京都の異界を歩く

ちょっと変わった京都の探訪記です

竹田の子守唄を歩く(その4)〜竹田編〜

竹田の子守唄を歩く(その3)〜千本通編〜からの続き>


ついに今回が最終回。今まで「竹田の子守唄」の原曲の歌詞の順に、久世から吉祥を経て、千本通をひたすら歩いてきた。

最終回の今回は、千本通を離れて、竹田へ向かって歩く。歌のタイトルとなった竹田とは、一体どんな所なのだろうか。


小枝橋から歩き始める

鴨川にかかる小枝橋。京都の玄関口なので、地政学的にとても重要な橋だ。それが明らかになったのは、戊辰戦争だろう。

大阪から千本通を北上してきた幕府軍に対し、小枝橋を渡らせまいと薩摩軍が待ち構えていた。小枝橋の戦いが始まる。




京都側から小枝橋を渡り始めた。南側の風景を見ておこう。鴨川が見渡す限り広がっていて、空も広く開放的だ。ここで戦があったとは、とても思えない。

しかし戊辰戦争の発端となった「鳥羽伏見の戦い」は、ここから始まった。この左奥一帯で幕府軍と薩摩軍が衝突。京都へ入れまいとする薩摩軍が勝利した。




渡り終えると、すぐに堤防上の道を右折して、少し南下しよう。ちなみに、このままもっと南下すると、桂川との合流点に行き着く。

そこは、かつて「佐比(賽)の河原」と呼ばれ、京都庶民の死体捨て場だったらしい。まだ火葬が一般化する前の平安時代の話だ。

死者が出ると、千本通を運び、「賽の河原」で川に捨てる。死体は淀川を流れ下り、やがて海へ、そのまま黄泉の国へ、という発想だ。


のどかな風景に見えるが、そんな場所でもあった。




少し歩いてから右側を見た。この景色のあたりに旧小枝橋があったはず。今の小枝橋は平成に入って新しくできたもので、それまではここにあったようだ。

京都の玄関口だったために、戊辰戦争の舞台になったり、死者を運ぶ葬送ルートになったりと、暗いイメージだが、実際は、野の花咲くのどかな場所だった。




それでは左折して、この道を東へを進もう。やがて城南宮に到達するので、「城南宮通」と呼ばれているらしい。


立派な商家

その交差点の右側に、立派な商家があった。他人の家だが、古民家ファンの僕は非常に気になる。ちょっと見てみよう。




幾つもの建物が重曹的に連なっている。一体何棟あるのかも分からない。おそらく、かなりの豪商だったのだろう。

まず蔵が何棟もあるようだ。それに煙抜きのある母屋も見える。他は離れだろう。煙抜きがあるという事は明治か。




表側へ回ってみた。人影が見えたら声をかけてみるところだが、今回はそれも叶わなかった。なので、この家の由緒や家柄などは分からない。




この母屋の大きさは半端ない。何を営んでいたのだろうか。由緒ある千本通沿いで、しかも小枝橋の"たもと"という重要な立地。よほどの豪商だったに違いない。


鳥羽伏見の戦い勃発地の碑

そのまま東へ進むと、「鳥羽伏見の戦い勃発地の碑」の建っている交差点に着く。幕府軍と薩摩軍の間で心理戦、つまり駆け引きが行なわれた末に、幕府軍が暴発して、戦いが始まった。まさにここが戦場だった。




ご丁寧に説明用として、石柱2本、石碑1基、それに駒札(駒形の説明看板)まで設置されていた。重要さが伝わってくる。




駒札には詳しい説明があってありがたい。それによると、最初の暴発は、この先の赤池交差点付近だったらしい。

それを合図に、鳥羽離宮から、この交差点にかけてが、戦場になった。それは錦の御旗が掲げられるまで続いた。




もう一つ、ここが重要地点なのは、城南宮があることだ。東へ歩けば、本当にすぐそこに、城南宮がある。

そして、西へ向かえば京都市内へ、南へ進めば大阪市へ。まさに交通の要衝。異界の交錯する場だった。




では、ここからは千本通を離れて、城南宮通を東へ進もう。まっすぐ行くと城南宮は近い。

だが、せっかくここまで来たのだ。鳥羽離宮に寄ってみよう。この先を右折すればすくだ。


鳥羽離宮公園

平安時代後期は院政時代と呼ばれている。白河上皇鳥羽上皇後鳥羽上皇が、天皇に代わって権勢を振るった。

その舞台となったのが鳥羽離宮天皇の坐す御所に代わって、新たな宮殿となった。政治の中心地として栄えた。


どんな所なのだろうか。行ってみよう。




鳥羽離宮公園の入り口にやって来た。離宮跡地の一部が公園になっているらしい。もちろん一部であって、実際の鳥羽離宮は、城南宮を含む地域全体だったようだ。とにかく入ってみよう。




