京都の異界を歩く

ちょっと変わった京都の探訪記です

竹田の子守唄を歩く(その2)〜吉祥編〜

竹田の子守唄を歩く(その1)〜久世編〜からの続き>


赤い鳥が歌って大ヒットした「竹田の子守唄」。その原曲には次のような歌詞があった。

「久世の大根めし 吉祥(きっちょ)の菜めし またも竹田のもんば飯」

その順番通り、久世から吉祥を経て竹田へ歩いていこう、というブログの第2回目だ。


今回は吉祥周辺を歩いてみよう。


久世橋から歩き始める

久世橋に到着する。桂川に架かっている橋は意外と少ないので貴重な橋だ。もちろん交通量も多い。僕らはこの橋を渡って、北東方向の吉祥を目指すことになる。




久世橋を歩き始めた。鉄骨トラスが見事で、とても迫力がある。昭和29年完成というから、立派な近代建築といえるだろう。

橋マニアの間でも名橋として知られているらしい。確かに鉄骨トラスは人工美を感じる。しばらくトラス橋を堪能しよう。




橋の上から桂川の上流方向を眺めてみた。あまりにも雄大で、完全に湖のようだ。まさに大河と言うに相応しい。これだけでも見に来る価値がある。




やがて橋を渡り終えたので振り返った。ちなみに昭和29年完成のトラス橋は、北側にある東行きだけ(写真正面)。

南側の西行き(写真左側)は、後からできた普通の橋で、一応「新久世橋」という名前まで付いて区別されている。


西国街道を北上する

久世橋を渡り終えると、すぐ左側に西国街道がある。京都を起点に、西宮を経て、九州まで続く街道だ。ここからは、その道を北上して祥鳥橋通を目指そう。




旧街道に見えないが、この道が西国街道だ。すぐ左側は桂川の河川敷。では歩き始めよう。




すぐ右側に立派な屋敷が現れた。古民家ではないが、旧家である事は間違いない。なぜなら奥に立派な蔵が建っている。大地主さんだったのだろう。




そのままどんどん北へ進もう。左側は相変わらず桂川の堤防だ。




すぐ左側にお地蔵さんが現れた。モルタル製の祠は珍しい。ところで後ろの樹は御神木なのだろうか。




しばらく歩くと、また左側に愛宕山大権現の常夜灯だ。これを見ると、旧街道らしさが感じられるね。




良い感じの町家もあった。戦後の築だろうけど。この辺りに古民家が少ないのは、桂川堤防工事の関係もあるのだろう。


祥鳥橋通を東へ進む

やがて祥鳥橋通に到着する。戦後に新しくできた道らしい。それを東へ進めば、吉祥はもうすぐだ。




祥鳥橋通が現れた。この道をまっすぐ進もう。




すぐ左側に古い民家があった。戦後の築かもしれないが、屋根の形が良い感じだ。




やがて大きな道路が現れた。西国街道のバイパスとして、新しく造られた道らしい。交通量も多い。ここはそのまま横断して東へ進もう。


吉祥に到着する

ようやく吉祥に到着する。正しくは吉祥院(きっしょういん)と言うらしい。僕らは歌にあわせて吉祥と呼んでいるが・・・。

「吉祥の菜めし」と歌われた吉祥。貧しかったので、「菜めし」、つまり「大根葉」しか食べられなかった事が歌になったという。


その痕跡は残っているのだろうか。




吉祥に入ると、すぐ右側にプランターだらけの長屋があった。これは凄い。ここまでやると見事という他ない。




続いて左側に、塀に囲まれた和風豪邸が現れた。昔ながらの地元民ではなく、おそらく新しい住民だろう。このように吉祥も変貌している訳だ。




その右側に京都市吉祥院浴場があった。かつては貧しい地域だったので、どの家にもお風呂が無かった。

そこで、衛生環境改善のために、京都市が建てたものだ。こういった京都市の施策は、本当に素晴らしい。




さらに、「吉祥院いきいきセンター」という施設もあった。地域のコミュニティ施設として、京都市が建てたものだ。これも京都市の福祉行政の成果と言えるだろう。


