寺(その1)。憶えているだろう。平安時代安倍晴明が、鴨川治水のために、法城寺というお寺を、鴨川の真ん中付近に建てたことを。

残念ながら法城寺は、洪水で流された。そこで、弓矢町の中の物吉村に、清円寺を建てた。しかしそこも明治初期の廃仏毀釈で廃止された。




心光寺(その2)。そこで、鴨川治水の機能は仲源寺へ移った。安倍晴明像などの仏像は長仙院へ移った。そして法城寺などの寺名は、この寺に移った訳だ。

山号は「法城山」。堂名は「晴明堂」。まさにそのままだろう。伝説の安倍晴明は、様々な苦難を乗り越え、鴨川近くのこの地でも、しっかりと生きていた。




心光寺(その3)。安倍晴明は、法城寺では鴨川の洪水を抑えて人々を救ってきた。清円寺では物吉村の守護神として癩者を救ってきた。

つまり、社会的弱者を救済するのが彼の役割だった。立ち直れないほどの弱者を・・・。この下京周辺では、そんな風に伝えられてきた。

それは彼が不思議な力を持ったヒーローだったからだろう。いつの時代も、弱者には苦しみを救ってくれるヒーローが必要だった。

この現代でも、安倍晴明が人気なのは、救いを求める人が多いからだろう。今日もここに晴明の"気"を求めてファンが訪れる事だろう。


〜〜〜終わり〜〜〜


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