中はだだっ広い芝生広場になっていた。ここには南殿という重要な屋敷が建っていたらしい。その発掘調査が終わった後、公園になった。こうして保存されているのは嬉しい。




激しい雨が降ってきた。とりあえず東屋で雨宿りする。この公園には池があって、写真の東屋が造られていた。

京都市埋蔵文化財研究所の作成した図面によると、当時も池があり、それに面した屋敷が建てられていたらしい。

おそらくこの東屋は、それをモチーフに造られたのだろう。京都市の担当者はちゃんと考えてるなと嬉しくなる。




もちろん公園内には、鳥羽伏見の戦い勃発の地の石碑もあった。この地は離宮跡地であり、戦場跡地でもあるという因縁。まさに京都ならではの異界と言える。


城南宮へ向かう

鳥羽離宮公園を出て、次なる目的地の城南宮へ向かう。竹田へ行くには必ず通らなければならない地点にある。先ほどの城南宮通まで戻って、東へ進もう。




歩き始めると、すぐに国道1号線に出た。正面に城南宮の大鳥居も見える。ただ交通量が多いので、北側交差点まで大迂回して渡ろう。




国道を渡って振り返ってみると、和菓子司「おせき餅」というお店が見えた。なんと創業450年!戦国時代から続くという超老舗の和菓子屋さん。

元々別の所にあったのだが、昭和7年京阪国道の開通の際、現在地に移ってきたらしい。名物はおせき餅。城南宮参拝の土産として有名とのこと。




それでは城南宮へ、いざ参らん。


城南宮

城南宮は創建不詳だが、平安時代白河上皇が鳥羽離宮を造営したとき既にあった、というから、相当古い古社だ。離宮の鎮守として栄えたらしい。




城南宮の大鳥居が現れた。左側は神苑、右側は駐車場になっている。
ここで一段と雨が強くなってきたので、斎館の軒先を借りて休憩した。




少し歩くと左側に駒札が二つ建っていた。古くて読みづらいが、城南宮の説明用と、鳥羽伏見の戦いの説明用らしい。

それによると、鳥羽伏見の戦いの際は、ここも薩摩軍の拠点になり、大砲などが置かれていたという。ここも戦場だった。




城南宮本殿に到着した。早速お参りしよう。屋根がとても優美なのは、平安後期の建築様式で建てられたからだという。今は交通安全の神様としても有名。




本殿を辞して、また東へ歩き始めると、すぐ右側に神苑の「楽水苑」の入り口が現れた。ここは美しい庭園で有名らしい。

源氏物語に描かれた草木が植えられ、「源氏物語 花の庭」として知られているという。残念ながら今日は雨なので通過する。




城南宮の東側にある鳥居までやって来た。今日は雨だったので、あまり見られなかったが、美しい庭もあるようなので、ぜひ再訪してみたい。


城南宮通を東へ向かう

朝一番にJR桂川駅を出発したが、もう夕方に近い。だがここまで来れば竹田はもうすぐだ。最終目的地まで、あとひと踏ん張り、頑張ろう。




第二京阪の下までやって来た。ここに城南宮への道標が建っていた。かなり大きな石柱だ。やはり地域で重要視されているのだろう。




それでは第二京阪の下をくぐろう。この高速道路は、国道1号線とほぼ並行して大阪に向かっているらしい。

ところで第二京阪があるのだから、第一京阪があるのかと思ったら、それは無かった。紛らわしいじゃないか。

国道1号線(通称、京阪国道)のバイパスとして造られたから、2番目の京阪国道、つまり第二京阪というらしい。




そのまま東へ進もう。周りはマンションが並んでいる。戦後すぐの空撮写真だと、この辺りは農地だらけだった。

やはり国道1号線第二京阪など、アクセスが良いからこうなったのだろう。それに近鉄京都線も近いはずだ。




と思ったら、北側に空き地が現れた。周りはマンションだらけなので異様だ。おそらく元は農地だったのだろう。

ここだけ開発に取り残された、といったところだろうか。かつては、辺り全体が農地だった、という事が窺われる。


竹田に到着する

ようやく竹田に到達する。「竹田の子守唄」の舞台になった竹田とは、どんなところなのだろうか。「竹田もんば飯」と歌われたもんば飯とは、どんな食事なのだろうか。ゆっくりと歩を進めてみよう。