西教寺

地域住民の心の拠り所となったであろう神社仏閣。ここには西教寺というお寺があった。早速見てみよう。




西教寺(その1)。浄土真宗本願寺派の寺院で、正しくは麻布山西教寺という。詳しい由緒は分からない。




西教寺(その2)。立派な山門。犬矢来が良い感じだ。残念ながら門が閉まっていて、中は伺うことができなかった。




西教寺(その3)。鐘楼も建っていて、一通りのものは揃っているようだ。かつて地域の行事などは、このお寺が中心になって行われたのだろう。心の拠り所だったはずだ。


吉祥の畑

竹田の子守唄で、「吉祥の菜めし」と歌われた吉祥。「菜めし」とは大根葉を混ぜた麦飯らしい。それしか食べられないほど、貧困だったという。

戦後すぐの写真をみると、この辺り一帯は、純農村地帯だったようだ。畑の中に集落が点在していた。どこかに、その名残りはないだろうか。




吉祥の畑(その1)。探し回ってみると、一カ所だけ畑が見つかった。それほど住宅地化が激しかったのだろう。僕としては、残っているだけでも嬉しい。




吉祥の畑(その2)。国交省の空撮写真を見ると、昭和の高度経済成長期に、住宅が建ち並んでいったようだ。日本全国どこも同じだね。やがて写真のようにマンションまで建つようになっていった。




吉祥の畑(その3)。そんな中、こうして、まとまった畑が残っているだけでも奇跡的だろう。ここで、しばらく「菜めし」を思い浮かべて過ごそうか。


吉祥を出て東へ

吉祥を歩き回ったので、次なる目的地の竹田へ向かおう。それには、吉祥橋通を東へ進んでから、千本通を南下することになる。


まずは吉祥橋通を目指そう。




という訳で、畑の前の道を、東へ歩き始めた。




すると、すぐに変則的な交差点にぶつかった。クランク交差点が二つ連続しているような形状だ。1つ目の交差点は直進して、2つ目の交差点は右折する事になる。

ここで注目したいのは、北から合流してきた道だ(写真中央)。これは洛中の西大路から南下してきた道で、「西院(さい)の河原」のある高山寺と直接繋がっている。


ここは京都の西の果てという訳だ。




二つ目の交差点を右折しよう。この道は西大路を南下してきた道で、まっすぐ進むと「賽の河原」に通ずる、という伝承もあるらしい。

賽をもじって西院になった、とも言われている。いずれにしろ京都の西の果て、という事に違いない。僕らはその道を南へ進んでいく。


祥鳥橋通を東へ

やがて吉祥橋通が現れる。先ほども歩いてきた道だ。ここを東へ進んで、千本通を目指そう。




この道が吉鳥橋通。周りは普通の住宅街のようだ。東へ歩き始めよう。




しばらく歩くと、西高瀬川が現れた。ここは吉祥院下水処理場を中心としたY字河川エリア。写真は下流側を眺めたところで、反対側に下水処理場がある。

西高瀬川は、嵐山で桂川から取水して、伏見で鴨川に合流する人工河川。途中の千本通三条までは角倉了以が造成して、下流は明治3年に京都府が造成した。




上流側には下水処理場が見えた。昭和9年に造られた京都市最古の下水処理場だ。ここや鳥羽で処理された下水は、淀川水系に放流される。

ところで下流大阪府は、さらにその水を取水して、飲用水として使っている。もちろん浄水場で処理された水だから、安心して良いのだが。




また下流側にミニ河川が現れた。Y字エリアの右側だ。すぐ先でY字の合流部分が見える。

京都は意外と河川が多い。"水の都"と言う人もいるくらいだ。それを調べた本も出ている。




ではY字河川エリアを過ぎて、そのまま東へ向かおう。千本通はすぐそこだ。



(続きは「竹田の子守唄を歩く(その3)~千本通編~」へ


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