まずは東高瀬川が現れた。言わずと知れた角倉了以が江戸初期に開削した運河。京都の物流に革命を起こした水運動脈だ。

こんな所でお目にかかれるとは、思いもよらなかった。さらに言うと、その上にかかっているコンクリート橋は近鉄京都線




という訳で、近鉄の踏切を渡ろう。この左側の方向に、近鉄竹田駅がある。僕は近鉄沿線に住んでいた事があるので、馴染みの路線だ。

もちろん竹田駅も、降りた事は無いが、よく聞く馴染みの駅名だった。なので、「竹田の子守唄」の由来を初めて聞いた時は衝撃を受けた。




踏切の先の交差点を左折すると、また東高瀬川にかかる橋が現れた。平地なのに川も曲折して進んでいるようだ。その辺りは、あまり人口河川らしくない。




高瀬川を橋の上から眺めておこう。昭和に入って河川改修工事が進んで、三面コンクリートになってしまった。

それはしょうがないが、緩やかな曲線の流路は、何かを物語っている。わずかな高低差があったからではないか。


竹田の畑

「竹田のもんば飯」と歌われた竹田。「もんば飯」とは、おからと麦などを混ぜたものらしい。おからは言うまでもなく大豆のカス。

いゃ、栄養価が高いことから、今では見直されているが、昔は捨てられていた。

「もんば飯」しか食べるものが無かったというが、大豆畑も多かったのだろうか。ついに見つけた畑を眺めながら想像してみたい。




橋を渡るとすぐ右側に、いきなり畑が広がった。今は何も植えられてないので、何の畑かは分からない。ただ耕作されてるのは間違いない。




続いて、また別の畑を見つけた。橋を渡って、すぐ左側のアパートの先だ。こんな大きな畑が残っているなんて嬉しい。

きちんと耕作もされているようだ。まだ農家が残っているのだろう。ここでしばらく、もんば飯を思い浮かべようか。




中央に農道らしきものも見える。その段差から言って、おそらく昔は田んぼだったのではないだろうか。

稲作は大変なので、田んぼを畑に転用したのだろう。もちろん、それは全国の農村で見られた風景だった。




かつては、このような田んぼが、一面に広がっていたことだろう。「竹田の子守唄」の "原風景" がここにあった。

それは昭和の高度経済成長期に一気に失われ、辺り一帯は住宅地になった。面影を見つけるのも至難の業だろう。

もはや竹田の畑は、ここしか残っていない。しばらく佇んでいく事にした。近鉄電車が通っていくのを眺めながら。


竹田の集合住宅へ向かう

ではここから、竹田の中心地区へ向かおう。それは市営住宅の建っているエリアだ。昔の名残は残っているだろうか。




という訳で、また元の道に戻ろう。既に遠くに市営住宅が見えている・・・。




やがて、また近鉄の踏切が現れるので、ここを渡ると、、、




すぐに竹田の市営住宅が現れた。ここはまだ外れのほうで、他に何棟も建っているのが見える。いずれも、かつての劣悪な居住環境を改善するために、京都市が建てたものだ。


竹田の路地を歩く

この辺りには、市営住宅だけてはなく、古い住宅地もあるようだ。何かが残されてるかもしれない。路地を入ってみよう。




京都の街歩きの本などを読むと、必ず「京都は路地が面白い。路地を見つけたら迷わず入れ」などと書いてある。

僕も同じ意見で、過去に何度も、路地で面白いものを見つけてきた。なれば、この道の狭さは間違いないだろう。




すぐ右側に路地が現れたので曲がってみた。やはり古い町家が建ち並んでいる。これは嬉しい。

主に昭和の建物だろうが、一番右手前の町家は古そうだ。もしかしたら明治か大正かもしれない。


古い竹田の面影を見たようだ。




右側にお地蔵さんもあった。綺麗に整備されていて、信仰が続いているのだろう。やはりこの一画こそ、竹田の原風景に違いない。


松尾神社

竹田の原風景といえば、神社仏閣も忘れてはならない。地域住民の心の拠り所として、絶大な存在だったはずだ。ここでは松尾神社が中心地にあるらしい。行ってみよう。




吉仲商店と改進中央緑地の間に参道があった。右側に大きく松尾神社の石柱。この名前だと、有名な松尾大社を思い浮かべてしまうが、どうやら関係ないらしい。


では入ってみよう。




創建年代は不明だが、昔からこの場所にあったようだ。祭神は木花開耶姫命。立派は本殿を含めて、綺麗に整備されている。信仰が続いているのだろう。




こちらは西側の参道入口。やはり綺麗に整備され、地域の信仰が窺われる。


松尾神社。とても良い雰囲気だった。


再び竹田を歩き回る

ここから再び竹田の中心地を見て回ろう。松尾神社の周りに、いろいろなものが残っているようだ。




まずは松尾神社の北隣にある吉仲商店。なんと焼肉屋さんらしい。見事な入母屋屋根の和風建築なので、そんなふうには見えないが(笑)




そして焼肉屋さんの向かい側には、超立派な市営住宅が建っていた。もはやマンションと言っていいレベル。

もちろんここも、劣悪な住環境を改善するために、京都市が建てたものだ。本当に京都市の施策は素晴らしい。




市営住宅の南隣には、西教寺というお寺もあった。浄土真宗本願寺派の寺院とのこと。ここも地域の拠り所だったことだろう。




松尾神社の北側には、京都市立改進浴場。ここも地域の衛生環境改善のために、京都市が建てたものだ。

ところで改進浴場の「改進」とは、改進地区という名前から。

改進とは、いかにも行政が後から付けた、という雰囲気が溢れている。昔ながらの竹田の方が良くないか。


改進中央緑地

松尾神社の南側には、改進中央緑地という大きな広場がある。ちょっとした公園になっているようだ。目を引く建物が見えるので入ってみよう。




まず見つけたのは、火の見やぐら。これは珍しい。きちんも説明看板もあって、それによると、名前は「竹田火の見やぐら」。大正12年築で、国登録有形文化財とのこと。これも地域のシンボルだったのだろう。




火の見やぐらの隣には、レンガ造の建物があった。かなり古そうで、大正時代かもしれない。「展示室」と書かれているが、何だったのだろう?

僕の勝手な想像だと、最初は消防団の倉庫として建てられ、消防団が無くなった後は、竹田地区の資料館として使われてきたのではないか。




ところで改進中央緑地は、だだっ広い草地になっている。一部は公園のようだが、あまり使われていないようだ。

戦後の空撮写真を見ると、ここも住宅地だった。今の市営住宅ができたので、解体撤去され、公園になったらしい。




改進中央緑地の東隣には、「いきいきセンター別館」があった。ここも地域のコミュニティ施設として、京都市が建てたものだ。

同じ名前の施設は、久世にも吉祥にもあったので、京都市は積極的に建てていった事が分かる。京都市の福祉行政の成果だろう。


近鉄をくぐって東へ

いきいきセンター本館というのが、もっと東側にあるらしい。そこを目指して歩いていこう。




いつのまにか近鉄は高架になっていた。そこをくぐっていく。


ところで、近鉄京都線が開業したのは昭和3年だが、すでにその当時から、この辺りは高架になっていたようだ。

この先で竹田街道と交差するのだが、当時は街道を市電が走っていたので、平面交差になるのを防ぐためらしい。

という事は、この高架橋もその頃のものか。表面はモルタルや鉄板で化粧されているが、中身は昔のままだろう。




などと想像しながら東側へ歩いていくと、古い町家が連なっていた。昭和に入ってからだろうが、良い感じの町家が並んでいる。

特に後で分かったことだが、中央の白壁の民家は、ゲストハウスになっていた。京都は本当に凄い。どんな所でも宿屋になれる。




ついに「いきいきセンター本館」に到着した。今回の旅の最終目的地みたいなものだ。

「いきいき」という名前はどうかと思うが、京都市の福祉政策の素晴らしさが実感できる。

今でこそハコモノ政策は嫌われているが、貧しかった時代においては必須だったのだろう。


竹田を出て近鉄伏見駅

これから帰路に着く。竹田街道を歩いて、近鉄伏見駅を目指そう。




いきいきセンターの前の道は国道24号線。実は、かつての竹田街道だ。その道を南下すると、すぐに再び近鉄の高架が現れた。




そのまま南下すると、すぐに七瀬川を渡る。小さい川だが自然河川で、川沿いは遊歩道も整備されていた。




そのまま真っ直ぐ進むと、変則交差点が現れた。竹田街道は真っ直ぐ進むが、僕らはこの先を左折する。

ところで前も言ったが、かつてこの道を市電が走っていた。明治28年に開業した京都市電伏見線だ。

日本初の路面電車だったのだが、昭和45年に廃止され、50年以上も経過した。もはや何の面影もない。




左折してしばらく歩くと、良い感じの長屋が連なっていた。これは京都だけではなく、関西に多いスタイルだ。戦後すぐに建てられ、ほとんど賃貸のようだ。




ついに近鉄京都線伏見駅に到着した。先ほども言ったように、この高架も昭和3年に造られたものだ。

今回改めて感じたのは、京都市の福祉政策の素晴らしさ。あの時代によく細やかな対策が取られたと思う。

それにしても、朝一番から歩き始めて、もはや夕方になっていた。体は非常に疲れたが、心は満足していた。

〜〜〜 終わり 〜〜〜



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